第39話 母襲来
窓を打ち付ける激しい雨の音が、朝からリビングに響いている。
「本日の『緑川市・春の市民ふれあいフェスティバル』は、荒天のため中止と決定いたしました」
市の連絡網から届いたメッセージを確認し、私は小さく息を吐いた。
休日の今日、私は市のイベントに駆り出され、一日中窓口や案内係として立ち働く予定だった。しかし、この雨では屋外イベントなど到底不可能だ。
(スケジュールが完全に白紙になってしまいました。効率的にタスクを再構築しなければ)
頭の中で週末の家事や買い物の予定をパズルように組み替えていると、リビングのソファで本を読んでいた健太郎さんが、コーヒーカップを片手に柔らかく微笑んだ。
「結衣、せっかく予定が空いたんだし、今日は無理に家事なんてしなくていいよ。この雨だし、二人でゆっくり映画でも観て休もう」
健太郎さんのその言葉に、私の張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
「……そうですね。たまには、予定のない休日も悪くないかもしれません」
先日、健太郎さんに本音を打ち明けてからというもの、私は「完璧な妻」であろうとする呪縛から少しずつ解放されつつあった。彼が隣にいてくれるだけで、不思議と心が安らぐのだ。
脳内では、ソニアも退屈そうにあくびをしている。
〈雨だるーい。でも夫ちゃんとゆいぽんがイチャイチャすんなら、アタシは寝てるわー〉
(誰がイチャイチャするんですか。静かに休養を取るだけです)
心の中で軽く反論しながら、私は健太郎さんの隣に座り、温かい紅茶を口に運んだ。
平和で、穏やかな雨の日の午前。
しかし、その静寂は、無機質な電子音によって唐突に引き裂かれた。
ピンポーン。
リビングに響き渡ったインターホンの音に、私はピクリと肩を揺らした。
「おや、こんな天気に誰だろう。宅配便かな?」
健太郎さんが立ち上がり、モニターを確認しようとする。
「私が確認します」
私は立ち上がり、壁のモニターへと近づいた。そして、画面に映し出された人物の姿を目にした瞬間――私の全身の血液が、一気に凍りついた。
(……お、お母様……っ)
画面の向こうに立っていたのは、私の母、堅木紀子だった。
黒髪を一糸乱れぬタイトな夜会巻きにまとめ、ダークグレーの仕立ての良いセットアップに身を包んでいる。細い銀縁眼鏡の奥の瞳は、モニター越しであっても、まるで獲物を射抜くような鋭い威圧感を放っていた。地元でも有名な堅物の教育者であり、私に「常に模範的であること」を強要してきた張本人だ。
「結衣? どうしたの、顔が真っ青だよ」
健太郎さんが異変に気づき、私の肩にそっと触れた。
「け、健太郎さん……母です……私の、母が……」
声が震え、歯の根が合わない。
(どうして母がここに?……あっ)
私は血の気が引く思いで、今日の日付を思い出した。今日は、隣町で親戚の法要がある日だ。母から「当然夫婦で出席しなさい」と強い口調で誘われていたが、私は「市のイベントの仕事があるから」という理由で断っていたのだ。
母は、法要の帰りがけに、親戚づきあいを軽んじている私に小言を言いに来たに違いない。そして、仕事だと言っていたはずの私が家にいるのを見れば、「仕事だと嘘をついて法要をサボった」と激怒するだろう。天候悪化で中止になったのだと説明しても、母が納得するはずがない。「どんな理由があれ、予定を曲げたのなら法要に顔を出すのが筋だ」と理詰めで追い詰められる光景が、ありありと脳裏に浮かんだ。
「お義母さんか。雨の中わざわざ来てくれたんだね、開けるよ」
健太郎さんがインターホンの通話ボタンに手を伸ばそうとする。
「だ、ダメです!」
私は反射的に健太郎さんの手を掴んでいた。
「結衣……?」
「怒られます……私、また、お母さんに……」
