第37話 弱音
普段の私なら、絶対に許可しない。
私たちのルールでは、ソニアタイムは『1日1回、1時間』と厳格に定められている。今日はすでに、昼間のデパートでの買い物でその権利を行使しているのだ。異例の本日2度目の交代など、公務員としての規律を重んじる私が認めるはずがない。
しかし、今は状況が違った。
自分自身で甘えようとして失敗し、ソニアだと勘違いされてしまった気まずさ。これ以上、自分自身の不器用な態度を健太郎さんの前に晒し続けるのが、急に恥ずかしくて耐えられなくなってしまったのだ。
(……今日だけ、よ。特別なんだからね)
私は、酔った勢いと逃避の感情に任せて、あっさりとその例外を認めてしまった。
〈っしゃあ! ゆいぽんマジ最高! お祝いの続きはアタシに任せな!〉
脳内でソニアが歓喜の声を上げる。
そして、私の頭の奥で、本日2度目となる『カチリ』というスイッチの切り替わる音が、明確に響いた。
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『うっひょー! なんか体マジで熱くなってきたー!』
主導権を握ったソニア(つまり私の体)は、アルコールが回っていることも相まって、開幕から異常なハイテンションだった。
ソニアはソファの上で跳ねるように立ち上がると、そのまま無防備に座っていた健太郎さんの上に跨るようにして、ドスッと膝の上に着地した。
「うおっ!? ちょ、そーぽよちゃん!?」
『へへーっ、夫ちゃん、捕まえたー!』
ソニアは健太郎さんの首に両腕を回し、顔がくっつくほどの至近距離でベタベタと甘え始めた。豊満な胸が、健太郎さんの胸板に容赦なく押し付けられる。
「ま、待って! 今日はかなり酔ってるからって、いくらなんでも大胆すぎ……っ!」
健太郎さんは顔を真っ赤にして、ソニアの肩を掴んで引き剥がそうとするが、照れの方が勝っているのか手元に力が入っていない。
普段の私なら、ここで間違いなく「破廉恥です! 今すぐ離れなさい!」と脳内で絶叫し、強制的に主導権を奪い返していただろう。
しかし、今日の私は違った。
アルコールで理性のタガが外れきっている上に、健太郎さんへの愛情が限界突破していた私は、脳内で謎のポンポンを振り回す応援団と化していたのだ。
(いいわ、ソニア! もっと行きなさい! GOGO!)
〈おっ、ゆいぽんノリいいじゃん! 任せな!〉
(よし、次は首筋よ! そこに顔を埋めるの!)
『夫ちゃぁん、えいっ!』
「ひゃっ!? そ、そーぽよちゃん、耳に息が……っ!」
(素晴らしいわ! もっと夫を翻弄してちょうだい!)
健太郎さんが狼狽する姿を特等席で(しかも自分の体を使って)堪能しながら、私は「完璧な公務員」の仮面を完全に窓から投げ捨てていた。
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ひとしきり健太郎さんの膝の上でイチャイチャと暴れ回り、彼がすっかり疲弊して息を整え始めた頃だった。
ふと、ソニアの動きがピタリと止まった。
至近距離で見つめ合う中で、ソニアは健太郎さんの瞳の奥に、ほんの微かな翳りを見つけたのだ。それは、酔っ払って浮かれていた私では絶対に気づけなかった、微細な疲労の色だった。
『……ねえ、夫ちゃん』
急にトーンを落としたソニアの真面目な声に、健太郎さんもハッとして瞬きをした。
「ど、どうしたの? 急に真剣な顔をして」
『最近、仕事でなんか悩んでない?』
「えっ?」
健太郎さんの肩が、ビクッと強張った。
「な、何言ってるんだよ。そんなことないよ、いつも通り絶好調……」
『誤魔化しちゃダメ。アタシとゆいぽんには、隠し事なしっしょ?』
ソニアは、健太郎さんの頬を両手で優しく包み込んだ。
『ゆいぽんはマジで真面目だから、夫ちゃんが完璧に振る舞ってたら信じちゃうけどさ。アタシのギャルの直感は誤魔化せないよ。なんか、無理して笑ってない?』
その裏表のない、真っ直ぐな言葉の包容力に押されたのだろう。
健太郎さんは少しだけ目を伏せ、やがて、重い口を開いた。
「……すごいな、そーぽよちゃんには敵わないや。実は……」
彼は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「俺の責任じゃないんだけど、最近、仕事で予測不能なトラブルが立て続けに起きててさ。チームの空気もピリピリしてるし、対応に追われて……少しだけ、自信をなくしてたんだ」
「でも、結衣はいつも家事を完璧にこなして、俺を支えてくれてるだろ? これ以上、俺の仕事の愚痴で結衣に心配をかけたくなくて……だから、言えなかったんだ」
その告白を脳内で聞いた瞬間。
(……えっ)
私の頭から、アルコールの酔いが一気に、完全に引いていくのがわかった。
冷水を浴びせられたような衝撃だった。私は何も知らなかった。彼がそんなにも重圧を一人で抱え込んでいたことにも、彼が私に気を使って無理をして笑っていたことにも。
完璧なスケジュールをこなし、完璧な妻であろうとすることに必死で、一番身近にいる彼の「心からのSOS」に、私は全く気づけていなかったのだ。
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ショックで脳内が静まり返る私に代わり、ソニアは健太郎さんの頭を自分の胸にギュッと引き寄せた。
『バカだなぁ、夫ちゃんは! そういう時こそ、頼るのが家族っしょ!』
「そーぽよちゃん……」
『夫ちゃんは一人じゃないから。アタシも、ゆいぽんも、いつでも絶対に夫ちゃんの味方だからね!』
ソニアの力強い励ましに、健太郎さんは「……ありがとう」と呟き、ソニアの背中にそっと腕を回した。
『よし! じゃあアタシの役目はここまで! 夫ちゃん、少し待っててね!』
カチリ、と。
予定の一時間には全く満たない短い時間で、ソニアは潔く主導権を手放した。




