第36話 酔っ払い
私の胸元には、健太郎さんからプレゼントされたプラチナのネックレスが、リビングの照明を反射して控えめに、しかし確かな存在感を放って輝いている。そして机の上には、実用性と美しさを兼ね備えたあの高級万年筆が飾られている。
大きな喜びをもたらしてくれた結婚記念日。私の心は、これまで感じたことのないような深い多幸感に満たされていた。
「結衣、今日は本当に楽しかったね。……せっかくだから、もう少しだけお祝いの続きをしないか?」
健太郎さんが、ワインセラー代わりの冷暗所から、とっておきの赤ワインのボトルを取り出してきた。結婚した年のヴィンテージだという、特別な一本だ。
「ワイン、ですか」
私は少しだけ姿勢を正した。
地方公務員たるもの、休日前夜とはいえ、アルコールの摂取には細心の注意を払うべきである。アルコール分解酵素の働きや翌日のパフォーマンスへの影響を考慮すれば、摂取量はグラス一杯、およそ百二十ミリリットル程度に留めるのが極めて合理的だ。
しかし、今日の私はどうかしていた。
首元に触れるネックレスの冷たい感触が、健太郎さんの温かい愛情を思い出させ、私の堅物な思考回路を少しずつ、甘く溶かしていたのだ。
「……ええ。今日だけは、特別ですから。お付き合いします」
「やった。結衣がそう言ってくれると嬉しいよ」
健太郎さんが嬉しそうにワイングラスを二つ用意し、ルビー色の液体を注ぐ。芳醇な香りがリビングに広がった。
「それじゃあ、結婚記念日に。乾杯」
「乾杯」
グラスを合わせ、一口飲む。渋みと果実味が複雑に絡み合い、アルコールの熱がゆっくりと食道を通って胃へと落ちていくのがわかった。
最初は、計算通りグラス一杯でやめておくつもりだった。
しかし、健太郎さんとの会話が弾み、ディナーの思い出や出会った頃の話に花を咲かせているうちに、私のグラスは空になり、健太郎さんが二杯目を注いでくれた。
さらに三杯目。
気がつけば、私の視界はふんわりと霞み、手足の先がぽかぽかと温かくなっていた。普段は背筋をピンと伸ばして座っているはずの私が、ソファの背もたれに深く体を預け、完全にだらけきった姿勢になっている。
「結衣、大丈夫? なんだか随分と顔が赤いけれど。水、飲む?」
健太郎さんが心配そうに覗き込んでくる。その爽やかな顔が、いつもより少しだけぼやけて、二重に見えた。
「だいじょーぶですぅ、健太郎さぁん……へへっ」
自分の口から出たとは思えない、間延びしただらしない声。
ああ、完全に酔っ払っている。脳の理性を司る前頭葉が、アルコールによって見事に機能停止に追い込まれていた。
その時、ふと私の脳裏に、ある記憶が蘇った。
数週間前、ショッピングモールで遭遇した後輩の白石くるみが聞いていた言葉だ。
『そういう時はさ、もっとガツガツ行っちゃいなよ!ボディタッチ多めで、隙を見せていくのが大事っしょ!』
ソニアのアドバイスを受け、彼女は『ボディタッチ大作戦』を見事に成功させたと報告してきていた。
(……ボディ、タッチ)
酔った私の思考回路は、極めて単純かつ短絡的な結論を導き出した。
愛する夫をもっと夢中にさせるためには、あの小賢しい後輩のように、私からも積極的に触れにいくべきではないか。いや、今ならできる気がする。アルコールという強力な免罪符があるのだから。
「けんたろう、さぁん……」
私はソファの上でずるずると体をすり寄せ、健太郎さんの隣にピタリと密着した。
「おわっ、結衣? どうしたの、急にくっついてきて」
「んふふ……なんでも、ありませぇん」
私は、白石くるみがやっていたであろう『あざとい仕草』を、酔った頭で必死にシミュレートした。
まずは、肩をぶつける。トンッ、と健太郎さんの肩に自分の肩を当ててみる。
「……結衣?」
次に、指先で触れる。健太郎さんの二の腕のあたりを、人差し指でツンツンとつついてみた。
「えっ、ちょ、ちょっとくすぐったいよ」
さらに私は、上目遣いという高度なテクニックを駆使し、健太郎さんの顔をじっと見つめた。しかし、酔っているせいで焦点が定まらず、おそらくひどくぼんやりとした、だらしない表情になっていたに違いない。
「ねぇ、健太郎さぁん……私、もっと、くっついてもいいですかぁ?」
私は彼の腕に自分の腕を絡ませ、さらに体を預けようとした。公務員としての威厳も恥じらいも、今はどこかに消え失せていた。
しかし、私の渾身のボディタッチを受けた健太郎さんの反応は、私が期待していたものとは違った。
彼は少し戸惑ったように目を瞬かせた後、ふっと表情を緩め、どこか納得したような声を出したのだ。
「……えっ? もしかして、今は……そーぽよちゃん?」
ピタリ、と。
私の動きが止まった。
「え?」
「いや、結衣が急にこんなにベタベタ甘えてくるなんて珍しいからさ。そーぽよちゃん、もしかして昼間の時間が足りなくて、また出てきちゃったのかなーって」
健太郎さんは、完全に私を『ソニア』だと思い込み、苦笑いしながら優しく頭を撫でようとしてきた。
(…………っ!)
その瞬間、酔いで霞んでいた頭に、冷や水のようなショックが走った。
違う。私は結衣だ。健太郎さんの妻の、結衣なのだ。
勇気を振り絞って(アルコールの力を借りてだが)、自分なりに一生懸命甘えてみたのに。私が自らこんな風に甘えるはずがないと、彼の中で無意識に思われていたという事実。
恥ずかしさと、情けなさと、そして少しの悲しさが入り混じり、私はハッとして体を離した。
「ち、違い……」
私が否定しようとした、まさにその時だった。
〈ちょ、ゆいぽん! 動きが不自然すぎ! ロボットの求愛ダンスかと思ったわ!〉
脳内に、呆れ果てたようなソニアの大声が響いた。
(ソニア……!)
〈甘えるなら、もっと自然にやらなきゃダメっしょ! それに、アタシだってワイン飲んでお祝いしたい! ねえ、ゆいぽん! 一瞬でいいからアタシに体貸して!〉
ソニアが猛烈な勢いでソニアタイムを要求してくる。




