第五章2 『見覚えのない記憶』
人間の記憶というものは案外当てにならない。
これは別に僕の個人的な感想という訳ではなく、心理学の世界では昔から言われていることで、例えば事件の目撃証言などはその典型だろう。テレビドラマなんかでは目撃者が犯人の顔をはっきり覚えていて、そのまま逮捕に繋がるなんて展開も珍しくないけれど、現実はそう上手くはいかない。人間は見たいものしか見ていないし、聞きたいものしか聞いていない。もっと言えば、見たことすらないものを見たと思い込むことだってある。記憶というのは録画映像ではなく、その都度再生しながら作り直されるものらしい。だから昨日の記憶と今日の記憶が微妙に違っていても不思議ではないし、十年前の思い出なんて本当に信用して良いのかすら怪しい。
もっとも。
そんなことを考え始めたのは、昨日のクレアの一言が原因だった。
――知っている人だった気がする。
気がする。
何とも曖昧な表現だ。
しかしながら、その曖昧さこそが妙に引っ掛かっていた。
見間違いなら見間違い。
知り合いなら知り合い。
そう断言してくれた方が余程分かりやすい。
だがクレアはそう言わなかった。
そして僕もまた、その言葉を聞き流すことが出来なかった。
「珍しいですね」
放課後。
最上さんが言った。
「何がです?」
「和史君がそんな顔をしているのは」
そんな顔。
便利な日本語である。
顔がどうなっているのか説明してくれない辺りが実に便利だ。
「どんな顔ですか」
「考え事をしている顔です」
「失礼だな。僕だって考え事ぐらいしますよ」
「年に数回ぐらいですか?」
「そんなに少なくない」
流石に月一ぐらいはあると思う。
多分。
恐らく。
願望込みで。
「まあ、冗談ですけれど」
最上さんは苦笑した。
「それで?」
「それで?」
「何を考えているんです?」
別に隠すような話でもない。
僕は昨日のことを話した。
クレアが誰かを見たこと。
知り合いだった気がすると言ったこと。
そして、それを気にしていること。
「ふむ」
最上さんは少しだけ考えた。
「確かに妙ですね」
「ですよね」
「クレアさんがそんな曖昧なことを言うのは珍しい」
そこだ。
僕が違和感を抱いていたのもそこだった。
クレアは普段、割と断言する。
自信があるからなのか。
性格なのか。
あるいは魔法使いだからなのか。
理由は知らないけれど、とにかく断言する。
だからこそ。
昨日の言葉は妙だった。
「ただ」
最上さんが続ける。
「魔法使いにとって記憶というのは少々厄介な問題でもあります」
「そうなんですか?」
「ええ」
最上さんは頷いた。
「例えば、時間系統の魔法使い」
その瞬間。
僕はクレアを思い浮かべた。
「時間を扱う魔法というのは、どうしても認識に干渉するんですよ。過去を見る。未来を見る。時間を遅らせる。時間を加速させる。そういったことを繰り返していると、どこまでが現実の記憶で、どこからが魔法によって得た情報なのか分からなくなる場合があります」
「……何ですか、それ」
「厄介でしょう?」
厄介どころの話ではない。
もし本当にそうなら。
クレア自身ですら、自分の記憶を信用出来ないことになる。
「だから」
最上さんは少しだけ真面目な顔になった。
「案外、見覚えのない記憶というものは恐ろしいんですよ」
その言葉だけが。
妙に耳に残った。
◇◇◇
その日の夜。
珍しく眠れなかった。
別に昼寝をした訳でもない。
コーヒーを飲み過ぎた訳でもない。
単純に。
頭の中で色々なことが繋がり始めていたからだ。
黒津空我。
アレイスターの遺産。
イノケンティウス。
クレアの時間魔法。
そして。
昨日見たという謎の人物。
どれも関係がないように見える。
しかし物語というものは不思議なもので、関係がないように見える事柄ほど後になって一本の線で繋がったりする。
いや。
別に僕の人生は小説ではないのだけれど。
そう思いたくなる程度には、最近の僕の周囲は事件に満ち溢れていた。
そして。
その日の深夜。
一本のメールが届いた。
差出人不明。
件名なし。
本文はたった一行だった。
【黒津空我を探しているのなら、旧天白療養所へ来い】
僕はしばらく画面を見つめていた。
迷惑メールにしては趣味が悪い。
悪いどころか。
最悪だった。
何故なら。
その名前を知っている人間は、それほど多くないはずだからだ。
少なくとも。
ただの悪戯で済ませられるほどには。
◇◇◇
迷惑メールというものは昔から存在する。
いや、正確には電子メールが普及した頃から存在すると言うべきなのだろうか。流石に平安時代に「このメールを十人に送らないと不幸になります」なんて内容の手紙が飛び交っていたとは思えない。もっとも、似たような話ならあったのかもしれない。人類は驚くほど進歩するが、同時に驚くほど進歩しない生き物でもある。手段が変わっただけでやっていることは千年前も今も大差ない、という話は意外と多い。
