第五章6 『見覚えのない記憶⑤』
「クレア!」
僕は慌てて彼女の肩を支えた。
幸い、意識を失った訳ではないらしい。
呼吸もある。
脈もある。
ただ。
顔色だけが驚くほど悪かった。
魔法使いというものは、何処か痛みや苦しみとは無縁の存在のように見えてしまうところがある。
勿論、それは完全な偏見だ。
魔法使いだって人間である。
少なくともクレアは人間である。
お腹も空くし、喉も渇くし、疲れもするし、眠くもなるし、購買のパンに対して妙な執着を見せることだってある。
だから頭痛ぐらい起きても不思議ではない。
不思議ではないのだけれど。
それでも、クレアがこうして苦しそうに顔を歪めている姿を見るのは、あまり気分の良いものではなかった。
人間の痛みというものは共有出来ない。
これは当たり前の話なのだけれど、改めて考えてみると妙な話でもある。
腕を切れば血は見える。
骨が折れれば腫れる。
熱が出れば体温計が教えてくれる。
しかし。
痛みそのものは見えない。
頭痛もそうだ。
本人が痛いと言うから痛いのだろうと判断するしかない。
数値化も出来ない。
色も形もない。
もし痛みが赤色に見えていたなら、医学は今よりずっと簡単だったのかもしれない。
いや、逆に面倒だったかもしれない。
人の痛みが見える社会なんて、案外生きづらいものだろう。
「……ごめん」
クレアは小さく言った。
笑おうとしたのだと思う。
しかし、それは笑顔にはならなかった。
「謝ることじゃないだろ」
「でも」
「でもじゃない」
そう言ってから、僕は少しだけ言葉に詰まった。
こういう時、何を言うのが正解なのだろう。
大丈夫か、と聞くのは簡単だ。
しかし大丈夫ではなさそうな人間に大丈夫かと聞いたところで、大抵の場合、大丈夫ではないか、大丈夫と嘘を吐かせるかの二択にしかならない。
それは優しさなのだろうか。
分からない。
人に優しくするというのは思ったより難しい。
「何が見えた?」
結局、僕はそう聞いた。
優しさより先に疑問が出た。
最低かもしれない。
ただ、今はそれを聞くべきだと思った。
クレアは少しだけ目を伏せる。
数秒。
いや、十秒ぐらいだろうか。
黙ったままだった。
風が吹く。
錆びた扉が小さく鳴る。
どこか遠くで鳥の声が聞こえる。
それだけだった。
「思い出せない」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「見えたのか?」
「うん」
「何を?」
「分からない」
まただ。
知っている。
でも知らない。
見えた。
でも思い出せない。
ここ数日で何度聞いただろう。
記憶というものは、本当に厄介らしい。
人間は忘れる生き物である。
そんなことは昔から言われている。
忘れなければ生きていけない。
だから忘れる。
しかし逆に、忘れてはいけないものまで忘れてしまうこともある。
人の名前。
約束。
誕生日。
あるいは。
自分自身の過去。
脳という臓器は不思議だ。
覚えることより忘れることの方が得意なのかもしれない。
実際、一年間で覚えたことを全て覚えている人間なんて存在しないだろう。
昨日の昼食だって怪しい。
昨日ならまだ良い。
一昨日ならどうだ。
一週間前ならどうだ。
一年前の今日、何を食べたかなんて、よほど特別な日でもなければ覚えているはずがない。
だから忘れることそのものは悪くない。
問題は。
忘れたのではなく、忘れさせられている場合だ。
それは果たして記憶と呼べるのだろうか。
「クレアさん」
最上さんが声を掛ける。
いつもより少し低い声だった。
「無理に思い出そうとしない方が良いかもしれません」
「どうして?」
「思い出すという行為は、必ずしも良いことではありませんから」
最上さんは静かにそう言った。
その言葉には、妙な実感があった。
経験から出た言葉のようにも聞こえた。
「忘れていた方が良いこともある、ということですか?」
「そうですね」
僕の問いに、最上さんは頷いた。
「少なくとも、人間は全てを覚えたまま生きていけるほど強くありません」
