第17話 悲劇の妻
【結衣視点】
「おはようございます、大河内さん。いつもお掃除、ありがとうございます」
私はゴミを出し終え、マンションのエントランスで大河内さんにすれ違いざまに挨拶をした。
今日も完璧な身だしなみで、市役所へ出勤する準備は万端だ。先日、そーぽよが出した不適切なゴミも、袋の底に厳重に隠蔽したため、誰にも見られることなく処理できたはずだ。
しかし、大河内さんは私の顔を見るなり、竹箒を放り出して凄い勢いで駆け寄ってきた。
「ゆ、結衣さんっ……!」
「はい? どうされましたか?」
ガシッ! と、私の両手を、大河内さんのシワだらけの手が力強く握り締めた。
見れば、大河内さんの目は真っ赤に充血し、ポロポロと大粒の涙を流しているではないか。
「結衣さん……あなた、本当に強いわね。あんなゴミまで、自分の手で捨てるなんて……」
「……え? ゴミ、ですか?」
私は一瞬、心臓が跳ね上がった。
(まさか、隠したはずのソニアのゴミが見られた!? いや、そんなはずは……!)
私が動揺しているのを、大河内さんは別の意味で捉えたらしい。彼女は私を庇うように強く抱き寄せた。
「無理して笑わなくていいのよ! 辛かったわね、苦しかったわね……。あんな男のために、あなたがボロボロになる必要なんてないのよ!」
「あ、あの、大河内さん? あんな男とは……健太郎さんのことですか?」
「世間体を気にして庇うなんて、本当に健気なんだから……!」
大河内さんは私の手を何度もさすりながら、熱を帯びた声で囁いた。
「奥さん、負けないでね。私だけは、何があってもあなたの味方だから。あのド派手な泥棒猫なんかに、奥さんの大切な居場所を奪わせやしないわ!」
(……泥棒猫?)
その単語を聞いた瞬間、私の脳内で点と点が最悪の形で線として繋がった。
ド派手な泥棒猫。それは間違いなく、昨日の夕暮れ時にコンビニへ出かけた『ソニア』のことだ。薄暗かったから大丈夫だろうと楽観視していたが、大河内さんにその姿をしっかり目撃されていたようだ。
そして、ソニアの事を愛人か何かと勘違いしているのだろう。
〈この婆ちゃまの勘違い、マジウケる〉
脳内で事の顛末を察したソニアが、この最悪な状況を呑気に楽しむ声が響いた。
(あなたのせいよ……!)
私は強烈な頭痛を覚えながら、すべての元凶である親友に心の中で抗議した。
〈メンゴメンゴ〉
(ご、誤解を解かなければ……!)
喉まで出かかった言葉を、私はすんでのところで必死に飲み込んだ。
ここで大河内さんに「あれは愛人ではなく、私の脳内にいるイマジナリーフレンドのギャルが一日一時間だけ体を乗っ取った姿なんです」などと説明して、誰が信じるというのか。下手をすれば精神状態を疑われ、役所に通報でもされたら、それこそ公務員としての社会的信用が完全に終わってしまう。余計におかしな方向へ事態を悪化させかねない。
「……お心遣い、ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから。仕事がありますので、これで失礼します」
私は引き攣った笑顔で一礼し、足早に駅へと向かった。
背後から、「結衣さーん! いつでも相談に乗るからねー!」という大河内さんの悲痛な叫び声が聞こえる。
私は寒気を感じながら、ただひたすらに歩幅を早めた。
(これ以上、無用な波風を立てるわけにはいかないわ。……今後は絶対に、外でソニアを遊ばせたりしない。ゴミの捨て方にも細心の注意を払わなければ)
私は心の中で固く誓い、逃げるようにマンションを後にしたのだった。
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【健太郎視点】
「よし、今日も気合入れていくぞ」
結衣を見送ってから十分後。俺は洗面所でネクタイを締め直し、完璧な営業スマイルを作って部屋を出た。
昨日そーぽよちゃんが見せてくれた『昭和のベタなお出迎え』のおかげで、仕事の疲れは嘘のように消え去っている。結衣とそーぽよちゃんという、真逆だけど愛おしい二人の存在が、俺の毎日の活力だった。
マンションのエントランスを出ると、ゴミ捨て場の前で大河内さんが竹箒で掃除をしているのが見えた。
俺はいつものように、ハキハキとした声で挨拶をした。
「おはようございます、大河内さん! 今朝も冷えますね!」
大河内さんが、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞬間、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……っ」
大河内さんの顔が、まるで親の仇を見るような、憎悪に満ちた般若のような形相になっていたのだ。
彼女の鋭い目が、俺の頭の先からつま先までを、汚物を忌み嫌うかのように舐め回す。
「……チッ」
そして、信じられないほど大きな音で、舌打ちをした。
「えっ……?」
俺が呆然としていると、大河内さんは俺に完全に背を向け、バサッ!バサッ!と親の仇を討つような尋常ではない力強さで竹箒を振り回し始めた。
「……世の中にはね、人間の皮を被った『燃えないゴミ』がいるのよ。本当に、反吐が出るわ」
大河内さんが、俺に聞こえるような大声で独り言を呟いた。
「あ、あの……大河内さん? 俺、何か怒らせるようなこと、しましたか……?」
俺が恐る恐る尋ねると、彼女は振り返りもせずに吐き捨てた。
「お見損ないしましたよ、瀬戸さん。あなたには天罰が下るわ。……さあ、遅刻しますよ、早く行ったらどうですか!」
完全に拒絶の意思を示され、俺は戸惑うしかなかった。
営業マンとして、初対面の人にも好印象を持たれることには自信があったし、大河内さんともこれまで良好な関係を築けていたはずだ。心当たりが、本当に一つもない。
「……は、はい。失礼します……」
俺は逃げるように駅へと向かって歩き出した。
一体、何が起こっているんだ?
自分がこの日を境に、近所の奥様ネットワークの中で『妻をメイド扱いして愛人を連れ込む、最低最悪のクズ男』として認定されていることなど、この時の俺は知る由もなかった。




