第五話1 『父の足跡』
旅行の翌日というものは、どうしてこうも身体が重いのだろう。
いや、別に旅行だからという訳ではないのかもしれない。遠足でも文化祭でも体育祭でも何でもそうだ。人間という生き物はイベントが終わった翌日に反動が来るように出来ている。何だったらその翌々日ぐらいまで響くことも珍しくない。
ちなみに筋肉痛もそうらしい。
年を取ると翌日ではなく翌々日に来るという話があるけれど、あれは正確には加齢が原因ではなく、運動量が足りないからだとか何とか。
……いや、本当か?
そういう話を聞いたことがあるだけで、別に僕は医学部生でもなければ整形外科医でもない。正直なところ、筋肉痛がどういう仕組みで起きているのかもよく分かっていなかった。
少なくとも。
今の僕の身体が重いことだけは事実だった。
「だるい……」
ベッドの上で呟く。
すると。
『それは旅行疲れですね』
即座に返事が返ってきた。
「お前、いつから居たんだよ」
『五分ほど前からです』
「普通に怖いんだが」
『そうでしょうか?』
スマートフォンの画面の中で、いつものように微笑んでいるのは人工知能――ではなく、クララさんだった。
いや。
人工知能ではない。
ないのだけれど。
最近は本当に区別が付かなくなってきている。
技術というのは凄いものだ。
十年前ならSFだったものが、今では普通に存在している。
そのうち。
魔法使いと人工知能の区別すら付かなくなる日が来るのかもしれない。
『来ませんよ』
「まだ何も言ってないんだが」
『顔に書いてあります』
「便利な言葉だな、それ」
実際便利である。
論理的説明を放棄出来る。
もっとも。
論理的説明を放棄して良いなら、人類は裁判制度なんて作らなかっただろうけれど。
『それで』
クララさんが話題を変える。
『今日はどうするんです?』
「今日は?」
『はい』
「学校だが」
『そうでした』
何故か残念そうだった。
学校に行くことがそんなに残念だろうか。
いや。
残念なのは僕の方かもしれない。
昨日まであんな非日常を味わっていたのに、今日は普通に学校へ行かなければならないのだから。
人間という生き物は案外贅沢だ。
平穏な日常を求めていたはずなのに、いざ平穏な日常を与えられると退屈を感じる。
そして非日常を求める。
しかし非日常が続くと今度は平穏な日常を求め始める。
我儘にも程がある。
まあ。
僕も人のことは言えないのだけれど。
◇◇◇
教室へ入る。
平日。
朝。
いつもの風景。
昨日まで魔法使いだの時間魔法だの名古屋市一周旅行だのやっていたとは思えないほど平和だった。
人類は順応性が高い。
どんな状況でも日常にしてしまう。
戦争ですら。
災害ですら。
数ヶ月も続けばそれが当たり前になる。
良いことなのか悪いことなのかは分からない。
ただ。
その順応性のおかげで今の文明があるのも事実だろう。
「おはよう」
声を掛けられた。
振り返る。
クレアだった。
「おはよう」
「元気ない」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「私?」
「少なくとも一因ではある」
クレアは少し考えてから、
「誇って良い?」
「駄目だろ」
即答した。
何を誇ろうとしているんだ、この人。
疲労を与えたことを勲章扱いするな。
「でも楽しかった」
「それは否定しない」
事実だった。
疲れた。
疲れたけれど。
面白かった。
あんな馬鹿みたいな旅行は、多分人生でそう何度も経験しないだろう。
「また行きたい」
「今度は普通の旅行にしてくれ」
「善処する」
「しない奴の返答なんだよな、それ」
そんな他愛もない会話。
その時だった。
クレアの表情が少しだけ変わった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
何かを見つけたような顔をした。
「どうした?」
「……何でもない」
そう言った。
だが。
何でもない顔には見えなかった。
クレアは窓の外を見ている。
校庭。
フェンス。
その向こう。
誰も居ないはずの場所。
――いや。
