第41話 反抗
「……お母さん」
私の声は、もう震えていなかった。
母の冷たい視線から逃げることなく、その銀縁眼鏡の奥の瞳を、真っ直ぐに見据える。
「法要に行けなかったことは、申し訳ありません。でも……私にとって今の最優先は、健太郎さんとの生活なんです。だから、予定が変わったからといって、すべてをお母さんの思い通りにするわけにはいきません」
母の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
これまで一度も親に逆らったことのない「完璧な娘」の、初めての明確な反抗。リビングの空気が、さらに一段階冷たく張り詰めた。
「……親に向かって口答えをするのですか。私がどれだけあなたのためを思って、正しい道を示してきたと……」
「お義母さん」
母の言葉を遮ったのは、隣に座る健太郎さんだった。
彼は、これまで浮かべていた敏腕営業マンとしての完璧な笑顔をスッと消し去り、私が今まで見たこともないような、真剣で迫力のある表情で母を見つめていた。
「これ以上、結衣を悲しませるのは、やめてください」
「……なんですって?」
「お義母さんの厳格な教育には、感謝しています。そのおかげで、結衣は誠実で優しい女性に育ちました。でも、結衣は僕にとって、すでに完璧で、最高の妻なんです」
健太郎さんの低く、力強い声がリビングに響き渡る。
「今の彼女を否定することは、夫である僕が絶対に許しません。結衣は僕が守ります」
その言葉は、どんな分厚い防壁よりも頼もしく、私の心を温かく包み込んでくれた。
+++
健太郎さんの毅然とした態度に、母は一瞬怯んだようだった。しかし、すぐに持ち直して冷笑を浮かべた。
「……呆れました。夫にそこまで甘やかされて、堕落したのですね、結衣。だから部屋の掃除も行き届かず、親族の集まりにも顔を出せないような、だらしない人間になったのです」
母の言葉の刃が、再び私を切り裂こうとする。
〈ゆいぽん、もう見てらんない!〉
脳内で、激怒したソニアが叫んだ。
〈アタシに代わってよ! アタシがこのババアを黙らせてやるから、ソニアタイムちょうだい! 全部アタシが言い返してやるから!〉
ソニアの申し出は、今の私にとってどれほど魅力的な逃げ道だっただろうか。彼女に主導権を渡してしまえば、私は意識の奥で目を閉じているだけでいい。彼女が持ち前のギャルバイブスで、この重苦しい空気をすべて破壊してくれるはずだ。
でも。
(……ううん、ソニア。ありがとう。でも……ダメよ)
〈えっ?〉
(これは、私の戦いなの。私が自分で乗り越えなきゃ、本当の意味でお母さんから自立できない。健太郎さんとの未来を、私自身の手で守りたいの)
私がきっぱりとソニアタイムを拒否すると、脳内のソニアは一瞬驚いた後、ふっと嬉しそうに笑った気がした。
〈……そっか。わかった。じゃあ、アタシはずっとゆいぽんの背中、押してるからね!〉
私は深く息を吸い込み、再び母に向き直った。
「堕落なんかじゃありません。……私は、お母さんの人形じゃないんです!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「常に模範的で、息が詰まるような生活は、もう限界だったんです! テストで一問間違えただけで何時間もお説教されて、友達と遊ぶことも許されなくて……私がどれだけ苦しかったか、お母さんは一度だってわかってくれようとしなかった!」
「そ、それは、あなたの将来を思って……!」
「私の将来は、私が決めます! 私は不器用で、本当はだらしなくて、完璧なんかじゃない! でも、健太郎さんはそんな私を愛してくれているんです!」
私の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
これまで何十年も押し殺してきた本音が、ダムが決壊したように溢れ出していく。
+++
「感情的にならないでちょうだい! そんな態度で、社会に通用すると思っているのですか!」
母は立ち上がり、私を正論でねじ伏せようと声を荒らげた。
「親の言うことを聞けないような人間に、幸せな家庭など築けるはずがありません! 完璧な妻になれなければ、いつか必ず見捨てられますよ!」
その言葉を聞いた瞬間だった。
私の右手は、無意識のうちに持ち上がり、自分の前髪を指先でいじり始めていた。
