第35話 本命
(早く……早く時間よ過ぎて……!)
激しい嫉妬と自己嫌悪に苛まれながら、私は脳内でひたすらに念じ続けていた。
私の体を使ったソニアは、その後も健太郎さんとデパートを歩き回り、すっかりご満悦の様子だった。両手には、私なら絶対に買わないような派手なコスメやアクセサリーの入った、華やかなブランドの紙袋がいくつも握られている。
『あー、マジで楽しかった!夫ちゃん、今日は本当にありがとね!』
「喜んでもらえてよかったよ。さあ、そろそろ時間だし、家に帰ろうか」
『うんっ!』
帰りの電車の中でも、ソニアは健太郎さんの腕にぴったりと寄り添い、今日買ってもらった戦利品の話を無邪気に弾ませていた。健太郎さんも、そんな彼女を愛おしそうに見つめ、優しく相槌を打っている。
その光景を自らの視覚と聴覚で強制的に体感させられるのは、まさに拷問だった。
(私の記念日なのに。私が彼と、落ち着いたフレンチの余韻を楽しみながら帰るはずだったのに……)
やがてマンションに到着し、玄関のドアを開けてリビングに入ったその瞬間。
ピピピピピ。
健太郎さんのスマートフォンから、一時間の経過を知らせるアラームが鳴り響いた。
『あ、時間だ。じゃあ夫ちゃん、あとはゆいぽんによろしく!マジで最高の記念日だったよ!』
カチリ、と頭の奥でスイッチが切り替わる。
帰宅後、ソニアタイムが終了した。
「……っ」
途端に体に重力が戻り、私はよろけそうになった。
両手には、先ほどまでソニアが嬉々として持ち歩いていたブランドの紙袋が、ずしりと重くのしかかっている。
(……なんて、重いのかしら)
物理的な重さではない。これは、健太郎さんがソニアに向けた愛情の質量だ。
「おかえり、結衣。お疲れ様」
健太郎さんが、いつもの優しい声で私に労いの言葉をかけてくる。
しかし、主導権を取り戻した私は、嫉妬のあまり無口になり、拗ねた態度をとってしまうのだった。
私は無言のまま、手にある派手な紙袋をリビングのテーブルの端にドンッ、と乱暴に置いた。
そして、くるりと背を向けると、キッチンに向かって歩き出そうとした。
「結衣?どうしたの?」
健太郎さんが心配そうに私の腕を掴む。
「……何でもありません」
私は冷たい声で答え、彼から視線を逸らした。冷静さを保とうとすればするほど、胸の奥で渦巻く黒い感情が抑えきれなくなっていく。
「何でもないことないだろ。怒ってるの?そーぽよちゃんに時間を貸してくれたこと、嫌だった?」
健太郎さんの真っ直ぐな問いかけに、私はついに堪えきれず、胸の内に溜まっていた鬱憤を吐き出してしまった。
「どうせ私は地味で面白みがありませんから……ソニアとお祝いした方が楽しかったでしょう」
卑屈な言葉をこぼした。
「あんなに派手なプレゼントをたくさん買ってあげて……。私なんて、今日のために一ヶ月も前からスケジュールを完璧に組んで、お化粧だって少しだけ変えたのに……!」
言ってしまってから、私はハッとして口を噤んだ。
(なんて見苦しいの。自分自身の生み出したイマジナリーフレンドに本気で嫉妬して、夫に八つ当たりをするなんて)
みっともなくて、恥ずかしくて、涙が溢れてきそうだった。私は顔を伏せ、彼から逃げるように体を強張らせた。
しかし、健太郎さんは怒ることも、呆れることもなかった。
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ふわりと、温かい腕が私の背中を包み込んだ。
「……健太郎、さん?」
顔を上げると、彼は優しく微笑んだ。
「そーぽよちゃんへのプレゼントはただの『お礼』だよ。結婚記念日の主役は、もちろん俺の愛する妻。君だけだ」
そう言って、彼は自分のジャケットの内ポケットから、丁寧にラッピングされた二つの小さな箱を取り出した。
「えっ……?」
「はい、これ。俺からの、本当の記念日プレゼント」
渡された箱を震える手で開けると、そこには私がずっと欲しがっていた仕事用の高級な万年筆が入っていた。
「あっ……これ……!」
私は息を呑んだ。それは数ヶ月前、文具店に立ち寄った際、私が「市役所での窓口業務で、こんなペンを使えたら身が引き締まるでしょうね。でも、高価すぎて非合理的です」と呟き、購入を諦めたものだった。
「毎日、市民のために真面目に頑張っている結衣に、絶対に使ってほしかったんだ」
さらに、健太郎さんはもう一つの小さな箱を開けた。
中に入っていたのは、上品なジュエリー(本命のプレゼント)だった。派手さはないが、私の普段のネイビーや白の落ち着いた服装に、これ以上ないほど調和する、洗練されたデザインのネックレスだ。
「結衣の今日のワンピースにも、すごく似合うと思う。……いつも俺を支えてくれて、ありがとう。これからも、ずっと一緒にいてね」
健太郎さんの深い愛情と周到なサプライズに、私は嫉妬していた自分を恥じつつ、感動の涙を流して彼を抱きしめた。
ソニアへの派手なプレゼントは、あくまで『親友への手土産』。
そして、私のためのプレゼントは、私の実用性を重んじる性格と、控えめな好みを完璧に把握した上で選ばれた、特別な宝物だったのだ。
「……健太郎さん……っ、ごめんなさい……私、ひどい嫉妬をして……」
「いいんだよ。結衣がヤキモチを妬いてくれるの、本当はすごく嬉しいから」
健太郎さんは笑いながら、私の首元にそっとネックレスをつけてくれた。冷たいプラチナの感触が、彼の温かい指先と共に肌に触れ、胸の奥が熱くなる。
〈ゆいぽん、マジで愛されてんじゃん!良かったね!〉
脳内でソニアが、私を祝福するように明るく笑った。彼女もまた、この結末を知っていて、わざと私の嫉妬を煽るような真似をして健太郎さんの愛情を試していたのかもしれない。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます。私、この万年筆もネックレスも、一生大切にします……!」
私は感動の涙を流しながら、今度は自分から健太郎さんの広い胸に飛び込み、彼を力強く抱きしめた。
公務員としての完璧な建前も、合理性も、今はどうでもよかった。
ただ、彼という存在の温かさと、与えられた深い愛情に包まれながら、私は妻としてのこの上ない幸福を全身で噛み締めていた。




