第16話 勝手にサスペンス劇場
【大河内トメ視点】
私の名前は、大河内トメ。御年六十八歳。
このマンションの自治会役員であり、長年マンションの美化と風紀を守り続けてきた、いわば『監視役』である。住人の顔と名前、そして生活リズムはすべて私の頭の中にインプットされている。
中でも、三階に住む瀬戸さんご夫婦は、私の最もお気に入りの住人だった。
夫の健太郎さんは、いつもパリッとしたスーツを着こなす、爽やかで礼儀正しい好青年。妻の結衣さんは、地方公務員らしく控えめで、いつも地味だが清潔感のある服装をしており、挨拶も非の打ち所がない。
今の時代には珍しい、絵に描いたような素晴らしい若夫婦だ。……そう、思っていたのだ。あの夕暮れ時までは。
その日、私はマンションの花壇に水をやっていた。
ふと、瀬戸さんの部屋のドアが開く音がした。結衣さんが買い物にでも行くのかしらと思い、挨拶をしようと顔を上げた私の目に、信じられないものが飛び込んできた。
「……えっ?」
瀬戸さんの部屋から出てきたのは、結衣さんではなかった。
バサバサの長いつけまつげに、毒々しいほど鮮やかなピンクの唇。フリルのついた露出度の高い服に、ジャラジャラと光る下品なアクセサリー。どこからどう見ても、頭の軽そうな『ド派手な女』だったのだ。
女はスマートフォンを見ながら、鼻歌交じりにヒールの音を響かせて、マンションのエントランスを出ていった。
私は持っていたジョウロを取り落としそうになった。
まさか。あの真面目な結衣さんが、あんな破廉恥な格好をするはずがない。結衣さんに双子の妹でもいるのだろうか? いや、自治会の家族構成カードにはそんな記載はなかった。
だとすれば、結論は一つしかない。
「……不倫!!」
私は思わず口元を覆った。
あの爽やかで完璧な夫・健太郎さんが、結衣さんが留守にしている隙を狙って、あんな安っぽい水商売のような女を連れ込んでいるのだ! 男というのは、妻が真面目すぎると、ああいう毒々しい女にコロッと騙されてしまう生き物なのだ。
許せない。あんなに健気で礼儀正しい結衣さんを裏切るなんて。
私の中の『探偵魂』が、静かに、そして激しく燃え上がった。
+++
翌朝。
私はいつもより早く起き、竹箒を片手にゴミ捨て場の前に陣取っていた。
目的はもちろん、瀬戸家の『闇』を暴くための証拠集めである。
私は決して、他人のゴミ袋を漁るような悪趣味な人間ではない。ただ、ゴミ捨て場の美化委員として、分別が正しく行われているか『目視による外観の確認』をしているだけなのだ。
やがて、出勤前の結衣さんが、いつも通りのネイビーのスーツ姿でゴミ袋を持って現れた。彼女は私に「おはようございます」と深々と一礼し、ゴミ袋をネットの奥に置いて去っていった。
結衣さんの背中が見えなくなったのを確認し、私は瀬戸家のゴミ袋に鋭い視線を向けた。
「……むっ?」
私はゴミ袋に近づき、目を凝らした。
ゴミ袋の底が、何かの圧力でビリッと破けていたのだ。おそらく、中に物を押し込みすぎたのだろう。
そして、その破れ目から、あってはならない物が顔を出していた。
「これは……!」
私は息を呑んだ。
破れ目から覗いていたのは、若者向けの安っぽいギャル服のブランドタグ。そして、使い終わった巨大なつけまつげ。さらには、ギラギラと光るラインストーンのシールだった。
普段から無地のブラウスと膝丈スカートしか履かない結衣さんが、こんなものを買うはずがない。
……間違いない。昨日の夕暮れ時に見た、あの『ド派手な泥棒猫』のゴミだ。
だが、なぜそのゴミを、本妻である結衣さんが捨てているのだろうか?
その瞬間、私の脳内で恐るべき推理が閃いた。
「まさか……結衣さんは、すでに愛人の存在に気づいている……?」
それだけではない。図々しい愛人が家に居座り、その女が出したゴミの処理まで、結衣さんに押し付けているのではないか。あるいは、健太郎さんが「お前はもう用済みだ、あいつの身の回りの世話でもしろ」と結衣さんをメイド扱いしているのだとしたら……!
「ああ、なんて可哀想な結衣さん……!」
私は竹箒を握り締め、ボロボロと涙をこぼした。
夫に裏切られ、家を愛人に乗っ取られかけながらも、世間体を保つために必死に真面目な公務員として振る舞い、涙をこらえてゴミを捨てている。私の中で、結衣さんは完全に『愛人に夫を寝盗られた悲劇の妻』として名推理し、成り立った。
「結衣さん……あなたを救えるのは、私しかいないわ!」




