第46話 湯気の中で
「……っ」
急に体に重力が戻り、私に完全な主導権が返還された。
視界がクリアになり、状況を正確に認識する。
狭い湯船の中。目の前には、お湯に濡れた前髪をかき上げる健太郎さんがいる。そして、私自身も一糸纏わぬ姿で、彼と至近距離で向かい合っている。
「おかえり、結衣。そーぽよちゃんは帰った?」
健太郎さんが、優しく、そして少しだけからかうような笑みを浮かべて私を見た。
「ひゃ、ひゃああっ……!」
私は顔から火が噴き出すほどの羞恥心に襲われた。
両手で顔を覆い、バシャバシャと激しく水しぶきを上げながら彼に背を向ける。そして、そのままお湯の中にぶくぶくと鼻の頭まで沈み込んだ。
(恥ずかしい! 恥ずかしすぎます! いくら夫婦とはいえ、明るい浴室でこんな無防備な状態で向かい合っているなんて!)
お湯の中で身を縮め、完全に茹でダコ状態になっていると、背後でザバァ、とお湯が波打つ音がした。
「あはは、隠れなくてもいいのに」
次の瞬間。私の背中に、逞しく温かい胸板がぴたりと密着した。
「……っ!?」
健太郎さんが後ろから私の体を包み込むように、お腹のあたりに強い腕を回してきたのだ。お湯の温かさとは全く違う、彼自身の熱が背中からダイレクトに伝わってくる。
「け、健太郎さんっ! 倫理観がっ、離れてください! 心臓に悪いです! それに、こんなに密着しては早くにのぼせてしまいますし……!」
私はお湯から顔を出し、引き攣った声で抗議した。しかし、彼に抱きしめられている安心感と心地よさからか、私の声には彼を本気で拒絶するような力は全くこもっていなかった。
「倫理観なんて、今はお休みでいいだろ? 夫婦のお風呂時間なんだから」
健太郎さんは私の肩に顎を乗せ、耳元で甘く囁いた。
「そーぽよちゃんとのお風呂もドキドキしたけど……やっぱり、こうして結衣が照れて真っ赤になってるのを見るのが、俺は一番好きだな」
耳元に吹きかかる熱い吐息と、低く響く彼の声に、私の体はビクッと跳ねた。
「結衣の心臓の音、背中越しにすごく伝わってくるよ。俺のこと、そんなに意識してくれてるの?」
「そ、それは……お湯が熱いからで……!」
「ふふっ。結衣は本当にこういう時、素直じゃないけど……すごく可愛い」
ギュッと、彼に抱きしめられる力が強くなる。
私の頭の中で、先ほどのソニアの言葉が蘇った。
『ゆいぽんだって、本当はもっと夫ちゃんとイチャイチャしたいっしょ?』
……その通りだ。私は、健太郎さんに触れられて、すごく嬉しい。
完璧な妻であろうとする建前も、恥じらいも、この温かいお湯の中にすべて溶かしてしまいたい。彼にもっと、私の本当の気持ちを伝えたい。彼が私を丸ごと愛してくれるように、私ももっと彼に素直になりたい。
私は深呼吸をして、覚悟を決めた。
健太郎さんの腕から逃げるのをやめ、ゆっくりと彼の広い胸に背中を預ける。
そして、体は同じ方向を向いたまま、首だけを後ろへと振り返らせた。
「……結衣?」
健太郎さんが不思議そうに私を見つめる。二人の顔の距離は、ほんの数センチだ。濡れたまつ毛の震えまでわかるほどの近さ。
私は限界まで赤くなった顔を誤魔化すこともせず、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……私も、健太郎さんと一緒にお風呂に入れて……嬉しい、です」
お風呂場の反響音に消え入りそうな、小さな声だったかもしれない。
けれど、これが私の、偽りのない本音。
私はそのままゆっくりと目を閉じ、少しだけ背伸びをするようにして、彼の唇にそっと自分の唇を重ねた。
ソニアのような遊び半分の口移しのおねだりじゃない。
私自身の意思で、彼への愛おしさをすべて込めた、不器用で真っ直ぐなキスだった。
「……っ」
健太郎さんの喉の奥から、小さく息を呑む音が聞こえた。
ほんの触れるだけのキスの後、私が恥ずかしさで顔を戻そうとした瞬間、彼の大きな手が私の顎を優しく、けれど逃がさないように捉えた。
「結衣からキスしてくれるなんて……」
彼の瞳には、抑えきれない熱と深い愛情が揺らめいていた。
「これ以上、俺が理性を保てると思わないでね」
「……保たなくて、いいです」
私が極小の声でそう答えると、健太郎さんは私の体を正面から抱き寄せ直した。
ザバァッ! と大きくお湯が跳ねる音と共に、今度は彼から、先ほどよりもずっと深く、情熱的なキスが降ってきた。
お湯の熱気なのか、彼自身の熱なのか、もうわからない。
私は彼にしがみつき、溺れるようにその熱を受け入れた。
「結衣……すごく綺麗だ」
「健太郎、さん……っ、んっ……」
完璧な公務員という厚い殻は、バスルームの白い湯気の中へと完全に消え去った。
ソニアの強引なお節介から始まったお風呂の時間は、いつしか私たち夫婦だけの、誰にも邪魔されない最高に甘く、熱い夜へと溶け込んでいった。
リビングに置き去りにされたオレンジジュースのグラスの氷が、カランと音を立てて溶ける頃。
私たちは、互いの肌の温もりと深い愛情を、心ゆくまで確かめ合っていたのだった。




