第九話 二人で開ける扉
金曜日の最後の授業は、いつもより長く感じた。
先生の話を聞いているつもりなのに、気づくと放課後のことを考えていた。あの店へ、今日は二人で行く。それだけで、いつもの金曜日とは少し違っていた。
帰りの挨拶が終わると、あの子が鞄を持って私の席へ来た。
「何時に開くんだっけ?」
私はスマートフォンに控えておいた時間を見せた。
「まだ結構あるね」
「そうですね。どこかで待ちますか?」
あの子は少し考えてから、私の制服に目を向けた。
「そういえば、前も学校帰りに行ったんだよね」
「はい」
「その格好で?」
「はい。着替えてはいませんけど」
「それは、やめておいたほうがよくない? お酒を飲まなくても、BARに制服はまずいでしょ。見た人は、何を飲んでるかなんてわかんないし」
店主が人差し指を口元に当てていた姿が浮かんだ。
誤解を招きかねませんから。
あのときは飲み物の話だと思っていたけれど、外から見れば、制服で店に入る私も同じなのかもしれない。
「……そこまで考えていませんでした」
「じゃあ、一回帰って着替えようよ」
「でも、お家まで遠くないですか?」
「駅の向こうの、スーパーの近くだよ」
「あの、角にパン屋さんがあるところですか?」
「そう」
「私、その二本先の道です」
あの子が目を丸くした。
「近いじゃん」
「私も、今びっくりしました」
同じ教室にいるのに、住んでいる場所さえ知らなかった。
途中まで一緒に帰り、駅前で待ち合わせる約束をして別れた。振り返ると、あの子もこちらを見ていて、小さく手を上げてくれた。
制服を脱いだあと、私はクローゼットの前でしばらく迷った。
BARへ行くときは、何を着ればいいのだろう。
結局、落ち着いた色のニットとスカートにして、コートを羽織った。鏡の前で確かめてから、少し早く家を出た。
駅前には、もうあの子がいた。
ジャケットにパンツを合わせている。制服ではない姿が新鮮で、声をかける前に少し見てしまった。
「あ、来た」
「すみません。待ちましたか?」
「今来たところ。私服だと、雰囲気違うね」
「変ではないですか?」
「変じゃないよ。似合ってる」
「……ありがとうございます」
自分から聞いたのに、答えてもらうと恥ずかしくなった。
「そっちも、格好いいです」
「何それ」
あの子も少し照れたように笑った。
大通りへ向かって歩きながら、学校の話をした。会話が途切れても、最初にお昼を食べたときほど気にならなかった。
「今日は、ちゃんとあるかな」
「あると思います」
「また消えてたら、どうする?」
「そのときは、一緒に探してください」
「しょうがないなあ」
それでも路地を曲がるときには、少し緊張した。
奥に見覚えのある明かりを見つけて、ようやく安心する。
「あそこです」
店の前に立つと、あの子は看板を見上げた。
「本当にBARなんだね」
「だから、そう言ったじゃないですか」
「そうだけど。あんたが一人で入ったって思うと、何か意外」
初めてここへ来た夜には、誰かと一緒にこの扉の前へ立つなんて、考えもしなかった。
私は営業時間を確かめてから、扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
店主が顔を上げた。
私に微笑みかけ、それから後ろのあの子に気づくと、わずかに目を見開いた。
「こんばんは。今日は、お二人なんですね」
「はい。あの……お話ししていた子です」
「こんばんは。連れてきてもらいました」
店主は私たちを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしたか。どうぞ、お好きな席へ」
私はいつもの席に座り、あの子は隣に腰を下ろした。
コートを脱いでいると、あの子がそっと顔を近づけてきた。
「……めっちゃイケメンじゃん」
私が返事をするより先に、カウンターの向こうから声がした。
「ありがとうございます」
店主は水の入ったグラスを二つ持って、こちらへ来るところだった。
「げ……聞こえてた」
苦笑いするあの子を見て、私はこらえきれずに笑ってしまった。
「笑いすぎ」
「すみません。でも……」
「聞こえなかったふりをしたほうがよかったでしょうか」
「今からでも、そうしてもらえます?」
「では、次からは」
店主が真面目な顔で答えたので、今度はあの子も笑った。
その様子を見ていた店主が、柔らかく目を細めた。
「すごく成長しましたね」
「私ですか?」
「ええ。表情も明るくなりましたし、こうして自分から誰かを誘って、連れてきてくれたんですから」
嬉しかったけれど、隣にあの子がいるせいで、少し照れくさかった。
「でも、誘うときは、途中でやめようとしてしまいました」
「そうそう。今度、って言ってから、何でもありませんって」
「まだ、早いかもしれないと思ったので」
店主が小さく笑った。
「それでも、今日は二人でここにいる。それは、前にはなかったことですね」
隣を見ると、あの子が頷いた。
「誘ってくれて、よかったよ」
私はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
「……本当ですか?」
「来たくなかったら来てないって」
あの子が笑って、私も笑った。
「今日は、お二人にシャーリーテンプルをお作りしてもいいですか?」
店主が尋ねた。
「ジンジャーエールに、グレナデンという赤いシロップを合わせます。お酒は使いません。炭酸は大丈夫ですか?」
二人とも頷くと、店主は背の高いグラスを並べた。
「今日は、制服ではないんですね」
「一度帰って、着替えてきました。この子が、誤解されるかもしれないって言ってくれたので」
