第五章7 『見覚えのない記憶⑥』
「この道、知ってる」
クレアは、廊下の奥を見つめながら、そう言った。
声は小さかった。
しかしながら、聞き間違えた可能性を考える必要がない程度には、はっきりとしていた。
「……知ってる?」
僕が聞き返すと、クレアはすぐには返事をせず、積もっている埃の上へ残された足跡と、その先に広がっている薄暗い廊下とを交互に眺めてから、やがて自分自身の発言に驚いたような表情で首を横に振った。
「分からないの」
「今、知ってるって言ったばかりだろ」
「言ったの。でも、分からないの」
「それは随分と難しい話だな」
知っている。
しかし、分からない。
覚えている。
しかし、思い出せない。
ここへ来てから、クレアはそういう矛盾した言葉ばかりを口にしている。
普通なら、それは単なる言葉の間違いか、あるいは話している本人が混乱しているだけだと判断すれば済む話なのだろうけれど、今回はそう簡単には片付けられない。何故なら、クレアは実際に初めて訪れたはずの療養所の裏手にある入口を知っていて、誰から教えられるでもなくそこへ僕達を導き、そして今度は建物の内部にある廊下までも知っていると言い出したのだから。
偶然。
そう呼ぶことは出来る。
世の中で起きている出来事の大半は、偶然という言葉で片付けることが出来る。今日この場所へ来たことも、匿名のメールが僕のところへ届いたことも、南京錠が既に切られていたことも、クレアが療養所に見覚えを感じていることも、それぞれを単独で見れば、まあそういうこともあるかもしれない、と思えなくもない。
だが。
偶然が三つも四つも重なれば、それはもう偶然と呼ぶには少し都合が良過ぎる。
宝くじに一度当たることはあるかもしれない。
二度当たることも、確率上は有り得る。
しかし毎週のように当たり続ける人間がいたなら、誰だってその抽選方法を疑うだろう。
世界というものは、案外確率で出来ている。
しかし、人間はその確率が偏っていると感じた時、そこに意図を見つけようとする。
神の意志。
運命。
陰謀。
あるいは魔法。
僕達の場合、最後の可能性を冗談として切り捨てることが出来ないのが、何とも面倒なところだった。
「クレアさん」
最上さんが、少し離れたところから声を掛ける。
「無理に思い出そうとはしない方が良いですよ」
「でも」
「記憶というのは、取り出せば良いというものでもありません。少なくとも、それが本当にあなた自身の記憶なのか分からないうちは」
「私の記憶じゃないかもしれない、ってこと?」
「可能性の話です」
最上さんはそう答えたが、その口調はいつものように柔らかくはなかった。
何かを警戒している。
少なくとも僕にはそう見えた。
記憶というものを、僕達は随分と簡単に扱っている。
覚えている。
忘れた。
思い出した。
たったそれだけの言葉で済ませているけれど、実際にはもっと複雑なものなのかもしれない。
パソコンやスマートフォンに保存されているデータなら、ファイルを開けば中身を見ることが出来るし、検索機能を使えば目的の情報へ辿り着くことも出来る。しかし、人間の脳には検索窓が存在しないし、記憶した日時や場所を入力したところで、該当する映像が一覧表示される訳でもない。
覚えているはずなのに、思い出せないことがある。
逆に、すっかり忘れたつもりだったことを、匂いや音や風景を切っ掛けに突然思い出すこともある。
記憶は保存されているのではなく、どこか深い場所に沈んでいる。
そして何かの拍子に浮かび上がってくる。
そういうものなのだろうか。
だとすれば。
今のクレアは、思い出したのではない。
沈んだ記憶の輪郭だけを、水面越しに見ているのかもしれない。
形は分かる。
そこにあることも分かる。
しかし、手を伸ばしても届かない。
「……頭は?」
僕は聞いた。
「もう痛くないのか?」
「少しだけ」
「少しだけ痛いのか、少しだけ治ったのか、どっちだ」
「少しだけ痛いの」
「それは治ってないだろ」
「でも、さっきよりは平気なの」
クレアはそう言って、僕を安心させるつもりなのか、小さく笑ってみせた。
しかし、顔色は未だ良くない。
大丈夫という言葉ほど信用出来ないものもない。
人は本当に大丈夫な時には、わざわざ大丈夫だとは言わない。
大丈夫ではない時ほど、その言葉を口にする。
つまり、大丈夫という言葉は状態の説明ではなく、願望に近いのかもしれない。
