第五章12 『アーカイブ・コア』
黒い扉は、重たい息を吐くような低い駆動音を響かせながら、ゆっくりと左右へ開いていった。
その動きは決して素早くはない。
けれど、だからこそ妙な現実味があった。
映画やドラマのように勢いよく開く訳でも、錆び付いて途中で止まる訳でもない。ただ設計された通りに、何年もの歳月を経てもなお忠実に命令へ従っている。その様子を見ていると、機械というものは人間より余程律儀な存在なのではないかと思えてくる。
人間ならば迷う。
本当に開けて良いのか。
今でなければならないのか。
そもそも開ける必要があるのか。
そうやって余計なことばかり考え、結局何もしないまま時間だけが過ぎていくことも珍しくない。しかし機械は違う。条件が揃えば動き、揃わなければ動かない。それだけだ。
だからこそ。
今、この扉が開いたという事実には、あまりにも明確な意味があった。
『WELCOME BACK, CLAIRE KUROTSU』
表示器には、まだその文字が残っている。
お帰りなさい。
黒津クレア。
その一文は歓迎の言葉であるはずなのに、どうしてこんなにも寒々しく感じるのだろう。
施設はクレアを知っている。
いや、それだけではない。
この施設は、クレアがいつか戻って来ることまで想定していた。
閉鎖され、忘れ去られ、都市伝説だけが独り歩きするようになった施設が、何年もの時を経てもなお一人の少女を待ち続けていた。
そんなものを歓迎と言って良いのか、僕には分からなかった。
「……何だか、本当に帰って来たみたいですね」
僕がそう呟くと、最上さんは表示器から視線を逸らさないまま静かに答えた。
「帰る場所というものは、本来安心出来る場所であるべきなんですけれどね」
「少なくとも、ここは違いますよね」
「ええ。歓迎されているというより、認証されたと言った方が近いでしょう」
認証。
その言葉の方がしっくり来た。
人間ではなく情報として扱われている。
黒津クレアという一人の少女ではなく、『SUBJECT 07』という登録データが一致したから扉が開いただけ。
そこには感情など存在しない。
だから余計に恐ろしかった。
クレアは表示器を見つめたまま、小さく息を吸った。
「……私、本当にここにいたんだね」
その声には、もう疑問は含まれていなかった。
ここまで来る途中、何度も「分からない」と口にしていた彼女だったけれど、この一言だけは確信に変わっていた。
来たことがあるかもしれない。
ではない。
ここにいた。
その事実だけが、記憶よりも先に心へ刻まれてしまったのだろう。
「クレア」
僕は彼女の肩へそっと手を置く。
「無理なら戻ろう」
少しでも迷う様子を見せるなら、本当に引き返そうと思っていた。
父親の手掛かりがある。
それは間違いない。
しかし、その代償としてクレア自身が壊れてしまうのなら、本末転倒どころの話ではない。
黒津空我を探す旅は、あくまでもクレアのために始まったものだ。
その旅がクレアを傷付けるのであれば、目的そのものが意味を失ってしまう。
けれど。
クレアはゆっくりと首を横へ振った。
「……大丈夫なの」
「その台詞、最近信用出来ないんだけど」
「今回は本当なの」
「本当に?」
「怖い。でも、帰りたくないの」
そう言って、クレアは小さく笑おうとした。
笑えてはいなかった。
口元が少しだけ動いただけだった。
それでも僕には、その表情が無理に作ったものだと分かった。
「行こう」
その一言だけを残して、クレアは黒い扉の向こうへ足を踏み入れた。
最上さんが懐中電灯を向ける。
しかし、数歩進んだところでその必要はなくなった。
天井へ埋め込まれていた照明が、一つ、また一つと順番に点灯し始めたからだ。
白色灯。
柔らかい光ではない。
研究施設や工場で使われるような、対象を正確に照らすためだけに存在する冷たい光だった。
照明に照らされた通路を見て、僕は思わず息を呑む。
今まで歩いてきた地下区画とは、まるで造りが違う。
廊下ではない。
広い。
そして天井も高い。
左右へ並ぶ部屋もなく、代わりに巨大なガラス張りの区画が幾つも設けられている。
まるで展示室だった。
いや。
展示室という表現も正確ではない。
水族館や博物館の展示とは違う。
もっと無機質で、もっと機能だけを追求した空間。
研究者が中を観察するためだけに設計された巨大な実験区画だった。
「……療養所じゃないですね」
自然と口から漏れた。
最上さんも頷く。
「少なくとも、患者を治療するための施設ではありません」
「研究施設?」
「その言葉すら正しいかどうか分かりません」
最上さんはガラス越しの部屋を見つめる。
「研究というより、保存施設と言った方が近い気がします」
保存。
またその言葉だ。
今日だけで何度耳にしただろう。
時間隔離。
保存区画。
箱庭計画。
全部が同じ方向を向いている。
けれど、その肝心な『何を保存するのか』だけが、まだ分からない。
その時だった。
クレアが立ち止まる。
「……ここ」
視線の先には、大きなガラスで仕切られた円形の部屋があった。
部屋の中央には、何もない。
正確には、何も残っていない。
台座だけが残されている。
直径三メートルほどだろうか。
床には複雑な魔法陣が刻まれ、その中心だけがぽっかりと空いていた。
何かを置いていた。
そんな跡だけが残されている。
「何か思い出したのか?」
僕が尋ねると、クレアは台座を見つめたまま、静かに首を振った。
「違うの」
「違う?」
「思い出したんじゃない」
そこで一度言葉を切り、ゆっくりと続ける。
「……なくなってるの」
「なくなってる?」
「ここに、何かあったの」
その一言で、僕と最上さんは顔を見合わせた。
思い出したのではない。
『失われていること』を知っている。
その感覚が、何よりも不気味だった。
そしてその瞬間、通路の奥から再び低い振動音が響き始めた。
今度は、さっきまでとは違う。
一定のリズム。
まるで巨大な心臓が、ゆっくりと鼓動を打っているかのようだった。
その音に呼応するように、部屋の奥にあるもう一枚の扉の上へ、小さな表示灯が青く点灯する。
そこには、たった一行だけ文字が浮かび上がっていた。
『ARCHIVE CORE』
最上さんが、その文字を見つめながら静かに呟く。
「……どうやら、本当に核心へ近付いてしまったようですね」




