第34話 結婚記念日
その日は、私たち夫婦にとって特別な一日だった。
カレンダーに赤丸をつけた、結婚記念日である。
私はこの日のために、一ヶ月前から入念なスケジュールを組み、当日の行動ルートとタイムテーブルを完璧に構築していた。朝から効率よく家事をこなし、休日の外出用にと用意した、落ち着いた色味であるネイビーのワンピースに袖を通す。メイクもいつも通りの最低限のナチュラルメイクで整え、準備は万端だった。
「結衣、今日のワンピース、すごく似合ってるよ。いつもより少しおめかししてて、綺麗だ」
爽やかな短髪に、休日でもスマートなジャケットを着こなす健太郎さんが、洗練されたやさしいスマイルで私を褒めてくれる。
「ありがとうございます、健太郎さん。今日は私たちの結婚記念日ですから、少しがんばってみました」
私は少し顔を熱くしながら、平静を装って答えた。彼からの猛アプローチで交際がスタートし、私のような地味で面白みのない人間の誠実さを愛してくれた彼との結婚。その記念すべき日を祝うため、私たちは予定通り街の中心部へと向かっていた。
ランチは私が厳選した、静かで落ち着いた雰囲気のフレンチレストランだ。コース料理のカロリーと栄養バランスも事前にリサーチ済みである。
完璧な記念日デートの幕開け。そう、すべては私の計画通りに美しく進行していくはずだった。
しかし、レストランでの優雅な食事を終え、午後からのスケジュールの確認をしようとしたその時だ。
〈ねえねえゆいぽーん! 今日って結婚記念日なんでしょ!? アタシも一緒にお祝いしたい! ちょっとでいいから表に出してよ!〉
脳内に、私の完璧な計画を根底から覆す、鼓膜を突き破るような大音量の声が響いた。
(……ソニア。今日は私と健太郎さんの神聖な記念日です。あなたが出てくる幕ではありません)
〈えーっ! ケチ! ゆいぽんの幸せはアタシの幸せじゃん! それに、アタシだって夫ちゃんにおめでとうって言いたいし!〉
(お祝いの言葉なら、脳内で私が代弁して伝えておきますから、今日は大人しくしていてください!)
私が脳内で激しく抗議し、親友を必死に抑え込もうとしていると、隣を歩いていた健太郎さんが私の様子に気づいて足を止めた。
「結衣? どうしたの、眉間にシワを寄せて。もしかして、そーぽよちゃんが何か言ってる?」
「あ、いえ……その」
私は口籠もった。隠し事はしないという夫婦のルールに従うなら、正直に話すしかない。
「……ソニアが、自分も一緒にお祝いしたいから、表に出してほしいと騒いでおりまして」
私がため息交じりに告げると、健太郎さんは「なるほど」と呟き、ふっと目を細めて微笑んだ。
「記念日だから、そーぽよちゃんにも楽しんでもらおうよ」
「えっ……健太郎さん!?」
「それに、最近そーぽよちゃんも結衣を気遣って、外に出るのを我慢してくれてただろ? せっかくのお祝いの日だし、俺からもそーぽよちゃんに感謝を伝えたいんだ」
健太郎さんはあっさりとソニアタイムを許可する提案をしてきた。
(……健太郎さんがそう言うのなら、仕方ありません。でも、決して羽目を外さないように。いいですね、ソニア)
〈っしゃあ! 夫ちゃんマジ神! ゆいぽん、あざまる水産!〉
私が渋々許可を出した瞬間、カチリと頭の奥でスイッチが切り替わる明確な感覚があった。
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『夫ちゃーん! 結婚記念日、マジでおめでとー!』
ソニアが主導権を握った私の体は、先ほどまでの落ち着いた振る舞いが嘘のように、弾かれたように健太郎さんの腕に抱きついた。ネイビーの清楚なワンピース姿でありながら、仕草は完全にギャルのそれだ。やたらと前髪を触る癖も出ている。
「あはは、ありがとう、そーぽよちゃん。そーぽよちゃんもお祝いしてくれて嬉しいよ」
『っしょー! で、これからどこ行くの? アタシ、テンションぶち上がるようなとこ行きたい!』
「それなら、あそこのデパートに行ってみないか? そーぽよちゃんに、何かプレゼントしたくてさ」
『えっ、マジで!?』
(プ、プレゼント!?)