大丈夫であって欲しい。
大丈夫だと思いたい。
だから、大丈夫と言う。
言葉によって現実が変わる訳ではないけれど、それでも人間は言葉を使う。
魔法使いでなくても、人は言葉に力があると信じているのだろう。
「今日は引き返しますか?」
最上さんが言った。
その提案は正しい。
どう考えても正しい。
クレアは頭痛を起こした。
建物の中には、僕達とは別の誰かが残した足跡がある。
魔力の流れは感じられない。
そして、療養所そのものも、外観と内部の状態が明らかに噛み合っていない。
危険を示す材料なら十分過ぎるほど揃っている。
これで先へ進む人間がいるなら、その人は勇敢なのではなく、単に危機管理能力が欠けているだけだろう。
少なくとも映画や小説の登場人物を見ている時の僕なら、間違いなくそう思う。
どうして進むんだ。
どうして帰らないんだ。
どうして警察に連絡しないんだ。
安全な場所から画面の中を眺めている人間は、いくらでも正しい判断を下すことが出来る。
だが。
現実にその場へ立たされると、正しさというものは急に曖昧になる。
帰れば安全かもしれない。
しかし、次に来た時もこの場所が同じ状態で残されている保証はない。
足跡を残した人物が、証拠を消してしまうかもしれない。
僕達をここへ呼び出した目的を果たせなかったと判断して、今度は別の手段へ出るかもしれない。
そして何より。
ここには黒津空我へ繋がる何かがある。
少なくともクレアはそう感じている。
「行くの」
クレアは言った。
迷いのない声だった。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫なの」
「だから、その言葉はあまり信用出来ないんだよ」
「でも、行かないといけないの」
「どうして?」
僕の問いに、クレアは少し黙った。
答えを探しているように見えた。
あるいは、本当は既に答えを知っているのに、それを言葉へ変換することが出来ないのかもしれなかった。
「呼ばれてる気がするの」
やがて。
クレアはそう答えた。
「誰に?」
「分からない」
「またそれか」
「でも」
クレアは廊下の奥を指差す。
「あっちなの」
僕には何も見えない。
ただ、足跡が続いている。
埃の上に残された足跡は、廊下の中央を真っ直ぐ進み、その先にある角を右へ曲がっていた。
大きさから見れば成人男性のものだろうか。
もっとも、靴の大きさだけで性別を決めるのは危険だし、そもそも魔法使いなら足の大きさを変えることぐらい出来るのかもしれない。
いや。
出来るのだろうか。
そういう便利な魔法があるなら、靴屋は随分困るだろう。
「最上さん」
「はい」
「この足跡、どれぐらい前のものか分かりますか?」
「難しいですね」
最上さんは足跡の近くへしゃがみ込み、埃の状態を眺める。
「少なくとも何か月も前ということはないでしょう。足跡の輪郭が崩れていませんし、その上へ新しい埃もあまり積もっていませんから」
「数日前?」
「あるいは数時間前かもしれません」
「つまり」
「今も中に誰かいる可能性はあります」
最上さんは淡々と言った。
出来ればもう少し安心出来る口調で言って欲しかった。
いや、口調を変えたところで内容が変わる訳ではないのだけれど。
「帰るなら今のうちですよ」
最上さんが、もう一度言う。
僕はクレアを見る。
クレアは足跡から目を逸らさない。
ここで彼女を無理に連れ帰ることは出来るかもしれない。
少なくとも僕と最上さんの二人がかりなら、抵抗されても何とかなるだろう。
ただ。
それをしたところで。
きっとクレアは一人で戻ってくる。
彼女はそういう人間だ。
父親の手掛かりが目の前にあると分かっていて、誰かに止められた程度で諦める人間ではない。
だったら。
僕達が一緒にいた方が良い。
これは正当化だろうか。
危険な選択を正しいものに見せるための、後付けの理屈なのかもしれない。
しかし、人間の決断なんて大抵そんなものだ。
先に気持ちが決まり、後から理由を作る。
買い物もそうだ。
高いものが欲しいと思った後で、長く使えるからとか、品質が良いからとか、様々な理由を付け加える。
僕達が今先へ進む理由も、それと同じなのかもしれない。
「行きましょう」
僕は言った。
最上さんは一度だけ目を閉じ、それから諦めたように頷いた。
