第五章9 『見覚えのない記憶⑦』
「私が」
クレアはそう言った。
その言葉を聞いた直後、僕は何かを返そうとして、結局何も言うことが出来なかった。
こういう場合、何と言えば良いのだろう。
そうなんだ。
大変だったな。
気のせいじゃないか。
どれを選んでも間違っている気がする。
そもそも、本人ですら今思い出したばかりの記憶に対して、第三者でしかない僕が軽々しく言葉を重ねて良いのかどうかも分からない訳で、人間というのは話すことをコミュニケーションの基本としている割には、いざ本当に何かを伝えなくてはならない場面になると途端に使える言葉が少なくなってしまう。
嬉しい。
悲しい。
怖い。
辛い。
言葉にすれば数文字で終わる感情であっても、本人の中ではもっと複雑なものが渦巻いている。
だから文学というものが生まれたのだろうか。
一言で済む感情を、何千文字、何万文字と使って説明する。
人間という生き物は効率を求めて文明を進歩させたはずなのに、感情を表現する時だけは効率を捨てる。
それぐらいしないと伝わらない。
あるいは。
それぐらいしても伝わらない。
「クレア」
結局、僕が口に出来たのは名前だけだった。
「大丈夫なの」
クレアは言った。
「いや、それは僕が聞こうと思ってたんだが」
「先に言った方が勝ちなの」
「そんなルールはない」
いつものクレアだった。
少なくとも口調だけは。
しかし、その手は未だ観察窓へ触れたままで、指先が僅かに震えていることに気付いてしまうと、それを額面通り受け取る気にはなれなかった。
「開けますか?」
最上さんが尋ねる。
07。
白い扉。
僕達の目の前にあるそれは、他の部屋と何も変わらないように見える。
ただ。
クレアにとってだけは違う。
「開くんですか?」
「確認してみないと分かりませんね」
最上さんは取っ手へ手を伸ばす。
しかし。
「待って」
クレアが止めた。
最上さんの手が止まる。
「どうしました?」
「鍵」
「鍵?」
「かかってるの」
クレアは言った。
最上さんが試しに取っ手を下げる。
動かない。
本当に施錠されていた。
僕はクレアを見る。
「……何で分かった?」
「分からないの」
予想通りの答えだった。
もう驚かなくなってきた。
驚かないことに慣れてしまった、と言うべきだろうか。
人間は異常な環境にも慣れる。
地震が続けば多少の揺れでは驚かなくなるし、電車が遅れる日々が続けば遅延情報を確認することすら習慣になる。
異常が日常へ変わる。
しかし。
異常が普通になったからといって、それが正常になった訳ではない。
クレアが来たことのない施設の構造を知っていることも。
閉じ込められていた記憶を持っていることも。
この扉に鍵が掛かっていると、触れもしないうちから理解していたことも。
全部おかしい。
おかしいのだけれど。
一つずつ積み重なっていくうちに、むしろその方が当然のように思えてくる。
それが一番怖かった。
「壊しますか?」
僕が言う。
「随分と物騒になりましたね、和史君」
「今更じゃないですか?」
「それはそうなんですが」
最上さんは鞄を探る。
工具が入っていると言っていた。
まさか本当に扉をこじ開けるために使うことになるとは思っていなかっただろう。
とはいえ。
僕達がやっていることは完全に不法侵入である。
今さら器物損壊の一つや二つ増えたところで――いや、増やしてはいけない。
犯罪はポイントカードではないのだ。
一つやったから二つ目がお得になる訳でもない。
「鍵自体は古そうですね」
最上さんは扉の構造を確認している。
「電子錠ではありませんし、こちらの工具で――」
「三、七、〇、五」
クレアが言った。
「え?」
「三七〇五」
何の数字だ。
僕と最上さんが同時にクレアを見る。
クレア自身も驚いた顔をしていた。
「……何?」
「それはこっちの台詞だ」
「私、今何か言った?」
「三七〇五って」
「知らないの」
知らない。
でも口にした。
また一つ増えた。
分からないことが。
「暗証番号?」
「でも電子錠じゃないですよ」
最上さんの言う通り。
扉には普通の鍵穴しかない。
番号を入力する場所など見当たらない。
「部屋番号とか?」
「07でしょう」
「ですよね」
三七〇五。
数字というものは不思議だ。
意味を与えなければ、ただの記号でしかない。
誕生日。
電話番号。
住所。
暗証番号。
人間は数字へ意味を付ける。
例えば一九四五という数字だけ見ても何とも思わない人間はいるだろうけれど、日本人ならそこに年号という意味を加えた瞬間、別の意味を持つ。
三一一。
九一一。
数字は数字でしかないのに、意味を知った途端に重くなる。
では。
三七〇五には、何の意味がある?
