第五章8 『見覚えのない記憶⑦』
「……お父さんに」
クレアはそう答えた。
誰も言葉を発しなかった。
発することが出来なかった、と言った方が正しいのかもしれない。
旧天白療養所。
クレアが訪れたはずのない場所。
彼女が魔法都市を離れて日本へやって来るよりも前に閉鎖され、火災や失踪事件や、その他どこまで本当なのかさっぱり分からない噂話ばかりを残して、今では心霊スポットとして語られるだけになっていた施設。
その地下へ下りてはいけないと。
クレアは父親から言われたことがあるという。
普通なら、その時点で矛盾している。
実際に訪れたことがなければ、行ってはいけないと注意される理由もない。もちろん、黒津空我が世間話の一環として、愛知県名古屋市の片隅にある閉鎖済み療養所について娘に話していた可能性が全くないとは言い切れないけれど、そんなものを父と娘の会話に持ち出す理由を想像するのは難しい。
例えば。
危険な場所だから近付いてはいけない。
そう伝えるだけなら、世界中にある危険な場所を一つ一つ教えていたことになる。
それこそキリがない。
山へ行くな。
海へ行くな。
廃墟へ行くな。
線路へ入るな。
道路へ飛び出すな。
知らない人について行くな。
子供へ教えるべきことは数多くあるけれど、その中に旧天白療養所の地下区画を指定して加える父親は、かなり特殊な部類に入ると思う。
だから。
クレアの記憶が正しいなら。
彼女はここへ来たことがある。
そして。
黒津空我もまた、ここにいた。
「本当に、お父さんだったのか?」
僕は聞いた。
我ながら嫌な聞き方だったと思う。
クレアは父親の声も顔も知っている。
それを第三者である僕が疑うのは、あまり気分の良い話ではない。
しかし。
その記憶自体が信用出来ない状況なのだから、確認しない訳にもいかなかった。
「分からないの」
クレアは俯いたまま答えた。
「でも、お父さんの声だったと思うの」
「声だけ?」
「姿も……いた気がする。でも、そこまで思い出そうとすると、頭が痛くなるの」
思い出そうとすると痛む。
それは単なる頭痛ではないのだろう。
少なくとも、偶然同じタイミングで発生した体調不良とは考えにくい。
「記憶に封印でもされているんでしょうか」
僕は最上さんを見る。
最上さんは、すぐには答えなかった。
階段へ続く足跡と、壁に取り付けられた『特別観察区画』という案内板とを見比べてから、やがて慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「可能性はあります。記憶へ干渉する魔法そのものは存在しますから」
「存在するんですか」
「当然でしょう。感覚や認識へ作用する魔法がある以上、その先にある記憶へ影響を与える術式が存在しても不思議ではありません」
「そう簡単に言われても」
「簡単ではありませんよ」
最上さんは首を横に振った。
「記憶はその人自身を形作るものです。下手に一部を消したり書き換えたりすれば、人格そのものに影響が出る。普通の魔法使いなら、まず手を出そうとは思いません」
普通の魔法使いなら。
その言い方が気になった。
つまり。
普通ではない魔法使いなら、手を出す可能性がある。
そして黒津空我という男は、少なくとも世間一般で言う普通の研究者ではない。
魔法学の権威。
ノアの方舟を現代へ蘇らせる研究。
アレイスターの遺産を探す組織からも追われる人物。
そんな男が、娘の記憶へ干渉していたとしても、全く有り得ない話ではないのかもしれない。
ただ。
クレアにとっては父親だ。
それを忘れてはいけない。
僕達が黒津空我について知っているのは、基本的に断片的な情報だけである。
天才。
研究者。
失踪。
危険な計画。
そういう言葉を並べると、まるで物語の黒幕みたいに見えてしまうけれど、クレアからすれば、一緒に暮らし、魔法を教えてくれた父親なのだろう。
父親にはいくつもの顔がある。
家庭で見せる顔。
職場で見せる顔。
友人へ見せる顔。
子供が知っている親の姿なんて、その人間が持つ一面に過ぎない。
それは別に父親に限った話でもない。
学校にいる時の僕と、家にいる時の僕と、クレア達と行動している時の僕は、恐らく少しずつ違う。
人間は相手によって態度を変える。
それを裏表があると呼ぶのか、社会性があると呼ぶのかは、見る人間の価値観によるのだろう。
ならば。
クレアの知る黒津空我と。
この療養所に関わっていた黒津空我が。
同じ人物でありながら、全く違う顔を持っていたとしても不思議ではない。
「行くの?」
クレアが聞いた。
階段の下を見ながら。
「それを今から決めるところだろ」
「行かないという選択肢もあるの?」
「あるにはある」
「帰る?」
「帰りたい気持ちはある」
正直な感想だった。
廃墟。
地下。
特別観察区画。
誰かの足跡。
思い出せない記憶。