「学校の人に見られても、説明が面倒ですし」
「よく気がつきましたね」
氷とシロップの入ったグラスに、ジンジャーエールが注がれた。細かな泡が浮かび上がるのを、二人で眺めた。
店主は静かに混ぜてレモンを添えると、私たちの前に置いた。
「シャーリーテンプルには、『用心深い』というカクテル言葉があるといわれています」
「あ、この子にぴったり」
あの子が私を見ると、店主は微笑んだ。
「着替えようと提案したあなたにも、当てはまると思いますよ。慎重になるところが、お二人で違うのかもしれませんね」
あの子は少し意外そうな顔をした。
「それと、これからも気をつけて、という気持ちを込めて、今日はこれを選ばせていただきました。楽しく過ごしているときにも、帰る時間や、無理をしていないかは、ときどき確かめてくださいね」
「はい。今日は家も近いとわかったので、一緒に帰ります」
「それなら安心です」
あの子がグラスを持ち上げた。
「じゃあ、二人で来られたことに」
「はい。乾杯」
そっと触れ合わせると、小さな音がした。
甘さのあとに、ジンジャーエールの刺激が広がった。
「おいしい」
「はい」
同じタイミングでそう言えたことが、嬉しかった。
私たちを見ていた店主が、ふと思いついたように口を開いた。
「少し気になったのですが、君は誰にでも敬語なんですね」
こちらへ向けられた視線に、私は顔を上げた。
「そう! それ、ずっと思ってた!」
隣から声がして、今度はそちらを見る。
「もう友達なんだから、普通でいいじゃん。それとも、嫌?」
友達、という言葉が胸に残った。
「嫌ではありません。むしろ、嬉しいです」
「ほら、また敬語」
「これは、その……癖みたいなものなので」
家族以外には、いつの間にかこう話すようになっていた。急に変えようとすると、どんな言葉を選べばいいのかわからなくなる。
「じゃあ、今ちょっと普通に話してみて」
「今ですか?」
「今」
私はグラスを見てから、あの子を見た。
「……一緒に来てくれて、ありがとう」
言い終わると、頬が熱くなった。
あの子は一瞬黙って、それから笑った。
「うん。どういたしまして」
店主も微笑んでいた。
「いきなり全部変えなくても、少しずつでいいでしょうね」
「はい」
「僕には、そのままで構いませんよ」
私は小さく頷いた。隣であの子が楽しそうに笑っている。
「では、僕からも一つ伺っていいですか」
「何ですか?」
「お二人のお名前を、教えていただいても?」
あの子が勢いよく私を見た。
「え? まだこの子の名前、知らなかったんですか!」
「ええ。あなたとか、君と呼んでいましたから。それに、教えたくないのかもしれないと思って」
私は肩を縮めた。
隠していたわけではなかった。ただ、話を聞いてもらうことばかり考えていて、名乗るきっかけを逃していた。
「いやいやいや。それだけ相談に乗ってもらっておいて、教えてないのは逆に失礼でしょ!」
「すみません。私も、言ったつもりになっていて……」
慌てて背筋を伸ばした。
「水瀬琴葉です。琴の葉と書いて、琴葉です」
「琴葉さんですね」
初めて店主に名前を呼ばれると、少しくすぐったかった。
あの子も座り直した。
「私は相沢莉央です。よろしくお願いします」
「琴葉さんに、莉央さん。こちらこそ、よろしくお願いします」
店主は私たちを見て、丁寧に頷いた。
「何か、今さら自己紹介って面白いね」
「そうですね」
「また敬語」
「……そうだね」
言い直すと、莉央が満足そうに笑った。
しばらく学校の話をした。
莉央は先生の口癖を真似して、私を笑わせた。店主も時々質問を挟みながら、聞いてくれた。
話が途切れたところで、莉央がグラスに口をつけた。
そのまま少し黙っていたので、私は隣を見た。
莉央は、浮かんでは消える泡を見つめていた。
「さっきの、無理をしていないかって話なんですけど」
店主が顔を上げた。
「はい」
「自分でも、よくわからないときって、ありませんか?」
さっきまでとは、少し違う声だった。
店主は手にしていた布巾を置いた。
「どんなときでしょう」
莉央はグラスをカウンターに戻した。
「私、よく言われるんです。あんたは平気そうだよね、とか、一人でも大丈夫でしょ、とか」
私は莉央の横顔を見た。
「言いたいことは言うし、あまり泣いたりもしないから、そう見えるんだと思います。でも、別に何も気にしていないわけじゃなくて」
莉央は少し笑った。いつもの笑い方に似ていたけれど、すぐに消えた。
「嫌なことを言われたら、私だって傷つきます。でも、その場では言い返しちゃうから、誰もそうは思わないみたいで」
「傷ついたことは、伝えられますか?」
莉央は首を横に振った。
「今さら言うのも、変な気がして。平気そうにしていたのは自分だし、そんなことでって思われるかもしれないし」
私は、自分が言おうとしてやめた言葉を思い出した。
莉央は、言いたいことを何でも言える人だと思っていた。
けれど今、隣で言葉を選んでいる姿は、私がよく知っているものだった。
「この子にも、言い方が怖かったって言われたんです」
莉央が私を見た。
「そんなつもりはなかったけど、嫌な言い方をしたのは本当だから。さっきも、また強く言っちゃったし」
私は首を横に振りかけて、やめた。今は、最後まで聞きたかった。
莉央は視線を店主へ戻した。
「優しく言おうとは思うんです。でも、自分が傷ついたことを話そうとすると、怒ったような言い方になってしまって」
カウンターの上で、指がゆっくり握られた。
「どうしたら、怒ってるんじゃなくて、悲しかったんだって伝えられるんでしょうか」




