第33話 エンドロールの後
映画のエンドロールが流れ終わると、リビングには静寂と、少しの余韻が残された。
画面が真っ暗になっても、健太郎さんはまだお腹を抱えてクスクスと笑っている。
『あー、マジで笑い疲れた! 腹筋痛いんだけど!』
ソニアは大きく伸びをすると、そのままコロンと横に倒れ込み、健太郎さんの膝の上に頭を乗せた。いわゆる膝枕という、私には理性が止めてできない愛情表現にかかせない体勢だ。
「おおっと。そーぽよちゃん、すっかりくつろいでるね」
『だって夫ちゃんの太もも、筋肉しっかりしてて寝心地いいんだもん』
ソニアは甘ったるい声を出して、健太郎さんのお腹のあたりを指先でツンツンと突き始めた。
(ちょ、ちょっとソニア! なんてふしだらな真似を! すぐに起き上がりなさい!)
私が脳内で激しく抗議するが、ソニアは全く意に介さない。それどころか、彼女は健太郎さんの腹筋を撫で回しながら、ふと声のトーンを少しだけ落とした。
『……ねえ、夫ちゃん』
「ん? どうしたの?」
『さっきの映画のヒロインさ、マジで超絶ワガママで、自分の部屋も片付けられないようなズボラ女だったじゃん?』
確かに、先ほどのカオスな映画に登場したヒロインは、エコを語りながら自分は片付けもできず、他人に文句ばかり言う、設定が破綻したメチャクチャなキャラクターだった。
『もしさ。……もし、ゆいぽんが、あのヒロインみたいに本当は超絶ワガママで、部屋も全然片付けられないようなズボラ女だったとしても、夫さんは愛せるっしょ?』
その唐突な質問に、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。
ソニアが何を意図してそんなことを聞いたのかはわからない。しかし、それは「常に完璧な妻であらねばならない」と自分に呪いをかけている私にとって、一番触れられたくない、けれど一番恐れている核心を突く問いだった。
(や、やめて……! 健太郎さんにそんなこと聞かないで……!)
もし、「いや、さすがにズボラすぎるのはちょっと……」なんて苦笑いされたら。私の存在意義そのものが否定されてしまうような気がして、私は意識だけの状態でありながら、息が止まりそうになった。
健太郎さんは、撫で回されていた腹筋からソニアの手を優しく止めると、少しだけ考え込んだ。
そして、いつも見せる営業スマイルではなく、ひどく真剣で、静かな瞳で私(の顔をしたソニア)を見つめ返した。
「……結衣がどれだけワガママでも、それが結衣の『本音』なら、俺は嬉しいよ」
『えっ?』
「結衣はいつも、俺のためとか、社会人としてって言って、無理して完璧であろうとするだろ? 俺は、その頑張る姿を尊敬しているけど……時々、見ていて苦しくなるんだ。だから、結衣がだらしなくても、ワガママでも、俺の前でだけは素を見せてくれるなら、それが一番愛おしいよ」
健太郎さんのその言葉は、静かに、けれど確実に、私の心の一番奥底に響いた。
(……っ)
共有している視界が、急にぐにゃりと歪んだ。
涙が溢れてきたのだ。
両親の期待に応えるために、そして彼にふさわしい妻であるために、私はずっと「完璧」という鎧を着込んで生きてきた。少しでも隙を見せれば、愛想を尽かされると恐れていた。
けれど彼は、私が隠し続けていた「だらしなくて不器用な部分」さえも、最初から許容して、愛そうとしてくれていたのだ。
〈……合格じゃん、夫さん〉
脳内で、ソニアがフッと満足げに笑う気配がした。
『あーあ! なんだよそれ、マジでご馳走様なんですけど!』
