第32話 B級映画
週末の夜。動画配信サービスを利用した映画鑑賞は、私たち夫婦にとって数少ない娯楽の一つだ。
(映画とは、単なる娯楽ではなく教養を深め、人間の心理を学ぶための有意義な時間であるべきだ)
私はそう考え、数々の映画祭で賞を受賞したという、極めて正統派な恋愛映画を本日の鑑賞作品に選定した。主人公の男女が些細な誤解からすれ違い、美しいヨーロッパの風景の中で静かに愛と人生を語り合うという、情緒的で落ち着いた流れの作品だ。
リビングの照明を落とし、静かなオーケストラのBGMと、淡々としたセリフが流れる中、私は背筋をピンと伸ばして画面を凝視していた。
しかし、開始から四十分。物語は一向に大きな起伏を見せない。
ふと隣を見ると、健太郎さんの頭がカクン、カクンと不規則に揺れていた。連日の外回り営業とデスクワークの疲れもあるのだろう、彼の瞼は完全に重力に負けようとしている。
「健太郎さん、寝てはいけません。ここからが心情の変化の重要な……」
注意しようとした私の声も、ひどく掠れていた。正直に言おう。私も限界だった。地方公務員として規則正しい生活を送る私の体内時計は、この心地よくも退屈な波の音と、抑揚のない会話劇によって、急速にシャットダウンの準備を始めていたのだ。
(だ、ダメです。私が合理的な基準で選んだ名作なのに、寝落ちするなんて無責任な……)
必死に目を見開こうとしたが、次に気づいた時には、画面にはエンドロールが流れ、薄暗いリビングでお互いに目を覚ました。
「……ごめん結衣、俺、いつの間にか……」
「……いえ、私も中盤以降の記憶がありません」
こうして、私たちの高尚な映画鑑賞会は、睡魔の前に最悪の結末を迎えたのだった。
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数日後の休日。
「今日こそ、最後まで映画を観よう」という健太郎さんの提案で、リベンジの映画鑑賞会が開催されることになった。
しかし、作品選びを始めようとしたその時だ。
〈ちょっと待ったぁ!〉
脳内に、ソニアの大音量が響き渡った。
(……なんですか、ソニア。今日は私が環境問題に迫る海洋ドキュメンタリーを選定する予定なのですが)
〈だからそれがダメなんだって!前回の恋愛映画だってマジで大失敗だったじゃん!二人して開始一時間もしないで爆睡とか、ウケるんですけど!〉
(し、失敗とは失礼な!あれは芸術性の高い……!)
〈芸術性とかどうでもいいの!映画はエンタメ!脳汁出してアガらなきゃ意味ないっしょ!ねえ、アタシに映画選ばせて!ソニアタイムちょうだい!〉
脳内で猛烈にアピールしてくるソニアに、私は小さくため息をついた。
私たちのルールでは、ソニアは私の許可なしに強引に主導権を奪うことはできない。私は隣でリモコンを持っている健太郎さんに視線を向けた。
「……健太郎さん。ソニアが、前回の映画が退屈すぎたから、今日は自分が映画を選びたいとソニアタイムを要求しているんですが」
「おお、そーぽよちゃん!いいじゃないか。俺も前回は寝ちゃったし、そーぽよちゃんが選ぶ映画なら目が覚めそうだしね」
健太郎さんはあっさりと承諾し、爽やかな笑顔を見せた。
(健太郎さんがそう言うなら……わかりました。一時間だけですよ)
私が脳内で許可を出した瞬間、カチリと頭の奥でスイッチが切り替わった。
『っしゃー!夫ちゃん、ゆいぽん、サンキュー!アタシのターンきたこれ!』
主導権を握った私の体は、嬉しそうに健太郎さんの隣に座り直した。
『絶対、テンション爆上がりのゾンビ恋愛モノ一択っしょ!イケメンがいっぱい出てくるやつ!』
「うーん、でも俺はどっちかというと、アクションがいいかな。ドカンと爆発とかあれば絶対眠くならないし」
健太郎さんも、前回の反省からか派手なジャンルを推してくる。
(ドキュメンタリーです!事実に基づいた映像から学ぶべきことは多いはずです!)
『ゾンビ恋愛!』
「アクション!」
(ドキュメンタリー!)
三者三様の激しい論争の末、健太郎さんが動画配信サービスの「あなたへのおすすめ」から、とんでもない妥協案を見つけ出した。
「……これ、どうかな?『ゾンビ・オブ・エコロジー~君と踊る終末~』」
『何それ!ゾンビが恋愛しながら社会問題を解決するって書いてある!アクションと恋愛と社会問題(ドキュメンタリー要素)が全部入ってんじゃん!』
(全部詰め込めばいいというものではありません!設定がカオスすぎます!)
私の抗議もむなしく、健太郎さんとソニアはノリノリでそのB級映画の再生ボタンを押してしまった。
映画は開始五分で、私の論理的思考を完全に破壊してきた。
画面の中では、血みどろのゾンビたちが突如として人間を襲うのをやめ、国連本部のような場所でメガホンを握りしめ、地球温暖化の危機を訴えるスピーチを始めたのだ。
(……おかしいでしょう!声帯が腐敗しているのに、なぜあんなに滑舌が良いんですか!そもそも、すでに死んでいるアンデッドがなぜ地球の未来や環境問題を憂いているんです!)
私は脳内で、設定の矛盾に対する猛烈なツッコミを連発した。
『あはははは!マジウケる!ゾンビがエコバッグ使ってるし!』
ソニアはソファの上で腹を抱えて大爆笑している。
さらに物語が進むと、人間とゾンビの対立は武力による抗争ではなく、なぜか広場でヒップホップのダンスバトルをして決着をつけるというトンデモ展開に突入した。
(ダンスで資源枯渇問題が解決するわけがありません!行政のプロセスを完全に無視しています!)
そして、極めつけのクライマックス。
人間とゾンビが手を取り合い、環境問題への意識を一つにした感動的なシーンの直後――突如として宇宙から巨大な隕石が飛来し、地球に激突したのだ。
(……は?)
画面は白く飛び、人類もゾンビも、彼らが守ろうとした美しい自然も、一瞬にしてチリとなった。
(隕石衝突で、環境問題どころではなくなりましたよね!?これまでのエコロジーの主張は一体何だったんですか!脚本家は途中で物語を放棄したとしか思えません!)
私はあまりの不条理に脳内で激怒し、息を荒らげていた。
『ぶっ……あはははははっ!最高!マジで意味わかんない!隕石ドーンで全部終わりとか、天才っしょ!』
ソニアは涙を流しながら手を叩いて笑い転げている。
ふと横を見ると、健太郎さんは映画の画面ではなく、私の顔――正確には、ソニアに乗っ取られてゲラゲラと笑い転げ、画面に向かって指を差してツッコミを入れる妻の顔――を、ひたすら楽しそうに見つめていた。
「あはは、そーぽよちゃんのツッコミと着眼点、最高におもしろいな。映画よりずっと楽しいよ」
健太郎さんは、カオスなB級映画そのものよりも、それに全力でリアクションするソニアの姿に完全に夢中になっているようだった。
(健太郎さん……映画を真面目に観る気がないなら、最初からドキュメンタリーにすればよかったのに……)
私は呆れ果てながらも、彼がこんなに声を出して笑っている空間が、前回の静まり返ったリビングよりも、ずっと温かくて心地よく感じられる自分に気がついていた。




