第五章4 『見覚えのない記憶③』
「……お父さん」
クレアがそう言った瞬間。
僕は反射的にそちらを見た。
林。
フェンス。
雑草。
閉鎖された建物。
そして。
何もない。
少なくとも僕にはそう見えた。
「どこだ?」
「向こう」
クレアは迷うことなく答える。
しかし、彼女の指差した先に人影らしきものは見当たらない。
風で揺れる木々。
伸び放題になった草。
錆びたフェンス。
それだけだった。
「誰も居ないぞ」
「いた」
断言だった。
今までになく強い口調だった。
「見間違いじゃなくて?」
「違う」
「でも見えないんだが」
「今はいない」
それもまた困る話だった。
いた。
でも今はいない。
否定する材料もない代わりに肯定する材料もない。
こういう時、人間はどう判断するべきなのだろう。
人間は自分が見たものを信じて生きている。
信じなければ生活出来ない。
目の前に車が見えるから避けるし、信号が赤だから止まる。
もし毎回「これは幻覚かもしれない」と疑い始めたら日常生活すら成立しないだろう。
しかし一方で、人間の感覚が絶対に正しい訳でもない。
蜃気楼は存在しない水を見せる。
錯覚は存在しない図形を見せる。
幻聴や幻覚という現象だってある。
つまり人間の脳は、自分が思っている以上に適当なのだ。
視覚というのはカメラではない。
脳が勝手に補完している。
だから見えているものが本当に存在している保証はないし、逆に見えていないものが存在しない保証もない。
例えば紫外線。
例えば赤外線。
例えば電波。
人間は世界のほんの一部しか認識出来ていない。
そう考えると、自分の感覚だけを頼りに「そんなものはいない」と断言するのも少し傲慢なのかもしれない。
もっとも。
だからといってクレアのお父さんが突然そこに立っていたという結論になる訳でもないのだけれど。
「最上さんは?」
「見ていませんね」
最上さんは即答した。
「ただ」
「ただ?」
「クレアさんが嘘を吐いているとも思いません」
それは僕も同意見だった。
クレアは嘘を吐くのが下手だ。
というより、こういう場面で格好を付けたりするタイプではない。
見たと言うなら見たのだろう。
問題は。
それが現実だったのかどうかである。
◇◇◇
旧天白療養所は小高い丘の上に建っていた。
名古屋市内にもこういう場所があったのか、と少し驚く。
市街地からそれほど離れていないはずなのに、周囲は妙に静かだった。
「療養所って」
歩きながら僕は聞く。
「病院とは違うんですか?」
「少し違いますね」
最上さんが答える。
「元々は長期療養を目的とした施設です」
「長期療養」
「結核患者なんかが有名でしょうか」
結核。
最近はほとんど聞かなくなった病名だ。
いや、なくなった訳ではないらしいけれど。
少なくとも昔ほど恐れられてはいない。
抗生物質の力は偉大である。
「そういえば」
僕は思い出す。
「昔の小説とかでサナトリウムって出てきますよね」
「ありますね」
「何なんですか、あれ」
「療養所ですよ」
なるほど。
そう言われればそんな気もする。
しかしサナトリウムという響きには妙な特別感がある。
何だろう。
外国語だからだろうか。
もし同じ内容でも、『療養所の少女』と、『サナトリウムの少女』では後者の方が文学っぽい気がする。
気のせいかもしれない。
「病院というのは治療する場所ですが、療養所は生活する場所でもありますからね」
「なるほど」
「だから山の中や空気の綺麗な場所に作られることが多かったんですよ」
そういうものなのか。
現代人からすると少し不思議だ。
病院というのは通いやすい場所にあるべきだと思う。
しかし昔は違った。
綺麗な空気。
静かな環境。
規則正しい生活。
そういうものが治療法の一部だったのだろう。
時代によって医学の常識は変わる。
今から百年後には、二十一世紀の医療は原始的だった、なんて言われているのかもしれない。
その頃には僕は死んでいるだろうから確認出来ないのだけれど。
◇◇◇
「和史」
クレアが言った。
「何だ?」
「静か」
またその言葉だった。
ここへ向かう途中から何度も聞いている。
「静かって?」
「静か」
「説明になってないぞ」
クレアは少し困った顔をした。
本人も上手く言語化出来ないらしい。
「音じゃないの」
「じゃあ何なんだ?」
「分からない」
分からないのか。
しかし。
分からないなりに違和感を抱いていることだけは伝わってきた。
こういう時のクレアは妙に勘が鋭い。
魔法使いだからなのか。
それとも本人の資質なのか。
僕には分からない。
「魔力ですね」
最上さんが言った。
「魔力?」
「正確には魔力の流れでしょうか」
何だそれ。
急に地学の授業みたいになってきたぞ。
「地脈みたいなものですか?」
「近いですね」
最上さんは頷く。
「魔力は常に流れています」
「空気みたいに?」
「そんな感じです」
見えないものを説明する時、人類は大体空気に例える。
便利だからだろう。
実際分かりやすい。
「そして場所によって濃さが違います」
「花粉みたいですね」
「言われてみるとそうかもしれません」
嫌な例えだな。
「ただ」
最上さんは少し表情を曇らせた。
「ここまで薄いのは珍しいです」
「そんなにですか?」
「ええ」
最上さんがそう言うなら相当なのだろう。
この人は大抵のことを知っている。
少なくとも僕よりは。
その最上さんが珍しいと言う。
それだけで嫌な予感が強くなった。
◇◇◇
やがて。
フェンスが見えてきた。
近くで見ると想像以上に古い。
錆び付いている。
塗装は剥がれ落ちている。
雑草が絡み付いている。
それでも倒れない辺り、昔の建築は頑丈だ。
あるいは単純に僕の想像以上に新しいのかもしれない。
人間の時間感覚なんて案外曖昧なものだ。
十年前を昔だと思うこともあれば、一年前を昨日みたいに感じることもある。
そう考えると廃墟というものは不思議だ。
そこだけ時間が止まっているように見える。
しかし実際には止まっていない。
錆びる。
崩れる。
朽ちる。
人がいなくなった後も時間だけは流れ続けている。
だからこそ不気味なのだろう。
その時だった。
クレアがふらりと歩き出した。
「おい」
呼ぶ。
返事はない。
真っ直ぐ進む。
迷いがない。
まるで。
昔から知っている道を歩くみたいに。
フェンス沿いを進み。
伸びた雑草を避け。
倒れた看板を回り込み。
建物の裏手へ続く細い道へ入る。
そして。
僕はそこでようやく気付いた。
クレアが。
一度も迷っていないことに。
「……クレア」
「何?」
「何で道を知ってるんだ?」
その瞬間。
クレアの足が止まった。
そして。
自分が歩いて来た道を見て。
本気で困惑した顔を浮かべた。
「……あれ?」
その一言が。
何よりも不気味だった。