本当に誰も居なかったのだろうか。
その時の僕には分からなかった。
ただ。
後になって思えば。
あれが始まりだったのかもしれない。
黒津空我へ繋がる。
最初の足跡だったのだから。
◇◇◇
結局。
その日の授業中、僕はずっとクレアのことを気にしていた。
いや。
別に気になるだろう。
突然窓の外を見て固まったかと思えば、その後は何事もなかったかのように振る舞っていたのだから。
しかも。
あのクレアである。
普段からあまり表情豊かな方ではないけれど、それでも分かる。
明らかに何かを見た顔だった。
それを見ていないことにするほど、僕も鈍感ではない。
多分。
いや、もしかしたら鈍感なのかもしれないけれど。
少なくとも今回は気付いた。
それだけの話だ。
「なあ」
昼休み。
購買で買った焼きそばパンを食べながら僕は言った。
「朝のあれ、何だったんだ?」
「何のこと?」
クレアは平然としている。
平然とした顔でコロッケパンを食べている。
そういえば魔法使いってコロッケパン食べるんだな。
いや。
食べるだろう。
食べない理由がない。
何だその偏見。
「窓の外を見てただろ」
「見てた」
「何かあったのか?」
「別に」
即答だった。
あまりにも即答だった。
むしろ怪しい。
普通はもう少し考える。
少しぐらい誤魔化す。
しかしクレアは違う。
最初から誤魔化す気すらない。
「絶対何かあっただろ」
「そう思う?」
「思う」
「そう」
そう言って。
クレアは少しだけ黙った。
それから。
「……気のせいかもしれない」
珍しく自信なさげに言った。
気のせい。
その言葉は便利だ。
大抵のことは気のせいで片付く。
幽霊も。
心霊現象も。
デジャヴも。
勘違いも。
気のせいという言葉の前では大抵の謎が敗北する。
便利過ぎる。
便利過ぎるが故に信用出来ない。
「何を見たんだ?」
「人」
「人」
「多分」
多分。
人。
何とも曖昧な回答だった。
「校庭に?」
「うん」
「誰かいたのか?」
「居たと思う」
思う。
どんどん曖昧になる。
証言としては最悪だった。
裁判に持ち込んだら三秒で却下されそうなレベルである。
「でも」
クレアは続けた。
「知ってる人だった気がする」
「知り合い?」
「そこまでは分からない」
「分からないのかよ」
「分からないの」
そう言ってから。
クレアは少しだけ眉を寄せた。
「……ただ」
「ただ?」
「嫌な感じがした」
その一言だけは。
妙に真剣だった。
◇◇◇
放課後。
帰宅途中。
僕とクレアは並んで歩いていた。
名古屋の夕方は案外騒がしい。
車の音。
信号機の電子音。
どこかの店から流れてくる音楽。
都会というのは静寂とは無縁だ。
もっとも。
それが嫌いという訳ではない。
完全な静寂というのも、それはそれで落ち着かないものだから。
「ねえ」
クレアが言う。
「何だ?」
「和史」
「うん」
「もし」
そこで言葉が止まった。
珍しい。
クレアが言い淀むのは。
「もし?」
「……父親が」
黒津空我。
その名前を聞いただけで。
僕は少しだけ背筋が伸びた。
「見つかったら、どうする?」
不意打ちだった。
僕は思わず考える。
どうする。
どうするだろう。
探していた本人ならともかく。
僕はただの部外者だ。
少なくとも建前上は。
「お祝いするんじゃないか?」
「それだけ?」
「それ以上何をしろと」
「そういうものかな」
クレアは空を見上げた。
夕焼けだった。
赤い。
綺麗な夕焼けだった。
「私ね」
ぽつりと。
クレアが呟く。
「少し怖いの」
その言葉に。
僕は返事が出来なかった。
「もし見つかったとして」
クレアは続ける。
「私の知ってるお父さんじゃなかったら」
風が吹いた。
六月の風だった。
暖かくもなく。
冷たくもなく。
ただ。
どこか落ち着かない風だった。
そして。
その時。
僕達は気付かなかった。
道路の向かい側。
雑踏の中。
こちらを見ている男がいたことに。
帽子を深く被った男。
男は一度だけクレアを見て。
そして。
静かに踵を返した。
まるで。
目的の人物を確認したかのように。
その背中を。
僕達は見ていなかった。




