第15話 お出迎え
健太郎さんが勤める大手IT企業「株式会社クロス・ソリューションズ」は、期末に向けて繁忙期を迎えていた。
連日の残業と接待で、帰宅する彼の足取りは重く、いつもは完璧に着こなしているスーツの肩も心なしか落ちているように見える。
そんな彼を少しでも癒やそうと、私は完璧な栄養バランスの夕食と、チリ一つない清潔なリビングを用意して彼の帰りを待つのが日課となっていた。
しかし、その日の夕方。夕食の準備を終えた私に、脳内のソニアが猛烈なアピールを始めたのだ。
〈ねえゆいぽん、今日はアタシが夫ちゃんをお出迎えしたい! 絶対テンション上がるサプライズ用意してるから!〉
(サプライズ? 嫌な予感しかしません。公務員たるもの、奇をてらった行動は慎むべきです)
〈いいからいいから! 夫ちゃん、最近マジでお疲れモードじゃん。アタシに任せてよ!〉
健太郎さんの疲労を気にかけるソニアの言葉に、私は渋々ソニアタイムを許可してしまった。
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ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
「ただいま……」
健太郎さんの低く、疲れ切った声が響く。
主導権を握った私の体――ソニアは、玄関の三和土へ勢いよく飛び出した。その姿は、いつもの地味な部屋着の上に、先日百円ショップのアイテムでデコレーションしたド派手なピンクのフリルエプロンを身につけた、極めて常軌を逸した格好だった。
『夫ちゃーん、お仕事お疲れサマンサ!』
「えっ……そーぽよちゃん?」
目を丸くする健太郎さんに対し、ソニアはわざとらしくモジモジと身をよじらせ、上目遣いで彼を見つめた。
『ねえねえ。ご飯にする? お風呂にする? それとも……ア・タ・シ?』
(なっ……!!)
脳内で、私は絶望のあまり悲鳴を上げた。
(なんて破廉恥な! 昭和のドラマのベタなセリフじゃない! しかもその格好で!)
あまりの羞恥心に、私は意識だけの状態でありながら顔から火が吹き出しそうだった。健太郎さんも引いてしまうに違いない、そう思って彼を見ると――。
「……っ、あははははっ!」
健太郎さんは玄関に鞄を落とし、お腹を抱えて盛大に吹き出したのだ。
「あはは! 何それ、昭和のベタなやつ! しかもそのエプロン、この前の『バジぽよ』と同じセンスだね!」
『っしょー! 夫ちゃんのために、アタシが特別にデコったの! どう、にあってる?』
「いやー、最高。一気に疲れが吹き飛んだよ。ありがとう、そーぽよちゃん」
健太郎さんは涙が出るほど笑い転げ、その顔からは先ほどまでのどんよりとした疲労感がすっかり消え去っていた。
(……え?)
私は脳内で呆然とした。
完璧な栄養計算をした手料理よりも。ホコリ一つない部屋よりも。
こうしてくだらない冗談を言って、甘えて、笑わせることの方が、今の彼にとっては一番の「癒やし」になっていたのだ。
妻として、私は「正しさ」ばかりを追求して、彼が本当に求めている「安らぎ」を見落としていたのかもしれない。私は少しだけ反省し、ソニアの自由な振る舞いにひそかに感謝した。
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そして、週末の夕方。
窓の外は少しずつ薄暗くなり、街灯がポツポツと点灯し始める時間帯だった。
休日のソニアタイムを謳歌している彼女は、鏡の前で念入りにメイクアップをしていた。バサバサの長いつけまつげに、太いアイライン。唇には艶やかなピンクのリップ。服装も、あのフリフリのギャル服に派手なアクセサリーをじゃらじゃらと重ね付けしている。
『よしっ、今日のメイクも完璧! ねえゆいぽん、アタシ、アイス食べたい! ちょっとそこのコンビニ行ってもいい?』
(却下します! そんな厚化粧と奇抜なファッションで外を歩くなんて、近所の人に見られたら公務員としての社会的信用が失墜します!)
〈えーっ、でももう外、薄暗くなってきてるじゃん! 夕暮れ時だし、サッと行ってサッと帰ってくるだけだから! お願い!〉
私は窓の外を見た。確かに日は落ちかけ、あたりは薄暗い。この時間なら、近所の人と鉢合わせる確率も低いかもしれない。それに、先日の「お出迎え」で健太郎さんを癒やしてくれた恩もある。
(……わかりました。ただし、誰にも見つからないように、裏口からこっそり行ってくださいね)
『っしゃあ! ゆいぽんマジ話わかるー!』
ソニアはウキウキと財布を掴み、マンションの部屋を飛び出していった。
薄暗い道を小走りで進み、コンビニで念願の新作アイスを買い込む。幸い、すれ違う人も少なく、誰かに声をかけられることもなかった。
(ほっ……どうやら、誰にも見られずに済んだようね)
私は安堵の胸を撫で下ろした。
……しかし、マンションのエントランスに差し掛かった時、背後から強烈な視線を感じたような気がした。
だが、薄暗がりで相手の顔もよく見えず、ソニアは「気にしなーい!」とそのまま足早に部屋へと駆け込んだ。
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ピピピピピ。
タイマーが鳴り、一時間が経過して主導権が私に戻ってきた。
「……っ、重いっ」
顔面を覆う化粧の圧迫感と、つけまつげの不快感に、私はすぐさま洗面所に駆け込んだ。クレンジングオイルで顔をゴシゴシと洗い、フリフリの服を脱ぎ捨てる。
(こんな不適切なゴミ、絶対に見られてはいけません!)
私は、ソニアが散らかしたつけまつげの残骸や、派手な服を買った時のタグ、使い終わったキラキラ光るデコレーションシールなどをかき集めた。
真面目な公務員である私の家から、こんなギャル要素満載のゴミが出るなど、あってはならないことだ。
私は市の指定ゴミ袋を取り出すと、その「見られてはいけない証拠品」たちを、袋の奥底にギュウギュウと親の仇のように力任せに押し込んだ。上から生ゴミや見慣れた日用品のゴミを被せ、完全に隠蔽する。
「よし、これで完璧です」
しかし、私は焦りのあまり気づいていなかった。
無理やり底に押し込んだせいで、ゴミ袋の底がビニールの限界を超え、僅かに『ビリッ』と破けてしまっていたことに。
私はその破れたゴミ袋を抱え、マンションのゴミ捨て場へと向かった。
完璧な隠蔽工作を成し遂げたつもりで、自分の手で「最悪の証拠」を隣人の目に触れる形にさらけ出してしまっているとは夢にも思わずに。




