第42話 勝負下着
休日の午後。雨上がりの柔らかな日差しが差し込むリビングで、私はローテーブルに置いたノートパソコンを開いていた。
洗剤やトイレットペーパーなど、日用品の在庫管理とオンラインでの一括購入。そして今日は、古くなってきた下着の買い替えも済ませておく予定だった。
画面に下着メーカーのサイトを表示し、私は迷うことなく『実用性重視』のカテゴリーをクリックする。肌触りの良い綿百パーセント、装飾の一切ないプレーンなデザイン。色はアウターに響かないベージュか、清潔感のあるネイビーに限る。それが、徹底したリアリストである私の長年の定番だった。
いつものようにベージュの上下セットをカートに入れようとマウスを動かした、その時だった。
〈ゆいぽん、ちょっと待ったぁーーっ!!〉
脳内で、ソニアのけたたましい声が響き渡った。
(な、何よ、急に大声を出して)
〈マジありえない! ゆいぽん、またそんなおばあちゃんみたいな下着買おうとしてんの!? あのババアとの戦いに勝ったんだから、もう我慢しなくていいって言ったっしょ!〉
(おばあちゃんって……これは機能的で合理的な選択なんです。職場に着ていくのに派手なものは必要ありません)
〈仕事の時は百歩譲っていいとしても、夫ちゃんの前ではもっと攻めなきゃダメ! ほら、画面スクロールして! もっと下!〉
ソニアの強い意思に押し切られるようにして、私の右手は勝手にマウスのホイールを回していた。そして、画面が『セクシー・勝負下着』のカテゴリーに切り替わる。
〈これっしょ! 絶対これ! 超可愛くない!?〉
ソニアが脳内で指差した(ような感覚がした)のは、目に飛び込んでくるようなネオンピンクの生地に、毒々しいヒョウ柄がプリントされた凄まじいデザインの下着だった。しかも、ショーツの方は布面積が極端に少ないTバックだ。
「は、破廉恥ですっ……!」
私は顔から火が出そうになり、思わずパソコンの画面を手で覆い隠した。
(こんな布切れ同然のもの、身につけられるわけがありません! 防御力が低すぎます!)
〈下着に防御力求めてどうすんの! むしろ攻めの装備っしょ! 夫ちゃん絶対喜ぶって!〉
(健太郎さんがこんなヒョウ柄のTバックで喜ぶはずがありません! 却下です!)
脳内での激しい攻防戦。しかし、ソニアも今回は引き下がらなかった。
〈じゃあ、せめてこれ! これくらいなら、ゆいぽんでも着れるっしょ?〉
ソニアが妥協案として提示してきたのは、同じカテゴリーの中にあった、深い漆黒のレースがあしらわれた下着だった。
先ほどのヒョウ柄に比べれば色は落ち着いているが、カップの上部やショーツのサイドには繊細なレースが使われており、肌がほんのりと透ける計算し尽くされたデザインになっている。大人の女性の艶やかさを引き出すような、非常にセクシーな一着だ。
(……透け感が、少し気になりますが……これなら、まぁ)
〈でしょ!? 黒ならシックだし、でもレースでちゃんと抜け感もある! 絶対似合うって!〉
(そ、そうですか? ……じゃあ、初の勝負下着というものを……)
母との対決を経て、自分の中に「女性としての自由」を少しだけ許容できるようになっていた私は、ソニアの勢いに背中を押され、震える指でその黒レースの下着を『カートに入れる』ボタンへと動かした。
「……ポチッ」
マウスのクリック音が、私の新しい扉が開いた合図のように、静かなリビングに響いた。
+++
数日後。
健太郎さんが仕事から帰宅する一時間前の、静かな寝室。
私は、届いたばかりの小さな段ボール箱を開封し、ベッドの上にその『黒レースの下着』を広げていた。
画面越しで見るよりも繊細なレースの作りと、滑らかなシルク混の生地。それを手に取ると、自分のためにこんな特別なものを用意したという事実だけで、胸の奥がソワソワと高鳴った。
私はゆっくりと服を脱ぎ、恐る恐るその下着を身につけてみた。
そして、大きく深呼吸をしてから、姿見の鏡の前に立つ。
「……うわっ」
鏡に映った自分の姿を直視できず、私は両手で顔を覆ってしまった。
いつもの実用的なベージュの下着とは全く違う。黒という色が肌の白さを際立たせ、レースの隙間から覗く素肌が、普段の地味な公務員の私からは想像もつかないほど、艶やかで蠱惑的な雰囲気を醸し出していた。
〈ゆいぽん……マジで、超綺麗じゃん!!〉
脳内で、ソニアが割れんばかりの歓声を上げた。
〈ヤバいヤバい、想像以上! めちゃくちゃ似合ってる! ゆいぽん、実はスタイルいいんだから、もっと自信持ちなよ!〉
(そ、そうでしょうか……変じゃないですか? 無理してる若作りみたいになっていませんか?)
〈全然! 大人の色気ダダ漏れって感じ! これ見たら夫ちゃん、絶対メロメロになるって! 一撃でKO間違いなしっしょ!〉
ソニアの裏表のない、真っ直ぐでポジティブな褒め言葉のシャワーを浴びているうちに、私の顔を覆っていた手は少しずつ下がっていった。
改めて鏡を見る。そこに映っているのは、母の呪縛に怯えていた小さな女の子でも、感情を殺した氷の窓口担当でもない。一人の、夫を愛し、夫に愛されたいと願う、少しだけ大胆になった大人の女性の姿だった。
「私でも、こんな風に……なれるんですね」
鏡の中の自分に見惚れながら、私は女性としての自信が、体の内側からじんわりと満ちてくるのを感じていた。
〈ね、買ってよかったっしょ? ……あ、そうだ! ゆいぽん、どうせならもっと夫ちゃんをドキドキさせる演出、やっちゃう?〉
(えっ? 演出、ですか?)
〈うん! あのさ、そこのハンガーにかかってる、夫ちゃんのシャツあるっしょ?〉
ソニアが指し示したのは、週末に健太郎さんが部屋着として着ている、少し大きめの白いYシャツだった。
〈あの黒レースの上に、夫ちゃんのシャツをダボッと羽織るわけ! いわゆる『彼シャツ』ってやつ! で、リビングのソファで待機!〉
(か、彼シャツ!? そんな破廉恥な……っ)
〈破廉恥上等! せっかくの勝負下着なんだから、出し惜しみしないで攻めようよ!〉
以前の私なら、秒で却下していた提案だ。しかし、鏡の中の少しだけ自信に満ちた自分と目が合うと、不思議と勇気が湧いてきた。
「……わかりました。やってみます」
私は健太郎さんの残り香が微かにする白いYシャツを手に取ると、意を決して袖を通した。大きめの襟元から、ほんのりと黒いレースが覗く。
玄関の方から、ガチャリ、とドアが開く音が聞こえた。健太郎さんが帰ってきたのだ。
私の心臓は、これまでにないほど激しく、甘い期待を込めて高鳴り始めていた。