それは、ソニアが表に出ている時に必ずやる、彼女特有の癖だった。しかし、今はソニアタイムではない。間違いなく私自身の意思で動いているはずなのに、私の中にソニアの魂がピタリと重なり合ったような、不思議な感覚があった。
「お母さんの言う『完璧』なんて……」
私は、前髪をいじっていた手を下ろし、涙で濡れた顔のまま、母に向かってハッキリと言い放った。
「マジで無理です!」
……静寂。
雨音だけが響くリビングで、母は目を丸くして絶句した。
「……ま、マジで……?」
地方公務員であり、堅木家の模範的な娘であった私の口から、到底発せられるはずのないギャル語。そのあまりの語彙の破壊力に、母の論理的な思考回路は完全にショートしたようだった。
「私は完璧じゃなくても、健太郎さんがいれば今、最高に幸せなんです! だから、もう私の人生に干渉しないでください! 私はあなたから卒業します!」
隣で聞いていた健太郎さんが、驚いたように目を瞬せた後、愛おしそうにフッと目を細めた。
そして脳内では、ソニアが〈っしょー!! ゆいぽん、よく言った! マジ最高!〉と、割れんばかりの大歓声を上げてくれていた。
+++
「……あなたたちで、勝手にしなさい」
長い沈黙の後、母は絞り出すようにそう呟いた。
その声には、先ほどまでの絶対零度の威圧感はもうなかった。
目の前にいるのは、自分のコントロール下にあった「怯えた娘」ではなく、一人の夫に愛され、自分の足で立って反抗してくる「一人の女性」なのだと、母もついに悟ったのだろう。
母はそれ以上何も言わず、持っていた鞄を手に取ると、足早に玄関へと向かった。
バタン、と重いドアの閉まる音が響き、母は嵐のように去っていった。
最大の壁であった母を、ついに乗り越えた瞬間だった。
+++
母が帰り、リビングに静寂が戻った途端、私の中でピンと張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
「……っ」
私は膝から崩れ落ち、ラグの上にへたり込んだ。
「結衣!」
健太郎さんが慌てて床に膝をつき、私を力強く抱きしめてくれた。
「よく頑張ったね、結衣。すごく、すごくかっこよかったよ」
彼の大きな手が、私の背中を優しく撫でる。その温もりに触れた瞬間、堪えていた安堵の涙が堰を切ったように溢れ出した。
「うっ、ぐすっ……健太郎さん……っ」
「大丈夫、もう大丈夫だよ」
私は健太郎さんの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
(……ありがとう、ソニア。あなたのおかげよ。あなたが背中を押してくれたから、私、言えた)
私は心の中で、親友に深く感謝を伝えた。
〈アタシは何もしてないよ。ゆいぽんが、自分で言ったんじゃん。ゆいぽんはもう、一人でも全然大丈夫っしょ〉
ソニアの優しい笑い声が、脳内に響く。
その時、私は心の中で、ある不思議な感覚を覚えていた。
これまで「自分とは別の存在の親友」として脳内に独立していたソニアの境界線が、淡く溶け出しているような感覚。彼女の存在が、私という器の中に、私自身の「強さ」や「自由な心」の一部として、ゆっくりと溶け込んでいくような、温かい兆し。
それは、私とソニアの『統合』が、確かな形で始まった証だった。
「それにしても」
私が泣き止み、鼻を啜りながら顔を上げると、健太郎さんが少し悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。
「結衣の『マジで無理です』、すごく新鮮で可愛かったよ」
「……っ!」
カァッ、と顔から火が出るほどの羞恥心が押し寄せてきた。
感動的なシーンの直後だというのに、私はとんでもない言葉を夫の目の前で、しかも自分の口から無意識に発してしまったのだ。
「わ、忘れてください! あんなの私じゃありません! 言葉の綾というか、極度の緊張状態による一時的な言語野の不具合で……!」
私が真っ赤になって必死に言い訳を並べ立てると、健太郎さんはお腹を抱えて笑い出した。
「あはは! いいじゃないか、俺は好きだよ。結衣のギャルマインド」
「もう、からかうの……マジやめてください!」
自分でも気づかないうちに、再びギャル語が漏れてしまった。
「あっ……」
私が口元を押さえて固まると、健太郎さんはさらに大きな声で笑い、私もつられて、涙で濡れた顔のまま吹き出してしまった。
外の雨はいつの間にか晴れ、空には大きな虹が出ていた。
私の長年のトラウマを乗り越えたリビングには、いつまでも私たちの温かく、穏やかな笑い声が響いていた。