これだけ条件が揃っていれば、普通の人間なら帰る。
帰って警察へ相談する。
あるいは管理者へ連絡する。
その方が正しい。
しかしながら。
魔法使いの存在が絡んでいる可能性がある以上、警察へ通報したところで、どこまで真剣に対応してもらえるかは分からない。そもそも不法侵入しかけている僕達の方が先に怒られる可能性だってある訳で、事情を説明するにしても、匿名のメールに黒津空我という失踪中の魔法研究者の名前が書かれていて、その娘が訪れた記憶のない廃療養所を知っており、今は魔力の流れが完全に消えている地下施設へ続く足跡を見つけました、などと言ったところで、信じてもらえるとは到底思えなかった。
いや。
魔法が公的に認められている世界なのだから、もう少し柔軟に対応してくれるのかもしれない。
それでも。
今ここで帰ったら。
クレアはきっと一人で戻る。
それはほぼ確実だった。
「行くしかないか」
僕がそう呟くと、最上さんは僅かに溜息を吐いた。
「止めても無駄でしょうね」
「そうですね」
「別に私だけのせいじゃないの」
「クレアが一番前向きに進もうとしてるんだよ」
「だって、お父さんに繋がってるかもしれないの」
「分かってる」
だからこそ。
僕も止められない。
「ただし」
最上さんが言った。
「少しでも危険を感じたら、すぐに引き返します。異論は認めません」
「分かったの」
「本当に分かってます?」
「分かってるの」
「今の間が不安なんですよねえ」
最上さんはそう言ってから、自分の持っていた鞄を開いた。
中から取り出したのは懐中電灯だった。
「用意が良いですね」
「廃墟へ行くと分かっていたのですから、これぐらいは持ってきますよ」
「他には?」
「救急用品と飲料水、携帯食料、予備の電池、それから簡単な工具ですね」
「登山でもするつもりだったんですか?」
「準備は多いに越したことはありません」
確かにその通りではある。
しかし、最上さんの鞄から次々と道具が出てくる様子を見ていると、魔法使いよりもこの人の方が余程頼りになる気がしてくる。
魔法は便利だ。
ただし。
魔力が存在しない場所では、何処まで使えるのか分からない。
その点、懐中電灯は電池がある限り光る。
科学技術というものは偉大である。
魔法使いのように血統も才能も必要ない。
説明書を読めば誰でも使える。
もちろん、発明した人間と製造した人間と整備した人間の努力があってこそなのだけれど、利用者はその過程を意識する必要がない。
スイッチを押せば光る。
ボタンを押せば動く。
そう考えると、科学とは人類全体で共有している魔法みたいなものなのかもしれない。
ただ。
今の状況では、もう少し強い光が欲しかった。
階段の先は暗い。
懐中電灯の光が、下へ向かう数段を照らしている。
その先は闇だった。
「先頭は私が行きます」
最上さんが言った。
「僕じゃなくて良いんですか?」
「和史君が先頭で何が出来るんです?」
「何も出来ないですね」
「でしょう?」
即答されると少し傷付く。
事実ではあるけれど。
「クレアさんは真ん中。和史君は最後をお願いします」
「最後も怖いんですけど」
「前も怖いでしょう」
「どこにいても怖いということですか」
「そういうことです」
身も蓋もない。
最上さんが階段へ足を下ろした。
靴底がコンクリートへ触れる。
こつん。
小さな音だった。
しかし、地下へ続く空間の中では妙に大きく響いた。
音というものは、空間によって印象が変わる。
同じ足音でも、屋外ならほとんど気にならない。
しかし、誰もいない廊下や地下道では、まるで誰かが後ろから付いて来ているように感じることがある。
反響。
自分の出した音が壁や天井に当たって戻ってくるだけ。
理屈では分かっている。
分かっているのだけれど。
自分の足音より一拍遅れて響く音というのは、それだけで別の誰かが存在しているように思えてしまう。
怪談が洞窟やトンネルや地下室を好む理由も、その辺りにあるのかもしれない。
音がする。
しかし発生源が分からない。
それだけで人間は勝手に何かを想像する。
幽霊。
怪物。
殺人鬼。
少なくとも、無害な小動物を想像する人間は少ないだろう。
想像力というものは、どうして悪い方向へ働く時ばかり元気なのだろうか。
クレアが階段へ下りる。
その後に僕も続く。
一段。
また一段。
階段は思ったよりも長かった。
普通の建物であれば、地下まで十数段から二十段程度もあれば十分だろう。
しかし。
ここは違う。
下りても。
まだ続いている。
「深くないですか?」
僕が聞く。
「そうですね」
最上さんの声が下から返ってくる。
「普通の地下室よりは、かなり深いと思います」
「どうしてそんな場所に?」
「防音、防振、防火。理由はいくらでも考えられます」
「どれも嫌な理由ですね」
「地下施設に明るい理由を求める方が難しいでしょう」
