第十二話
ズルッ。ズルッ。そんな何か重たい物を引きずる音を立てながら”何か”がこの駅長室に迫ってくる。
そしてその”何か”が発する音は駅長室の前で鳴りやむ。江森は扉の先に意識を集中させる。
駅長室の扉は音もなく開く。
受付の前の長椅子に隠れている江森は長椅子から見える範囲でその”何か”を覗き見る。
そこからは白く傷がたくさん付いた素足だけがうっすらと確認出来た。
非常灯に照らされて不気味さを演出しながらゆっくりと足を動かしている。
それを確認した江森はこれ以上深追いせず、ゆっくりと長椅子の下へ顔を隠した。
駅長室の扉が音もなく閉まり、再びズルッ。ズルッ。という鈍い音が再び鳴る。
その音の主は長椅子の下に隠れる人間には気付かず、机の方に向かおうと歩み始める。
その様子を確認して安堵しかけた江森だったが、ふと一つの視線を感じた。背筋に悪寒が走り、慌ててその方向を向く。
そこには寝転んだ状態でこちらを見る人間がいた。それと目が合う。
「!!?」
その驚きに江森は目を見開き、声にならない声をあげる。
そのことに後悔と恐怖が同時に身体を走る。
江森は血の気がサッと引いたのを感じながらも長椅子の奥に潜り息を殺す。
しかし特に変化はなく、再びズルッ。ズルッ。という音が響く。それとともに目が合った人間は”何か”に引きずられてそのまま駅長室の奥へと向かった。
高本の視界にその”何か”が入ってくる。視界に入るとは言っても何かがいる事がわかる程度ではっきりとは見えない。
非常灯の光量のバランスの良さに感謝しながら高本は息を殺して駅長室内を歩くものをじっくりと観察する。
やはり光量が足りないのか”何か”についてはよく見えない。ただそれほど大きい者ではないなと高本は認識した。
続いて高本は”何か”が引き摺っているものに目を向ける。
あれは何だ? 心の中でそう呟きながら凝視する。
そこそこの質量のものを引き摺る音。駅長室に積みあがった死体の山。
それらから高本は人が運ばれているのだろうと推測する。
果たしてそれは誰なのか。やはり途中でいなくなった塩田なのか、それとも電車の中に残った誰かなのか、それとも他の別の人なのだろうか。
暗闇の中で冴える思考に身を委ねながら、高本は机の影に隠れて音が出ないように注意しながら静かに息を吐いた。
机の下からだと部屋の奥は確認出来るが、入り口の様子は一切見えない。駅長室の奥は非常灯の光が届かず完全な暗闇が広がっている。
しかし、ズルズルという音が近づいている事が”何か”の来訪を告げていた。
机の下で息を潜める大里は左方から近づいてきている"何か”の様子を椅子の隙間から伺う。
音を聞く限り、何かを引き摺っている事だけは分かる。
そしてその音の近さからそれは手を伸ばせば届く所にいるのだろうと大里は予測した。
気付かれないように息を殺す。そして不用意に音を鳴らさないように今の体勢から身体が動かないように全身の筋肉を硬直させる。
その”何か”が机の横を通り過ぎようとした時に、ガンッ! と椅子が机に当たる音がした。
その音に大里は心臓が飛び跳ねる。そして心臓は周りに聞こえるのではないかと思うほど大きな音を立てながらリズムを刻む。
私は一切動いていない。そのことから恐らく”何か”がこの椅子に当たったのだろうと大里は予測する。
そうすることで異常に高鳴っている心臓を出来る限り落ち着かそうとする。
しかしそれでも心臓は驚き戸惑っており、それを沈めるために大里は大きくゆっくりと呼吸を繰り返した。
パーテーションに隠れている林は何も見えない。この駅長室で聞こえる音だけが林の得る事の出来る情報の全てである。
そんな林は何かが引き摺られている音に耳を済ませる。
恐らく”何か”が死体を引き摺っているのだろうと頭の中で解釈しながら心を落ち着かせる事に集中する。
その音がちょうど林が隠れているパーテーションの前に来た時に、ガンッ! という音が駅長室に響いた。
一体何だ? そう思いながら少しだけパーテーションから顔を覗かせる。
しかし暗闇では何が起こったのかが分からない。
誰かが誤って何かにぶつかってしまったのか、それとも単にこの駅長室を歩いている”何か”が何処かにぶつかったのか。
林は様々な可能性を頭に張り巡らすが結局考えはまとまることなく、もう一度パーテーションの内側に身を潜めた。
幸い誰かの悲鳴や声が聞こえた訳ではない。恐らく皆無事だろうと結論付けて、気付かれないように息を潜めた。
各々は様々な体験をしながら駅長室に身を潜ませていると、そこに一筋の光が入ってきたのを感じた。
そしてそれはコツコツという足音を立てて近付いてきている。
あの光源の主は誰なのだろうか? 林はそんな事を気にしながら彼らがここに来ない事を祈る。
しかし無情にもその光は徐々に強くなってきている。恐らく近付いて来ているのだろう。
早くここから離れろと祈る林の思いは虚しく切り捨てられた。