過呼吸気味に肩を上下させる私を見て、健太郎さんの表情がスッと真剣なものに変わった。彼は私の手を優しく、しかし力強く握り返した。
「大丈夫だよ、結衣。僕がいる。僕がちゃんと説明するから」
健太郎さんの温かい手が、少しだけ私の震えを和らげてくれる。しかし、心の奥底に刻み込まれた恐怖のスイッチは、そう簡単には切れてくれない。
健太郎さんが「はーい、今開けます」と通話ボタンを押し、玄関へと向かう足音が遠ざかっていく。
母がこのリビングに入ってくるまでの、わずか数十秒。
私の脳裏には、鍵をかけて心の奥底に封じ込めていた、十四歳の頃の記憶が鮮明にフラッシュバックしていた。
+++
『結衣。今回の小テスト、九十八点とはどういうことですか。なぜ、このケアレスミスを防げなかったのですか』
冷たく、一切の感情を排した母の声が、薄暗いリビングに響く。
中学二年生の秋。私はリビングのテーブルの前に正座させられ、延々と続く理不尽な説教に耐えていた。
『常に模範的でありなさい。堅木家の娘として、恥ずかしくない振る舞いをしなさい。あなたのその気の緩みが、将来の取り返しのつかない失敗に繋がるのです』
息が、詰まる。
友達と遊ぶことも、好きなテレビ番組を見ることも許されず、ただひたすらに机に向かい、親の期待する「完璧な娘」を演じ続ける日々。
本当はもっと自由に生きたい。親の期待なんて放り出して、大きな声で笑いたい。爆発寸前のストレスと抑圧が、小さな胸の中で黒く渦巻いていた。
そんなある日。
私は、母が通う美容室に同行させられ、待合室の隅でじっと座っていた。母が受付で会計をしている、ほんの数分間。
私の目の前のラックに、古いギャル雑誌が紛れ込んでいるのを見つけた。
普段なら、あんな低俗な(と母が言う)雑誌には絶対に触れない。しかし、その時の私は、何かに取り憑かれたようにその雑誌を手に取り、ページを開いた。
そこに広がっていたのは、私が生きている白黒の窮屈な世界とは全く違う、極彩色の自由な世界だった。
校則を完全に無視した超ミニスカート、カラフルなカーディガン。耳には複数のピアスが光り、口元は鮮やかなピンク色のリップで彩られている。
そして、表紙で一番目立っていた、金髪にピンクのメッシュを入れた女の子。
『ソニア(そーぽよ)』
その名前と、彼女の屈託のない、世間の常識など鼻で笑い飛ばすような強気な笑顔が、私の脳裏に焼き付いた。
『結衣、何をしているの! そんな下品なものを読んではいけません!』
戻ってきた母に雑誌を叩き落とされ、私はまた激しい叱責を受けた。しかし、私の心の中には、確かな変化が起きていた。
(マジ無理! そんなの放り出しちゃいなよ。駅前でクレープ食べに行こうよ!)
自室で一人泣き崩れていた時、ふと、脳内にあの雑誌の女の子の声が響いたような気がしたのだ。
それは、私が過酷な思春期を生き抜くために、自分自身の心を守るために無意識に生み出した防衛機制だった。親の決めたレールを外れ、自分の感情の赴くままに生きる「自由の象徴」。
彼女は私の都合の良いように神格化され、どんなに親から否定されても、私だけを全肯定してくれる、絶対的な「親友」として独自の人格を形成していった。
〈ゆいぽん、ヤバいのが来たね〉
フラッシュバックから引き戻された現在。脳内世界で、ソニアがいつになく低い、警戒心に満ちた声を出した。
普段は脳内で呑気に寝転がっている彼女が、今は立ち上がり、私を守るようにして拳を握り締めているのが、感覚として伝わってくる。
〈でも、大丈夫。アタシがいるから。アタシが、ゆいぽんを守るから〉
ガチャリ、とリビングのドアが開く音がした。
「……お邪魔するわよ」
氷点下の空気を纏って、母がリビングに足を踏み入れた。
その鋭い視線が、震える私を冷たく射抜く。私の心臓は、警鐘のように激しく鳴り続けていた。




