第43話 魅了
「ただいま、結衣。……あれ、それ俺のシャツ?」
リビングに入ってきた健太郎さんが、ネクタイを緩めながら不思議そうに目を丸くした。
「おかえりなさい。……はい。少し、お借りしました」
私は顔が熱くなるのを感じながら、精一杯平静を装って答えた。
健太郎さんが鞄を置き、疲れたようにソファに腰を下ろす。いつもなら、ここですぐにお茶を淹れるのが完璧な妻としてのルーティンだ。
しかし、今の私は『勝負下着』という最強の隠し装備を身につけている。
〈行くわよ、ゆいぽん!〉
脳内のソニアの掛け声に合わせて、私はソファに座る健太郎さんの前へ進み出た。そして、「えいっ」と小さく声を出し、彼の膝の上に跨るようにして、少し大胆に座り込んだ。
「おわっ!?」
突然の私の行動に、健太郎さんは目を見開いた。
「結衣!? お、今日の結衣は随分と積極的だね。もしかして、今はそーぽよちゃん?」
「……ううん、私です」
私は首を横に振り、彼の肩にそっと手を置いた。
その瞬間、私が羽織っていた大きめのYシャツの襟元が、ふわりとはだけた。
「……えっ」
健太郎さんの視線が、私の胸元でピタリと止まる。
大きめの白いシャツの下から覗く、肌が透ける漆黒のレース。普段の地味な私からは絶対に想像できない、過激で艶やかな下着。
私は恥ずかしさで心臓が破裂しそうになりながらも、勇気を振り絞って彼を見上げ、上目遣いで問いかけた。
「ソニアに選んでもらったんですけど……似合います、か?」
沈黙が落ちた。
健太郎さんは息を呑み、信じられないものを見るような目で私を見つめている。やがて、彼の喉仏がゴクリと上下に動いた。
「……似合いすぎてる」
掠れた、低く熱を帯びた声だった。
「普段あんなにガードの堅い結衣が、俺のシャツの下にそんなセクシーなもの着込んで、自分から誘ってくるなんて……反則だろ」
健太郎さんの大きな手が、私の腰を強く引き寄せた。彼から、普段の余裕のある営業スマイルが完全に消え去っている。
「……わるいけど。今日は、寝かさないよ」
「あっ……」
甘く、濃厚なキスが降ってくる。理性の糸が完全に焼き切れた彼に身を委ねながら、私は心の中で、親友の完璧なプロデュースに最大の賛辞を送っていた。
+++
翌日。
豊春県緑川市役所、市民生活部・戸籍住民課。
いつものように窓口に座る私の心は、春の陽気のように晴れやかで、体が羽のように軽かった。
昨夜の甘い余韻が残っているのもあるが、何より、私の中に確かな自信と余裕が生まれていた。鏡を見るのが嫌いだった私が、今日の朝は、少しだけ時間をかけて丁寧にメイクをしてしまったほどだ。
「あー、もう……この申請書、なんでこんなに記入欄がわかりにくいんですか……」
隣のデスクで、新卒一年目の後輩、星草ララが小さなため息をつきながら、複雑なフォーマットの書類と睨み合っていた。
普段の私――『氷の窓口担当』なら、ここで「マニュアルの三十八ページを参照し、手順通りに進めてください」と冷たく言い放つところだ。私が無言で視線を向けると、ララはそれに気づき、「ひっ、す、すみません! すぐやります!」とビクッと肩を揺らした。
しかし、私は椅子を少し滑らせて、彼女のデスクへと近づいた。
「星草さん」
「は、はいぃっ!」
怯える彼女の耳元に顔を寄せ、私は周囲に聞こえないような小声で囁いた。
「ここだけの話……その申請書、マジ面倒だよね」
そして、こっそりと右目でウインクをした。
「…………えっ?」
ララは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見つめた。
常に冷徹で隙のない先輩が、急に距離を詰めてきて、あろうことか『マジ』というギャル語を使い、さらにはウインクまでしてきたのだ。彼女の脳内はパニックを起こしているに違いない。
しかし、数秒の硬直の後。ララは私の柔らかい表情を見て、何かが弾けたようにパッと顔を輝かせた。
「そ、そうなんですよぉ!」
彼女は隠していた『今どき女子』の素を全開にして、前のめりに同調してきた。
「マジでこのフォーマット作った人、センスないですよね!? お年寄りの方とか、絶対どこに書けばいいか迷っちゃいますって!」
「本当にね。もう少し市民の視点に立ったレイアウトに見直すべきだと思うわ」
私がクスクスと笑いながら同意すると、ララも緊張が完全に解けたのか、嬉しそうに笑い声を上げた。
「……あ、でも」
私はララの肩をポンと叩き、先輩らしく優しく微笑んだ。
「窓口での市民の方への対応で、『マジ』は禁止よ?」
「あははっ! わ、わかってますよぉ、瀬戸先輩!」
私たちの明るい笑い声に、周囲の職員が何事かと驚いたようにこちらを見ていた。あの『氷の女』が、後輩と楽しそうに雑談しているのだから無理もない。
職場の空気が、パッと明るく華やぐのを感じる。
〈ゆいぽん、めっちゃいい笑顔じゃん!〉
脳内の奥深くで、ソニアが嬉しそうに笑っているのがわかった。
私はもう、無理をして完璧な人間を演じる必要はない。私の中にある弱さも、だらしなさも、そしてギャルマインドも、すべてひっくるめて私なのだから。
「さて、それじゃあ一緒にその面倒な書類、やっつけちゃいましょうか」
「はいっ! お願いします!」
窓口に射し込む春の光を浴びながら、私はこれまでで一番、自然な笑顔で業務に戻った。