その様子に視力が弱いと言われる”何か”も気付いたのか、手に持っていた何かを離し、駅長室の入り口に走って向かったのを感じた。
それに合わせて先程までこの部屋に立ち込めていた重苦しい空気も徐々に緩和される。
それを感じた大里達はまるで雨上がりの動物のように顔を覗かせる。
林は屈んで大里のいる机まで歩を進めて一番近くにいた大里の様子を確認する。
「おい。大丈夫か?」
林はそう言って机の下に潜っている大里に優しく声を掛ける。
「は、はい……」
辛うじて林に返事をする大里だったが、憔悴しているのは明らかだった。
「何かあったのか?」
受付と机の間に身を潜ませていた高本が小声で林に話しかける。
「ああ。なんだか凄く疲れているようだ。何かあったんじゃないかって思っているんだが」
「いえ、大した事ではないです。あの何かが傍を通ってから鼓動が収まらなくて」
「そういう事か。それならとりあえず無事のようだし今は安静にして貰うしかないな」
「すみません」
「気にしなくていい。それならば先にあれの調査をしないか?」
「あれ?」
林は首を傾げて高本に尋ねる。
「ああ」
そう返事をして高本は携帯電話のライトを付ける。
「おい。ライトを付けるのはまだ早くないか?」
「いや、大丈夫だろう。外に誰かいたからな。その人が生贄になってくれたんだろう」
その言葉に林は軽蔑の目を向けながら、感情を殺して高本に尋ねる。
「で? そのライトを使って何が見たいんだ?」
「ああ。これだよ」
そう言って”山”の手前に放置された一つの塊を照らす。
「これは……」
林はそう言葉を漏らしながら高本が照らしたものに近付く。そこで初めてそれが何なのかを認識した。
一方、高本は予想がついていたと言わんばかりに無言でそれに近付く。
そこに無造作に置かれていたのは間違いなく塩田だった。数十分前に出会った人の顔であれば見間違えの可能性があるが、特に汚れたつなぎが彼である事を強く裏付けていた。
高本が見る限り特に変わった所はない。しかし、手を触ると少しだけ冷たさがある。その事が死んでいるのだろうと感じさせた。
「どうかしたんですか?」
そう言って先程まで隠れていたのであろう江森が近付いてくる。それを見た林は江森に声を掛ける。
「あ、江森先生。ちょうどいいところに。実は、先程あの奴が運んできたのは塩田さんだったみてえで」
「え!? あの塩田さんが……」
江森は驚いて死体を見る。一見しただけでは本当に死んでいるのかどうか疑わしい。それを確認するために江森は塩田に触れる。
見た目からは温かそうに見えるが、触れてみて初めてその冷たさを感じた。そしてその死を認識して顔を顰めた。
江森は冷たくなった塩田の前で手を合わせる。
ほんの数秒。たった数秒ではあるが、江森は塩田に祈りを済ませた後、塩田の着ている衣服を捲り、頭部や胸腹部、四肢の先まで入念に見始めた。
暫く時間がかかるだろうと判断した高本は未だに机の下に隠れている大里の前に行き、しゃがんで目線の高さを合わせる。
「おい。大丈夫か?」
高本がそう尋ねるといつもよりも鈍い反応をみせる。
「はい。一応……。出来ればもう少し待って頂きたい所ですが」
大里は小さな声で高本に返答する。
その様子は高本から見ても林の言う通り憔悴していると感じた。
「ああ、大丈夫だ。少なくとも江森の調査が終わるまでは移動しないからそれまではゆっくりしてくれ」
そう言って高本は江森に視線を向ける。
携帯電話のライトを当てながら死因を調べる江森を見て、高本はもうすぐ終わりそうだなと感じた。
それから暫くして、
「今って事故が起こってからどのくらい時間が経ちましたか?」
と江森は周囲に時間を尋ねる。
それに対し、林は自身の手の中にある携帯電話を見て、「大体一時間って所だ」と返事した。
「ですよね。じゃあ、こんなものだと思います。申し訳ないですが、死因については分かりませんね。一見した感じでは外傷の類は特にないようですし」
今まで捲っていた塩田の服を元に戻しながら江森はそう言う。
「そうか。わりいな。江森先生。辛い役をお願いしてしまって」
「大丈夫ですよ。職業柄そう言った役回りは来ると考えていたので」
そう言って江森は明るく振る舞う。
高本はその江森の調査を聞き終えた後、口を開く。
「じゃあそろそろ次の場所へ向かいたい。ここに長居するのはよくなさそうだからな」
高本は駅長室の入り口を見てそう言う。
「確かにな」
そう返して林はしゃがんで、机の下にいる大里と目を合わせながら尋ねる。
「そろそろここを出ようと思うんだが行けそうか?」
それに対して、少しだけ気分が回復した大里は頷く。
「はい。多分大丈夫そうです」
林にそう言葉を返した後、机の下から這い出る。
その様子を確認した高本は、
「よし。全員無事なことだし早くここを出よう」
と声を掛けた。