私は意識だけの金縛り状態の中で、耳を疑った。
(今日は『私たちの』結婚記念日ですよ! なぜ、私が生み出したイマジナリーフレンドにプレゼントを買う必要があるんですか!)
私の脳内での絶叫をよそに、健太郎さんはソニアをエスコートして、駅前の大型デパートへと向かった。
到着したのは、きらびやかな照明と華やかな香りに包まれた、一階のコスメフロアだった。
「そーぽよちゃん、いつも結衣を明るくしてくれているお礼だよ。今日はそーぽよちゃんの欲しいものを買ってあげる」
健太郎さんは、完璧な営業スマイルで気前よくそう宣言した。
『うっひょー! 夫ちゃんマジ神! 一生ついてく!』
ソニアは大喜びで跳ね回り、ズラリと並ぶブランドコスメのカウンターへと突進していった。
『うわ、この新作のアイシャドウパレット、超カワイイ! ねえ夫ちゃん、これどう思う?』
「うん、すごく似合いそうだね。そーぽよちゃんの雰囲気にぴったりだ」
(似合いません! そんなラメがぎっしり詰まった派手な色、私の公務員としての顔には到底不適切です!)
私が激しく抗議しても、ソニアはニヤニヤと笑いながら次々と商品を手に取っていく。
『じゃあさ、こっちのリップも! これ、限定色でずっと気になってたんだよねー!』
「いいよ、それも一緒に買おうか」
健太郎さんは嫌な顔一つせず、次々とソニアが選んだ商品をレジへと持っていく。
(ちょっと、健太郎さん! お財布の紐が緩みすぎています! そんな無駄遣いをしては、私たちのマイホーム貯金が……!)
私の悲痛な叫びは届かず、美容部員さんから可愛らしいラッピングの施された紙袋を渡されたソニアは、満面の笑みで健太郎さんに抱きついた。
『夫ちゃん、マジでありがと! 超大事に使うね!』
「喜んでもらえてよかったよ。……よし、次は上の階のアクセサリー売り場にも行ってみようか」
『えっ、まだ買ってくれんの!? ヤバい、今日マジで最高の日じゃん!』
二人はさらにエスカレーターを上り、アクセサリー売り場へと向かった。
ショーケースの中には、キラキラと輝くネックレスやピアスが並んでいる。ソニアの目は完全に獲物を狙う肉食獣のように輝いていた。
『あ、この大ぶりのピアス、絶対盛れるやつだ! ねえ夫ちゃん、つけてみていい?』
「もちろん。そーぽよちゃん、華やかなのが好きだもんね」
健太郎さんはショーケースを覗き込みながら、ソニアと並んで楽しそうにアクセサリーを選んでいる。
その光景を自らの視覚を通して見せつけられながら、私の心の中には、黒くドロドロとした感情がマグマのように湧き上がっていた。
(今日は私たちの結婚記念日なのに、なぜ私の体を使ってソニアにプレゼントを!?)
激しい嫉妬と、理不尽な怒りが胸を締め付ける。
確かに、私はアクセサリーなど実用性のない装飾品には興味がないし、コスメも必要最低限しか持っていない。もし健太郎さんが私に「欲しいものを買ってあげる」と言ったとしても、私はおそらく「実用的な家電か、貯金に回しましょう」と答えていただろう。
それはわかっている。わかっているけれど。
(私はこんなもの、全然うれしくないのに……!)
健太郎さんの優しい視線と、惜しみないプレゼント。それが向けられているのは、私ではなく、私の中にいる『ギャル』なのだ。
私は心の中で、ギリギリとハンカチを噛みちぎるような思いで、その屈辱的な光景をただ耐え忍ぶしかなかった。
『ねえ夫ちゃん、これ買って!』
「ああ、いいよ」
健太郎さんの財布から、またしてもクレジットカードが取り出される。
(もう嫌……早く、早くこの理不尽な時間が終わって……!)
私は強烈な嫉妬心に苛まれながら、ただひたすらに、頭の中でソニアタイムの終了を祈り続けることしかできなかった。