「三七〇五……」
僕はもう一度口にした。
その瞬間、どこかで。
カチリ、と。
小さな音がした。
三人とも動きを止める。
「今……」
「聞こえました」
扉、だった。
最上さんがゆっくり取っ手へ手を掛ける。
さっきまで動かなかったそれが。
今度は、下がった。
「……開いた?」
「どういう仕組みなんですか、これ」
僕に聞かれても困る。
しかし。
扉が開いたということは。
三七〇五。
その数字が鍵だった。
電子錠ではない。
入力装置もない。
それでも言葉にしただけで開いた。
「音声認証?」
僕が言う。
「二十年近く前の設備で?」
「技術的には不可能ではないと思いますけど」
「それ以前に」
最上さんはクレアを見る。
「クレアさんの声に反応した可能性があります」
声紋認証。
それなら説明がつく。
いや——説明がつくだけで、何一つ安心出来ない。
むしろ問題は増えた。
この扉が、クレアの声によって開くように作られていた。
つまり、クレアはこの施設の関係者だった。
少なくとも、施設を造った誰かは、彼女がここへ来ることを想定していた。
扉が開く。
古い空気が流れ出してくると思った。
埃。
黴。
湿気。
そんなものを想像していた。
しかし、違った。
「……寒い」
クレアが呟く。
確かに、寒い。
地下だからというだけではない。
廊下より明らかに温度が低い。
冷房が効いているような感じだ。
しかし、電気は止まっているはずだ。
「温度管理されていますね」
最上さんが言う。
「まだ?」
「そう見えます」
「どうやって?」
「それを今から調べるんでしょうね」
嫌な答えだった。
最上さんの懐中電灯が部屋の中を照らす。
広さは、六畳か八畳ぐらいだろうか。
病室として考えれば狭くない。
しかし、そこには病室らしいものがほとんどなかった。
中央に、ベッドが一台。
金属製で、マットレスは残っており、白いシーツも掛けられている。
長い間放置されていたとは思えないほど綺麗だった。
そして。
壁。
時計。
時計。
時計。
時計。
四方の壁に。
異様なほど大量の時計が取り付けられていた。
「何だ、これ」
僕は思わず声を漏らした。
アナログ時計。
デジタル時計。
振り子時計。
見たこともない古い時計。
全部で何個あるのか。
十個。
二十個。
いや。
もっと。
しかし、奇妙なのは数ではなかった。
全てが、違う時刻を示している。
午前二時。
午後五時。
十二時。
九時三十分。
バラバラ。
「壊れてるんですか?」
「普通ならそう考えます」
最上さんが時計の一つへ近付く。
「でも」
秒針。
動いている。
一秒。
一秒。
正確に。
「動いてますよね」
「ええ」
「電池?」
「全部?」
確かに。
何十個もの時計が、閉鎖されて何年も経っている施設で動き続けている。
そんな偶然は考えにくい。
機械式時計なら動力が必要。
電池式なら交換が必要。
それなのに、動いている。
しかも、違う時間を刻んでいる。
「時間」
クレアが言った。
その声が、少し震えていた。
「何か思い出した?」
「……砂時計」
クレアは部屋の奥を見た。
そこに、一つだけ机があった。
そして、その上。
小さな砂時計。
青い砂。
僕は見たことがある。
「それ」
クレアが普段使っているものと。
よく似ていた。
いや。
似ているなんてものではない。
同じだ。
「クレア」
「違うの」
「何が?」
「私のじゃないの」
クレアは自分のポケットから砂時計を取り出す。
二つ。
同じ形。
同じ大きさ。
同じ青い砂。
「……どういうことだ?」
僕は二つを見比べる。
「試作品だったのでしょうか」
最上さんが言う。
「時間魔法を発動するための魔法道具。その原型かもしれません」
「じゃあ」
クレアへ——誰が、この砂時計を渡した?
答えは、聞かなくても分かっている。
黒津空我。
「お父さんが」
クレアは言った。
「ここで作ったのかもしれない」
その時だった。
部屋の奥——ガラス窓の向こうに、もう一つの部屋があることに気付いた。
「最上さん」
「ええ」
観察室。
その言葉が、今更になって意味を持った。
こちら側に、ベッド。
時計。
砂時計。
向こう側に、机。
椅子。
古いモニター。
そして。
こちらを観察するための大きな窓。
つまり。
ここは。
病室ではない。
実験室だった。
「私」
クレアがベッドへ近付いた。
「クレア?」
ゆっくり、手を伸ばす。
シーツに触れる。
その瞬間。
クレアの身体が硬直した。
「っ……!」
「クレア!」
僕が手を伸ばそうとした。
しかし。
「待って」
クレアが言う。
「見える」
「何が?」
「私」
僕には、何も見えない。
ただ。
クレアだけが、何かを見ている。
白い部屋。
時計。
青い砂時計。
ベッド。
「小さい」
クレアが呟く。
「小さい私がいるの」
記憶。
とうとう。
輪郭を持ち始めた。
「何をしてる?」
僕は聞く。
クレアは答えない。
数秒。
十秒。
やがて。
「寝てる」
「それだけ?」
「違う」
クレアの表情が、変わった。
「時計が」
「時計?」
「全部止まってる」
僕は部屋を見る。
今は、全て動いている。
「それから?」
「お父さんがいるの」
「空我博士が?」
「ガラスの向こう」
観察室。
そこに。
黒津空我がいた。
クレアの記憶の中で。
「何て言ってる?」
クレアは、唇を震わせた。
言いたくないようにも見えた。
それでも。
その言葉は、出てきた。
「——観察対象七番、時間隔離実験を開始する」
その瞬間、僕達は、ようやく理解した。
07——それは、部屋番号ではなかった。
クレアの番号だった。