例えば詐欺。
例えば噂話。
例えば陰謀論。
そして例えば。
怪しげな匿名のメッセージ。
昔なら怪文書。
今ならメール。
それだけの違いでしかない。
だから本来なら。
そんなものは無視するべきだった。
返信しない。
反応しない。
削除する。
それが正しい対処法である。
少なくとも情報リテラシーの教科書にはそう書いてあるだろう。
しかし。
残念ながら。
そのメールには一つだけ問題があった。
黒津空我。
その名前が書かれていたことだ。
そして僕は。
その名前を無視出来る立場ではなかった。
◇◇◇
翌朝。
「という訳なんだが」
スマートフォンを見せる。
クレアはメールを読んだ。
十秒ほど読んだ。
更に十秒ほど読んだ。
そして。
「怪しい」
「だろうな」
「怪しい」
「二回言ったな」
「二回言うぐらい怪しい」
それはそう。
むしろ怪しくない要素を探す方が難しい。
差出人不明。
件名なし。
場所だけ指定。
完全に罠である。
推理小説だったら八割方死ぬ。
ホラー映画なら九割方死ぬ。
サスペンスならほぼ死ぬ。
ジャンルによって多少の違いはあるものの、少なくとも安全な展開ではない。
「でも」
クレアは続けた。
「本物かもしれない」
「だろうな」
だから困る。
完全な悪戯なら楽だった。
笑って削除出来る。
しかし黒津空我が関わると話が変わる。
クレアが何年も探している人物であり、魔法使い達ですらその足取りを掴めていない存在なのだから。
もし本物だった場合。
無視するという選択肢は取りにくい。
「ちなみに」
僕は聞いた。
「旧天白療養所って知ってるか?」
「知らない」
即答だった。
期待した僕が悪かった。
そもそもクレアは名古屋育ちではない。
地元民ですら知らない施設を知っている訳がない。
「和史は?」
「知らない」
「じゃあ知らない」
身も蓋もなかった。
◇◇◇
「知っていますよ」
知っていた。
いや。
知っていそうな人ではあった。
最上さんである。
「どうして知ってるんですか」
「どうしてと言われましても」
最上さんは少し困った顔をした。
「古い施設ですからね」
「それだけ?」
「それだけです」
本当だろうか。
この人の場合、知識の出所がよく分からない。
百科事典を丸ごと食べて育ったのではないかと思うことが時々ある。
もしそうなら消化に悪そうだが。
「天白区の外れにあった療養施設ですよ。かなり昔に閉鎖されています」
「病院とは違うんですか?」
「少し違いますね」
最上さんは説明を続ける。
「療養所というのは、病気を治療するというより長期的に療養するための施設です。時代によって意味合いは変わりますけれど」
なるほど。
分かったような。
分からないような。
そういう時に便利なのがインターネットである。
分からないことを調べる。
当たり前の行為だ。
ただし。
調べる前から嫌な予感がする時もある。
今回がまさにそれだった。
「ちなみに」
クレアが言った。
「何か出る?」
「何がです?」
「幽霊とか」
最上さんは少し考えた。
「出るらしいですよ」
「らしいですよじゃないんですよ」
「有名ですからね」
「何が?」
「心霊スポットとして」
嫌な予感が的中した。
何故だ。
何故日本人は病院が閉鎖されるとすぐに心霊スポット扱いしたがるのだろう。
学校もそうだ。
トンネルもそうだ。
ホテルもそうだ。
日本全国、心霊スポットだらけである。
むしろ心霊スポットではない場所を探した方が早いのではないだろうか。
「ちなみに」
最上さんが続ける。
「二十年ほど前に火災があったそうです」
「おい」
「更にその前には失踪事件も」
「おい」
「その更に前には――」
「もういいです」
お腹いっぱいだった。
フルコースである。
怪談の。
これ以上盛らなくても十分怖い。
「でも」
クレアは何故か少し考え込んでいた。
「どうした?」
「その場所」
「うん」
「聞いたことがある気がする」
その言葉に。
僕と最上さんは同時に顔を上げた。
聞いたことがある。
それは昨日と同じだ。
見覚えがある。
知っている気がする。
しかし思い出せない。
曖昧な記憶。
「クレア」
僕は思わず聞いた。
「本当に?」
「うん」
クレアは頷く。
だが。
その表情は困惑していた。
まるで。
自分自身の記憶を信用出来ないかのように。
「おかしいの」
ぽつりと呟く。
「私、行ったことがある気がする」
その言葉に。
教室の空気が少しだけ変わった。
何故なら。
クレアが日本へ来たのは数年前のはずだったからだ。
そして旧天白療養所は。
とうの昔に閉鎖されている。
時系列が。
合わない。
少なくとも。
普通に考えるならば。




