第十六話
暫くして、ピタッ。ピタッ。という足音が遠くから微かに聞こえてくる。
その足音は偶々女子トイレへ向かったのか、はたまた意図してなのかは分からないが、四人の潜む方へと足を進めていた。
やがてその足音ははっきりと聞こえるまで”何か”は近付いてきた。
林はその姿は見えないながらも恐らくこのトイレ内に入ってきているだろうなと感じていた。
質量のある存在が薄い壁を一枚挟んでゆっくりと確実に歩いて来ている。大里はその質量が動くたびに空気が揺れて肌に伝わるような気がした。
もちろんそれが本当にそうなのかは分からない。ただ、過敏になった神経を刺激するのは音の振動だけで十分すぎる程だった。
何とか気付かれることなく過ぎ去って欲しいと大里は手を合わせて祈る。
しかし、その願いを断ち切るように、コンコン。コンコン。と林達が隠れている個室の扉がノックされる。
突然の出来事に大里は驚いて声が出そうになった口を抑えている。大里同様に驚いた林も声を出す事はなかったが、その心臓は過去一番と言えるほど過重労働を強いられていた。
背筋が凍る思いをしてもそれを表出する事は出来ない。
二人は緊張のあまり荒くなる呼吸を無理矢理おとなしくさせる事で必死だった。
しかし、それに追い打ちを掛けるように、コンコンッ。コンコンッ。と先程よりも強くノックされる。
林は大里に視線を向ける。駅長室の時から明らかに精神が衰弱している大里はその恐怖から涙を流していた。
声にも出来ない。身体で表す事も出来ない。そのように制限されてしまったからこそ涙を流すという方法以外で感情を表す事が出来なかったのだろうと林は解釈した。
もっともその気持ちでいるのは大里だけではない。林も泣き出してしまいたい程の恐怖を感じながらもただ必死に耐えていたのだった。その為に大里に優しく出来る程の余裕は持ち合わせていなかった。
幸いこれ以上この扉がノックされる事はなくその恐怖の対象は再び、ピタッ。ピタッ。という足音を鳴らして歩き始める。
そして先程の情景を再現したかのように、高本と江森が入っている個室の扉をノックした。
高本は江森を心配そうに見る。その視線に気付いた江森は無理矢理笑顔を少し作り、高本を見て頷いた。
江森のその様子を見て高本もぎこちない笑顔を見せた。
扉越しにいる”何か”は先程と同じように二回目のノックをする。しかし、その音は明らかに強い。
ゴンゴン。ゴンゴン。と鳴らされたその扉の傍で高本と江森はただひたすらに息を殺していた。
林と大里が入る個室の時がそうであったように、高本と江森が入る個室の時も二回のノックで切り上げて、次の個室へと”何か”は足を進める。
三つ目の扉――つまり一番奥の扉をノックし始める。
ここは大里が女子トイレに入った時から閉じていた扉だ。そこをノックするという事は、この謎の存在と三つ目の個室にいる存在は顔見知りではないのだろうと大里は感じていた。
一度目で反応がなかったため、再度三つ目の個室のノックをする。その音はゴンゴンッ。ゴンゴンッ。と鳴り響く。
大里にはまるで扉が悲鳴を上げているようにさえ聞こえた。
三つ目の扉は一つ目と二つ目の時と異なりノックの回数に制限はない。ただ”何か”が赴くまま扉をノックし続けていた。
いつまでそこにいたのかは分からないが、何度も扉を叩いて暫くしてから再びペタッ。ペタッ。という音が女子トイレの中で響いた。
その足音が女子トイレの出入口に向かっていると感じた大里はようやく諦めたのかと少しだけ緊張の糸を緩める。
決してまだ油断出来る状態でないのは明白であったが、それでも一秒でも早くこの緊張を解き放ちたかった。
足音が通り道となっている林達のいる個室の前に近づいてくる。
ここを通り過ぎればとりあえず今回は逃げ切れる。その気持ちだけで大里はもう一度息を深く殺す。
ゆっくりと、ゆっくりと、その足音は女子トイレの入口へ向かっていく。
あと少し。
あと少し。
そうして大里は指折り数えて待っているとトイレの奥の方から、ガンッ! という何かが扉にぶつかった音が響いた。
その音に反応して”何か”は足音を止める。いや、足音を鳴らす準備をする。
一瞬の間を開けて”何か”はペタペタペタと素早く足音を鳴らしてその音の鳴った個室の前に向かう。
突然音が鳴ったため大里はどの個室で音が鳴ったのかは把握していない。
少なくとも自分達がいるところではないという確信は持っていたが、高本と江森がいる個室からは鳴っていないと確信出来る訳ではなかった。
二分の一の確率。どうかこの一は引かないでくださいと大里は心の中で祈る。
“何か”は音の鳴った扉を先程と同じようにノックする。しかし、先程と比較してそのノックには強い力が込められている事は明白だった。
ゴンゴンッ! ゴンゴンッ!
扉が壊れるのではと感じるほど強い力がトイレの中に鳴り響く。
その音は複数回響いた後、ようやく鳴りやんだ。
しかし、その後に扉を叩くような、蹴るような、そんな音が断続的に聞こえる。
大里はその音を聞いて何が起きているのかをイメージする。
音の質からして叩いている訳でも蹴っている訳でもなさそうだ。
じゃあ何なのか。
それを少し考えて、扉をよじ登っているのではないかという結論を出す。
だが、それと扉の断続的な音が鳴りやんだのはほぼ同時だった。
それを気付いた瞬間に大里は反射的に扉の上の隙間を見る。特に暗闇の中で何かが見える訳ではないが、幸い特に気配などを感じる事はない。
大里と林の頭上には特に何もいないのだろうと大里は判断した。
それに少し安堵する。しかし、高本と江森の所はどうなのかが分からない。その二人が無事な事をただただ祈りながら耳をすました。
どれ程時間が経っただろうか? 扉から飛び降りて着地した音が聞こえた。
疲れ切った精神を再度鼓舞して意識を”何か”に集中させる。
果たして”何か”が見た先には何があったのだろうか。それを意識しながら耳を傾ける。
しかし、”何か”は特に扉を開けるといった動作をする事なく、ペタッ。ペタッ。と再び足音を鳴らしながら今度こそ女子トイレを後にした。