それは、何となく分かる気がした。
もし生まれてから今までの全てを覚えていたら、人間は多分簡単に壊れる。
楽しいことだけなら良い。
でも実際には、恥ずかしいことも、辛いことも、悲しいことも、嫌なこともある。
小学生の頃に言ってしまった馬鹿な台詞。
中学生になってからやってしまった失敗。
親に言われた何気ない一言。
友人に言ってしまった取り返しのつかない言葉。
そういうものを全て鮮明に覚えていたら、きっと人間は前へ進めない。
忘却とは救済なのかもしれない。
ただ。
クレアの場合、それで済ませて良い話なのだろうか。
彼女は父を探している。
黒津空我を探している。
そして今、忘れているはずの記憶が、父の足跡へ繋がっているかもしれない。
ならば。
忘れている方が幸せだ、なんて簡単には言えない。
「でも」
クレアは扉を見たまま言った。
「この先にある気がする」
「何が?」
「分からない」
またその答え。
けれど今度は、不思議と苛立ちはなかった。
分からないものは分からない。
それだけなのだろう。
「和史君」
最上さんが扉の方へ視線を向けていた。
「これを」
「ん?」
「鍵が開いています」
見る。
本当だった。
扉には南京錠が付いていた。
いや、付いていたと言うべきなのだろうか。
南京錠は鎖と一緒に地面へ落ちていた。
切断されている。
錆びた鎖の中で、そこだけが妙に新しかった。
銀色に光っている。
「最近ですね」
「分かるんですか?」
「切断面が新しいです」
最上さんはしゃがみ込み、鎖を指先で軽く摘まむようにして見ていた。
錆というものは不思議だ。
金属が腐る。
そう表現すると妙な感じがする。
木が腐るのは分かる。
食べ物も腐る。
しかし鉄まで腐る。
いや、正確には酸化なのだけれど。
結局人類は難しい現象に名前を付けているだけで、本質はあまり変わらない。
長い時間を掛けて自然へ還っていく。
それだけの話なのだろう。
赤茶けた鎖は、長い時間がここにあったことを示している。
しかし。
その切断面だけは違った。
そこだけ時間が新しい。
誰かが最近ここへ来た。
そしてこの扉を開けた。
それだけは間違いない。
「メールの送り主、ですかね」
「可能性は高いと思います」
「嫌な可能性ですね」
「ええ」
最上さんが頷く。
普段なら何か冗談の一つでも挟んでくれそうなものだが、今の最上さんはそうしなかった。
それだけで、少しだけ事態の重さが増したような気がした。
「……入るの?」
クレアが言う。
その声は、少しだけ弱かった。
普段なら真っ先に入ると言いそうなのに。
今は迷っている。
それが余計に怖かった。
僕は扉を見る。
古い鉄の扉。
錆びている。
蔦が絡んでいる。
しかし鍵は切られている。
中に入れる。
入れてしまう。
扉というものは、本来境界である。
内と外。
安全と危険。
日常と非日常。
そういうものを分けるために存在している。
だから人は扉の前で立ち止まる。
開けるか。
開けないか。
中へ入るか。
引き返すか。
選択しなければならないからだ。
そして、物語の主人公というものは大抵、そこで扉を開ける。
開けなければ物語にならないから。
しかし、現実においてそれをやる人間は大抵馬鹿である。
ホラー映画などを見ていると、僕はいつも思う。
どうして入るのか。
どうして地下へ行くのか。
どうして一人になるのか。
どうして明かりを消すのか。
どうして妙な物音を確認しに行くのか。
家にいろ。
警察を呼べ。
友達と一緒にいろ。
そう思う。
思うのだけれど。
今の僕達は、まさにその「どうして入るのか」の側に立っていた。
画面の向こうの登場人物を笑っていた僕が。
今まさに。
廃墟の扉を開けようとしている。
人生というものは皮肉に満ちている。
「入りましょう」
僕は言った。
我ながら、あまり賢い選択ではないと思った。
しかし。
ここまで来てしまった以上。
帰るという選択肢は、最初から存在しなかった。
いや、存在はしていたのだろう。
