第五章5 『見覚えのない記憶④』
「……あれ?」
その声は、誰かへ向けられたものではなく、自分自身へ向けられたものだったのだと思う。
クレアは立ち止まっていた。
そして、自分が歩いてきた道を見ている。
別に何か特別なものがある訳ではない。
伸び放題になった雑草。
ひび割れた舗装。
朽ちた案内板。
どこにでもある廃墟の風景。
しかし。
だからこそ不自然だった。
「何でここへ来たんだ?」
僕がそう尋ねると、クレアは困ったように眉を寄せた。
「分からない」
「分からない?」
「うん」
そして本当に分からないらしかった。
「何となく」
嫌な言葉だった。
何となく。
人類が発明した言葉の中でもかなり便利な部類に入ると思う。
何となく覚えている。
何となく知っている。
何となくそう思った。
何となくやった。
理由が存在しなくても成立してしまう万能の言葉だ。
便利だが、その分だけ危険でもある。
何故なら説明を放棄出来てしまうからだ。
しかし。
今のクレアは誤魔化しているようには見えなかった。
本当に理由が分からないのだろう。
それなのに。
迷いがなかった。
それが不気味だった。
人間は知らない場所へ来ると迷う。
いや、正確には迷うというより確認する。
右へ行くべきか。左へ行くべきか。——それとも、この道は正しいのか。
そもそも進んで大丈夫なのか。
そういう判断を無意識のうちに繰り返している。
考えてみれば当然だ。
原始時代なら、それは生死に直結していたのだから。
茂みの向こうには肉食獣がいるかもしれない。
毒蛇がいるかもしれない。
崖があるかもしれない。
だから人間は周囲を観察する。
観察して。
判断して。
安全だと確信してからようやく前へ進む。
旅行が疲れるのも同じ理屈なのだろう。
知らない駅。
知らない街。
知らない店。
人間の脳は延々と情報処理を続ける。
どこに出口があるのか。
どこで乗り換えるのか。
危険はないのか。
そういうことを考え続ける。
だから疲れる。
逆に自宅というのは驚くほど楽な場所だ。
トイレの場所も知っている。
冷蔵庫の場所も知っている。
どこで躓くかすら知っている。
だから安心出来る。
しかし。
クレアは今。
初めて来たはずの場所を。
まるで自宅の廊下を歩くみたいに進んでいた。
風が吹いた。
木々が揺れる。
ざわざわと葉が擦れ合う音が聞こえる。
それだけだった。
妙に静かだった。
いや。
音はある。
風の音もある。
鳥の鳴き声もある。
遠くを走る車の音も聞こえる。
だから静かという表現は間違っている。
しかし。
静かだった。
矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、人間は時々そういう感覚を抱く。
人が大勢いるのに静か。
明るいのに暗い。
賑やかなのに寂しい。
言葉というのは意外と曖昧だ。
そして曖昧だからこそ、人間の感情を表現出来る。
もし世界の全てを数値で表現しなければならないのなら、詩人という職業は存在しなかっただろう。
「静か」
クレアが再び言った。
「まだそれか」
「うん」
「何が静かなんだ?」
「分からない」
本人も説明出来ないらしい。
「でも」
少し考えて。
クレアは続けた。
「何かがない」
何か。
それが何なのかは分からない。
しかし。
最上さんは少しだけ難しい顔をしていた。
「魔力ですね」
「魔力?」
「恐らく」
最上さんは周囲を見渡す。
「流れがありません」
「そんなことあるんですか?」
「あります」
即答だった。
「場所によって魔力濃度は変わりますから」
何だろう。
最近の魔法理論は思ったより科学っぽい。
濃度。
流れ。
何だか気象予報みたいだ。
あるいは花粉か。
「魔力警報とか出るんですか?」
「出ません」
「残念」
「出たら出たで大変ですよ」
それはそうかもしれない。
「ただ」
最上さんは建物を見上げる。
「ここまで極端なのは珍しいですね」
「極端?」
「ええ」
少し言い淀む。
「空っぽです」
空っぽ。
その言葉が妙に耳に残った。
◇◇◇
旧天白療養所は近くで見ると想像以上に大きかった。
三階建て。
横に長い。
窓ガラスの大半は割れている。
コンクリートは黒ずんでいる。
外壁には蔦が絡み付いている。
人間がいなくなって何年経つのか知らないけれど、少なくとも建物は確実に死へ向かっていた。
最上さんの言葉を借りるなら——死骸。
確かにその表現は間違っていないのかもしれない。
人間もそうだ。
生きている時と死んだ後では同じ身体でも全く違って見える。
病院も同じなのだろう。
人がいるから病院になる。
人がいなくなればただの建物だ。
しかし。
だからこそ不思議だった。
人間はどうしてこういう場所に惹かれるのだろう。
療養所という言葉を聞くと、僕は何故だか文学作品を連想する。
病院ではなく療養所。
病室ではなくサナトリウム。
意味は似ているはずなのに受ける印象が違う。
牢屋と監獄。
屋敷と館。
死体と遺体。
言葉というのは不思議なものだ。
たった一語変わるだけで空気が変わる。
そしてサナトリウムという言葉には、どこか終着駅のような響きがある。
そこへ辿り着いた人間は長く留まる。
あるいは。
二度と帰れない。
そんな物語を人類は何度も書いてきた。
だからだろうか。
この建物を見ていると、まだ誰かがいるような気がしてくる。
もちろん気のせいだ。
そんなことは分かっている。
分かっているのだけれど。
「和史」
クレアが呼ぶ。
「何だ?」
「こっち」
そして迷いなく歩き出した。
フェンス沿い。
雑草の隙間。
崩れたコンクリート。
僕なら避けそうな道を。
クレアは何故か正確に選んでいく。
そして。
建物の裏手へ回り込んだ。
そこに。
扉があった。
◇◇◇
鉄製の古い扉。
半分ほど蔦に覆われている。
恐らく職員用の出入口。
普通の来訪者が使う場所ではない。
「何で分かった?」
聞いてみる。
クレアは答えない。
いや。
答えられないのだろう。
「知ってる」
小さく呟く。
「でも」
続く言葉は震えていた。
「知らない」
昨日から何度も聞いている矛盾。
知っている。
しかし知らない。
覚えている。
しかし思い出せない。
それはまるで。
壊れた記録媒体みたいだった。
クレアが扉へ手を伸ばす。
錆びている。
冷たい。
そして。
何十年もの時間を閉じ込めているように見えた。
考えてみれば奇妙な話だった。
鉄に記憶はない。
コンクリートにもない。
木材にもない。
しかし人間はそこに歴史を見出す。
誰が最後に触れたのか。
誰が最後に開けたのか。
誰が最後に閉めたのか。
そんなことを考える。
まるで物に記憶が宿っているかのように。
だから。
その瞬間だった。
「っ――!」
クレアが突然頭を押さえたのは。
苦しそうに顔を歪める。
そして。
彼女の視線が。
扉の向こう側を見つめたまま動かなくなった。
「クレア?」
返事はない。
ただ。
彼女の瞳だけが。
今ではないどこかを見ているようだった。




