第40話 脱却
「……お邪魔するわよ」
氷点下の空気を纏って、母がリビングに足を踏み入れた。
その鋭い視線が、震える私を冷たく射抜く。私の心臓は、警鐘のように激しく鳴り続けていた。
健太郎さんがすかさず動いた。敏腕営業マンとしての完璧な笑顔と洗練された所作で、母をソファへと促す。
「お義母さん、雨の中わざわざありがとうございます。さあ、どうぞこちらへ」
「ええ、ありがとう」
母は健太郎さんには一応の礼を述べたものの、ソファに腰を下ろすなり、すぐにその鋭利な視線を私へと向けた。
「結衣。市のイベントの仕事だと聞いていましたが、家にいるようですね」
絶対零度の声だった。
私が口を開く前に、健太郎さんが間髪入れずにフォローを入れる。
「天候の悪化で中止になったんです。ちょうど今朝、連絡がありまして」
「だとしてもです」
母は健太郎さんの言葉を冷たく遮った。
「予定が空いたのであれば、連絡の一つも入れて法要に顔を出すのが親族としての筋でしょう。それを、休日に家でくつろいでいるなど、堅木の家で育った人間として常識を疑います」
「……申し訳、ありません……」
私は膝の上で両手を強く握り締め、深く俯いた。
母の視線は、それだけでは終わらなかった。リビングの隅々までを舐め回すように観察し始める。
「それに、この部屋の有様は何ですか」
母の指先が、テーブルの上や棚に向けられる。私としては完璧に掃除を行っているつもりだったが、母の異常なまでに高い基準では、すべてが「隙だらけ」に映るらしい。
「クッションの配置も雑、棚の埃も目立ちます。税金で生活させていただいている公務員たるもの、私生活の乱れは仕事の乱れに繋がります。妻としても、健太郎さんに迷惑をかけているのではないですか」
「お義母さん、そんなことはありません」
健太郎さんが、私を庇うように少し身を乗り出した。
「結衣はいつも完璧に家事をこなしてくれていますし、仕事との両立も立派にやっています。僕は彼女に助けられてばかりです。本当に、自慢の妻です」
健太郎さんの言葉は、優しくて、温かかった。彼が私の盾になろうとしてくれているのが痛いほど伝わってきた。
しかし、その温もりすら、今の私には届かなかった。
母の言葉は、強烈な呪いとなって私を縛り付ける。十四歳の頃の、何もできずにただ叱責に耐えていた怯えた少女に、心が完全に退行していくのを感じた。
「……いいえ、私が至らないせいです」
私の口から、無意識に自己否定の言葉がこぼれ落ちていた。
「結衣? 無理して謝らなくていいんだよ」
健太郎さんが心配そうに私の肩に触れるが、私は小刻みに震え続けるだけだった。もっと完璧に、もっとちゃんとしなければ。そうしなければ、私は価値のない人間になってしまう。
自分が少しずつ変わろうとしていたことすら、「間違っていたのだ」と思い込まされそうになる。深い絶望の淵に、心が沈みかけていた。
〈ふざけんな!!〉
その時、私の脳内の最も深い場所から、かつてないほど激しい怒号が響き渡った。
ソニアだった。
普段は私の脳内で呑気に寝転がったり、お菓子を食べたりしている彼女が、今は怒りで顔を真っ赤にして、脳内世界で大暴れしているのが感覚として伝わってくる。
〈あのクソババア、何様だよ! 夫ちゃんがこんだけ庇ってんのに、まだグチグチ言って! アタシのゆいぽんをいじめんな!〉
(やめて、ソニア……お母さんの言う通りだわ。私はダメな娘なの。健太郎さんにも迷惑をかけている。完璧でなければ、私は……)
〈ゆいぽん! 目ぇ覚ませ!〉
ソニアの叫びが、私の自己否定の沼に楔を打ち込む。
〈ダメな娘ってなんだよ! ゆいぽんは毎日めちゃくちゃ頑張ってんじゃん! 夫ちゃんも、さっき『自慢の妻』だって言ってくれたっしょ!〉
(でも、法要をサボったのは事実だし、部屋の掃除だって……私、完璧な妻じゃない……)
〈完璧じゃなくていいって、夫ちゃんが言ってくれたの忘れたの!?〉
その言葉に、私はハッとした。
『結衣がどれだけワガママでも、それが結衣の本音なら、俺は嬉しいよ』
『俺の前でだけは素を見せてくれるなら、それが一番愛おしいよ』
B級映画を観たあの夜の、健太郎さんの真剣な瞳がフラッシュバックする。そして、以前、私が作った鯛茶漬けを食べて、「最高に美味しい」と心底安らいだように笑ってくれた彼の顔が、脳裏に鮮明に蘇った。
(健太郎さんは……今の私を愛してくれている。お母さんの言う『完璧な娘』じゃなくても、彼は私を必要としてくれている)
〈そうだよ! ゆいぽんが守るべきなのは、昔のババアのルールじゃない! 今の夫ちゃんとの生活でしょ!〉
ソニアの言葉が、冷え切っていた私の心に、小さな、けれど確かな熱を灯す。
私は、もう一人で怯えていたあの頃の私じゃない。私を丸ごと受け入れてくれる健太郎さんがいて、そして、私を全肯定して共に戦ってくれる親友が、私の中にいる。
「……結衣。返事もないのですね。本当に、あなたは昔から……」
母がさらに追い打ちをかけるように、冷ややかな声を発した。
〈ゆいぽん、もう我慢しなくていいっしょ! あんな呪い、アタシらがぶっ壊してやるんだ!〉
ソニアの力強い叫びが、私の背中を強く、強く押し出した。
(……ええ。そうね、ソニア)
体の震えは、いつの間にか止まっていた。
私は、自分の肩に添えられている健太郎さんの手を、そっと、けれど力強く握り返した。健太郎さんが少し驚いたように私を見るが、私は彼に小さく頷いてみせた。
そして、私はゆっくりと顔を上げた。
母の冷たい視線から逃げることなく、その銀縁眼鏡の奥の瞳を、真っ直ぐに見据える。
「……お母さん」
私の声は、もう震えていなかった。
長年私を縛り付けていた鎖を断ち切り、反撃の狼煙を上げるための準備は、完璧に整っていた。