「分かりました。ただし、何かあったらすぐ戻ります」
「それは約束するの」
「クレアが一番守らなそうな約束だな」
「守るの」
「本当に?」
「多分」
「既に後退してるじゃないか」
そんな会話を交わしながらも、僕達は足跡を追って歩き始めた。
廊下には、かつてここが療養所だったことを示すものがいくつも残されていた。
壁に掛けられた案内板。
剥がれかけた注意書き。
車椅子を置くためのものらしい窪み。
部屋番号の札。
ただし、不思議なことに、医療器具らしいものはほとんど残されていない。
閉鎖する際に全て運び出したのだろうか。
それにしては、棚や机といった大型の備品は残されている。
廃墟というのは、何が残り、何が失われるかによって、その場所がどのように終わったのかを想像出来る。
計画的に閉鎖された建物なら、必要なものは綺麗に運び出され、不要なものだけが残る。
災害や事故で放棄された場所なら、人が生活していた状態がそのまま残る。
食器。
衣服。
書類。
時計。
人だけが突然消えたような風景。
この療養所は、そのどちらにも見えなかった。
整理されている。
しかし、空ではない。
必要なものだけが選別され、何か特定の目的に関係するものだけが持ち去られたような、不自然な空白ある。
「病院って」
僕は歩きながら言う。
「人がいないと、こんなに変な場所になるんですね」
「病院に限らないでしょう」
最上さんが答える。
「学校も、夜に入ると印象が変わります」
「確かに」
昼間なら何でもない校舎も、夜になると急に不気味になる。
構造は何も変わっていない。
机も椅子も黒板も同じ場所にある。
変わったのは人がいないということだけだ。
それなのに。
空間そのものが別物に見える。
建物は人間のために作られている。
だから人間がいなくなると、目的を失う。
目的を失ったものは、不気味に見えるのかもしれない。
使われなくなった道具。
動かなくなった機械。
誰も住まなくなった家。
役割を終えたものには、どこか死に近い印象がある。
しかし。
この療養所は、完全には死んでいない。
足跡がある。
誰かが入っている。
つまり、今も何らかの役割を持っている。
それが何なのか分からないから、余計に不気味だった。
「ここ」
クレアが立ち止まった。
廊下の途中。
右側に一枚の扉がある。
他の部屋と変わらない。
部屋番号の札は外されている。
曇りガラスの窓。
金属製の取っ手。
ただそれだけの扉。
「何かあるのか?」
「この先」
クレアは扉ではなく、廊下のさらに奥を見ていた。
「階段があるの」
「見えるのか?」
「見えないの」
「じゃあどうして分かるんだ」
「分かるから」
説明になっていない。
しかし。
僕達がさらに進むと。
本当に階段があった。
廊下の角を曲がった先。
幅の狭い階段。
下へ続いている。
地下。
ホラー映画なら絶対に行ってはいけない場所である。
「どうして分かった?」
僕が聞く。
クレアは答えない。
階段を見下ろしたまま、顔を強張らせている。
足跡も。
地下へ続いていた。
埃の上に残された足跡は、階段の一段目へ乗り、そのまま暗闇の中へ消えている。
だが。
僕が気になったのは、それだけではなかった。
階段の脇。
壁に取り付けられた古い案内板。
そこには、黒く褪せた文字で、こう書かれていた。
『特別観察区画』
病院らしいような。
病院らしくないような。
妙に曖昧な名前だった。
「……観察」
クレアが、その言葉を口にした。
そして。
頭を押さえた。
「また痛むのか?」
「違うの」
クレアは首を横に振る。
「思い出した?」
僕が聞くと、彼女はしばらく何も答えなかった。
やがて。
階段の下を見つめたまま。
静かに言った。
「ここから先に」
声が震えている。
「行っちゃいけないって、言われたことがあるの」
「誰に?」
僕の問いに。
クレアは。
ほんの僅かに目を見開いた。
まるで。その答えが。
自分自身の口から出ることを恐れているように。
「……お父さんに」
そう答えた。
誰も言葉を発しなかった。
旧天白療養所。
クレアが訪れたはずのない場所。
閉鎖されたのは、彼女が日本へ来るよりずっと前。
それなのに。
クレアは。
この地下へ入ることを。
父親から禁じられた記憶を持っている。
そして。
僕達より先に療養所へ入った誰かの足跡は。
その禁じられた場所へ。
真っ直ぐ続いていた。