ただ、選べなかっただけで。
◇◇◇
扉を押す。
重い。
想像以上だった。
長年使われていなかったからだろう。
蝶番が軋む。
鉄同士が擦れる。
嫌な音だった。
キィ、という音は、どうしてこうも人間の不安を煽るのだろう。
黒板を引っ掻く音もそうだ。
発泡スチロールが擦れる音もそうだ。
人間には本能的に嫌う音というものがある。
もしかしたら、遠い昔に危険を知らせる音と似ていたのかもしれない。
獣の鳴き声。
骨が折れる音。
木が裂ける音。
そんなものと似ていたから、人間は不快に感じるのだろうか。
分からない。
分からないけれど、とにかく気分は悪かった。
映画なら間違いなくBGMが止まる場面である。
幸い、現実にはBGMなど存在しない。
だから静かだった。
静かで。
余計に気味が悪かった。
そいでいて——。
入った建物の中は、驚くほど綺麗だった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
廃墟。
そのはずだった。
少なくとも外観は完全に廃墟だった。
コンクリートは黒ずみ、窓ガラスは割れ、外壁には蔦が絡み付き、フェンスは錆び、雑草は伸び放題だった。
しかし。
中は違った。
床には埃こそ積もっている。
しかし廊下は荒れていない。
壁紙も大きく剥がれてはいない。
天井も落ちていない。
窓ガラスも、外側から見た印象ほど割れていなかった。
まるで。
昨日まで誰かが管理していたみたいだった。
いや。
そこまで言うと大袈裟かもしれない。
けれど、少なくとも何十年も放置された廃墟には見えなかった。
「おかしいですね」
最上さんも同じことを感じたらしい。
「ですよね」
「ええ。外側の劣化と内側の保存状態が噛み合っていません」
「そんなことあるんですか?」
「普通はありません」
普通は。
その言葉が少し怖かった。
最近の僕達の周りでは、普通ではないことばかりが起きている。
普通ではない人間。
普通ではない魔法。
普通ではない組織。
普通ではないメール。
そして。
普通ではない廃墟。
「魔法ですか?」
僕は聞いた。
最上さんは首を横に振った。
「分かりません」
「分からない?」
「魔力の流れが薄過ぎます。何かを感知しようにも、ここは空っぽに近い」
空っぽ。
またその言葉だった。
建物の中へ入ると、その意味が少しだけ分かった気がした。
ここは静かだ。
ただ音がないという意味ではない。
何かが欠けている。
人の気配。
生活の残り香。
場所が持っているはずの熱。
そういうものがない。
廃墟というのは、普通もっと雑多なものではないだろうか。
落書き。
壊された備品。
割れた瓶。
誰かが持ち込んだゴミ。
そういうものがあってもおかしくない。
しかしここにはない。
綺麗過ぎる。
管理されているのではなく。
消されているような。
そんな感じがした。
「クレア?」
見ると、クレアが廊下の奥を見ていた。
まただ。
さっきからクレアは、僕達には見えない何かを見ているような顔をする。
「どうした?」
「あそこ」
クレアはゆっくりと指を差した。
廊下の奥。
薄暗い。
非常口の表示板だけがぼんやりと残っている。
電気は通っていないはずなのに、不思議と完全な暗闇ではなかった。
「何かあるのか?」
「足跡」
言われて。
僕はようやく気付いた。
廊下の床。
埃が積もっている。
その上に。
足跡があった。
新しい足跡。
埃を踏み締めた跡。
しかも。
一つではない。
二つでもない。
僕達のものではない。
何故なら、それは僕達が立っている場所よりずっと奥へ続いていたからだ。
つまり。
僕達より前に。
誰かが。
この建物へ入っていた。
「……やっぱり」
クレアが小さく呟く。
「やっぱり?」
僕は聞き返す。
クレアはすぐには答えなかった。
ただ、廊下の奥を見つめ続けている。
そして。
少しだけ震える声で言った。
「この道、知ってる」
その言葉を聞いた瞬間。
僕は。
この建物に入ったことを。
少しだけ後悔した。