ソニアは照れ隠しのように声を張り上げると、健太郎さんの首に腕を回し、強引に彼の顔を引き寄せた。
『ゆいぽんのノロケ聞いてたら、アタシまで熱くなってきちゃった。映画より、夫さんの筋肉触ってる方が楽しいし』
「ちょ、そーぽよちゃん、顔近いって……っ」
ソニアの挑発的な瞳と、艶かしい吐息。健太郎さんの顔がカッと赤くなり、呼吸が荒くなるのが共有された感覚から伝わってくる。彼の中の『男』のスイッチが、完全に入ってしまったのだ。
ピピピピピ……。
その絶妙すぎるタイミングで、テーブルに置かれたタイマーが鳴り響いた。
『あ、時間だ! じゃ、あとはゆいぽんによろしく!』
ソニアはニヤリと笑うと、パッと主導権を手放した。
「……っ!」
頭の奥でスイッチが切り替わり、私の体にドッと重力が戻る。
気がつけば、私は健太郎さんに膝枕をしてもらった状態から身を起こし、彼と鼻先が触れ合うほどの至近距離で密着していた。
「……結衣」
健太郎さんの少し掠れた、熱を帯びた声が私を呼ぶ。
普段なら「破廉恥です!」と突き飛ばして逃げ出していたかもしれない。しかし、今の私は、彼が先ほど言ってくれた言葉で、心が芯から溶かされていた。
「……健太郎、さん」
顔から火が出るほど恥ずかしかったが、私は逃げ出さず、震える腕で彼の広い背中にそっとしがみついた。
「……私、本当は、全然完璧じゃありません。ワガママだし、すぐに嫉妬するし、面倒くさがりです……」
「それでいいんだよ」
健太郎さんは優しく微笑むと、私の背中に腕を回し、強く抱きしめてくれた。
「そんな結衣も、俺は全部大好きだ」
重なる唇。私はもう、理屈で彼を拒むことはできなかった。
カオスなB級映画が残した不思議な高揚感と、彼からの絶対的な愛情に包まれながら、私は顔を真っ赤にして彼を受け入れ、深く愛を確かめ合った。
+++
翌朝。
休日の心地よい日差しが差し込むベッドの中で、私は目を覚ました。
隣では、健太郎さんがまだスースーと穏やかな寝息を立てている。
昨晩の情熱的な時間を思い出し、私は毛布に顔を埋めて身悶えした。
(あんな、理性を欠いた獣のような振る舞いを……。それに、事後にベッドの中で「B級映画も、たまにはいいね」などと、あんな不条理な映画を褒めてしまうなんて……!)
公務員としての論理的思考が戻ってくると、途端に恥ずかしさが津波のように押し寄せてくる。
「……ん、おはよう結衣」
身悶えしていると、健太郎さんが目を覚まし、私を優しく腕の中に引き寄せた。
「お、おはようございます、健太郎さん……」
「昨日の映画、結衣も気に入ってくれてよかったよ。あそこまでハチャメチャだと、逆にスカッとするだろ?」
健太郎さんは屈託のない笑顔でそう言った後、嬉しそうに提案してきた。
「ねえ、来週の休日もB級映画観る? 空飛ぶマンモスが魔界王と戦うやつがあるんだけど」
(……空飛ぶマンモスと、魔界王?)
私の脳内に、再び論理的思考を根底から破壊するようなカオスな映像がフラッシュバックした。普通なら「生物の生態を無視しています!」と即座に却下するところだ。
しかし、私は彼の楽しそうな顔を見て、ふっと小さく息を吐いた。
「……月に一本だけなら、お付き合いします」
「本当!? やった、じゃあ約束ね!」
健太郎さんは子どものように喜び、私の額にチュッとキスをした。
〈っしょー! ゆいぽん、話わかるじゃん!〉
脳内でソニアが歓声を上げるのを聞きながら、私は少しだけ頬を緩めた。
完璧な映画でなくても、完璧な妻でなくても、彼と一緒に笑い合えるならそれでいい。私たちの生活に、また一つ、くだらなくて愛おしい新しい習慣が生まれた瞬間だった。