そうかもしれない。
地下というものは、基本的に隠すために使われる。
倉庫。
機械室。
避難施設。
あるいは秘密の研究所。
地上へ建てれば目立つものを、地下へ埋める。
人間は見えないところにあるものを気にしない。
道路の下に上下水道が通っていることも、電線や通信ケーブルが埋まっていることも、普段は意識しない。けれど、それらがなければ都市生活は成立しない。
見えないものが世界を支えている。
それは少し魔法に似ている。
「和史」
クレアが足を止めた。
危うくぶつかりそうになり、僕も慌てて立ち止まる。
「どうした?」
「聞こえるの」
「何が?」
クレアは耳を澄ませるように、顔を少し上げた。
「分からない」
「またそれか」
「でも、聞こえるの」
僕も耳を澄ませた。
最上さんの懐中電灯を持つ衣擦れ。
僕達の呼吸。
どこかから落ちる水滴。
そして。
低い音。
いや。
音と言えるのか分からない。
地面の下から響いているような、微かな振動。
「機械?」
僕が呟く。
「その可能性はありますね」
最上さんも立ち止まっていた。
「でも、この建物は閉鎖されてるんですよね?」
「そのはずです」
「電気も止まってる」
「恐らく」
「だったら、何が動いてるんです?」
返事はなかった。
答えられないからだろう。
「昔も聞いたの」
クレアが言った。
「この音を?」
「多分」
「何の音だった?」
「分からない。でも」
クレアは胸元へ手を当てた。
「嫌な音だったの」
嫌な音。
それは随分と曖昧な表現ではある。
しかし。
今の低い振動を聞いていると、その意味は何となく分かった。
大きくはない。
耳を塞ぎたくなるほど不快でもない。
ただ。
身体の内側を揺らされているような。
心臓の鼓動と僅かにずれているような。
そんな落ち着かなさがある。
「先へ進みます」
最上さんが言った。
「ただし、音が強くなったら戻ります」
僕達は頷いた。
階段を下りる。
さらに十段ほど進んだところで。
ようやく底へ着いた。
◇◇◇
地下区画は。
僕が想像していたものとは、全く違っていた。
湿ったコンクリートの壁。
錆びた配管。
物置。
そういうものを想像していた。
しかし実際に広がっていたのは、白い廊下だった。
壁も。
床も。
天井も。
全てが白い。
病院のようにも見える。
だが。
病院ではない。
何故そう思ったのか、自分でもすぐには説明出来なかった。
白い壁。
等間隔に並ぶ扉。
天井に取り付けられた照明。
それだけなら、病棟と大きく変わらない。
しかし扉には小さな窓が付いている。
内側を確認するためのものらしい。
窓には分厚いガラスが嵌め込まれており、その横には番号が記されている。
01。
02。
03。
部屋番号にしては簡素過ぎる。
患者の名前を記す札もない。
ナースステーションもない。
手すりもない。
代わりに。
廊下の天井付近には、黒い半球状の装置が幾つも設置されていた。
「監視カメラ?」
「でしょうね」
最上さんが答える。
「療養所で、こんなに必要ですか?」
「普通は必要ありません」
普通は。
またその言葉だ。
普通の療養所ではない。
それだけは、もう疑う余地がなかった。
「研究所みたいですね」
僕が言うと。
最上さんは何も答えなかった。
否定出来なかったのだろう。
廊下の端には案内図が掛けられていた。
最上さんが懐中電灯を向ける。
上階。
一階から三階までの病室や食堂、診察室、事務室。
普通の療養施設らしい部屋が並んでいる。
しかし。
地下はない。
「載ってませんね」
「ええ」
「ということは」
「この区画は、最初から公表されていなかったのでしょう」
隠し施設。
そういう言葉が頭に浮かぶ。
あまりにも陳腐で。
あまりにも現実離れした言葉。
しかし。
目の前に存在している以上、否定しようがない。
「クレア?」
返事がない。
振り返る。
クレアは一枚の扉の前に立っていた。
07。
そう書かれた扉。
他の扉と何も変わらない。
小さな観察窓。
金属製の取っ手。
白い表面。
それだけ。
なのに。
クレアはその扉を見たまま動かなかった。
「どうした?」
僕が近付く。
クレアは観察窓へ手を触れた。
そして。
小さく息を吐く。
「ここ」
「何がある?」
「分からない」
「入ったことがあるのか?」
クレアは首を横に振った。
否定。
そのはずだった。
だが。
次に出てきた言葉は。
その動作と全く反対のものだった。
「閉じ込められてたの」
僕は。
一瞬。
言葉の意味を理解出来なかった。
「誰が?」
聞く。
聞きながら。
本当は答えが分かっていた。
クレアは。
観察窓の向こう。
暗い部屋の中を見つめながら。
静かに答えた。
「私が」
低い振動音が。
先程よりも僅かに大きくなった。
まるで。
その答えを。
地下に眠る何かが。
聞いていたかのように。




