第八話 言いかけた言葉
翌日の昼休み、あの子が椅子を持ってくるのを見て、私は机の上の教科書を片づけた。
「今日も、ここでいい?」
「はい」
机を寄せてお弁当を広げる。その流れが、昨日より少し自然になっていた。
私はお弁当の包みをほどきながら、あの子の顔を見た。
「昨日、BARを見つけられました」
「あ、本当に行ったんだ」
「はい。学校が終わってから、もう一度探してみたんです。そうしたら、普通にありました」
あの子は笑った。
「よかったじゃん。やっぱり、道を間違えたんじゃない?」
「そうかもしれません。どうして見つからなかったのか、不思議なくらいでした」
「消える店じゃなくて、残念だった?」
「少しだけ」
正直に答えると、あの子が声を立てて笑った。
「そこは残念なんだ」
「でも、また行けてよかったです。店主さんにも、お話しできました」
「何を?」
「学校で、話せるようになった子がいるって」
あの子は箸を持つ手を止めた。
「……私のこと?」
「はい」
答えてから、勝手に話してしまってよかったのだろうかと、少し心配になった。
けれど、あの子は怒らなかった。
「そんな報告までしてるんだ」
少し照れたようにお弁当へ視線を戻したので、私もそれ以上は言わずに箸を取った。
昨日飲んだシンデレラのことも話したかったけれど、カクテルという言葉だけでは誤解されるかもしれない。そう考えて、果物のジュースを混ぜた飲み物を作ってもらったと説明した。
「何それ、おいしそう」
「おいしかったです。オレンジと、パイナップルと、レモンが入っていて」
「結構、酸っぱそうだね」
「酸っぱさもありましたけど、甘い香りがして、飲みやすかったです」
「へえ。ちゃんとしたグラスに入ってるやつ?」
「はい。細い脚がついていて、少し緊張しました」
「落としそうだから?」
「それもあります」
あの子がまた笑った。
その顔を見ているうちに、言葉が浮かんだ。
今度、一緒に行きませんか。
あのカウンターに並んで座って、同じようにグラスを持っているところを想像した。店主にあの子を紹介できたら、きっと喜んでくれる。
「よかったら、今度……」
そこまで言って、口を閉じた。
まだ、一緒にお昼を食べ始めて数日しかたっていない。
学校で話すのと、放課後に一緒に出かけるのは違う。お昼を食べてくれるからといって、そこまで仲良くなったつもりでいるのは、私だけかもしれなかった。
「今度、何?」
あの子が顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
私はお弁当に目を落とし、卵焼きを箸でつまんだ。
そのまま別の話に移ろうと思った。
けれど、あの子は黙っていた。
「……何でもないってこと、ないでしょ」
声の調子が変わったことに気づいて、私は箸を止めた。
「あんたの、そういうところが嫌なの」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
顔を上げると、あの子は眉を寄せていた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」
やっぱり、気まずくなってしまった。
そう思いかけて、私はあの子の言葉をもう一度、頭の中で繰り返した。
言いたいことがあるなら、はっきり言って。
話しかけてほしくないと言われたわけではなかった。むしろ、さっきまで言おうとしていたことを、聞こうとしてくれている。
「……途中でやめるのが、嫌なんですか?」
恐る恐る尋ねると、あの子は小さく息をついた。
「気になるじゃん。こっちの顔を見て、やっぱりやめたってされると、何か変な反応したかなって思うし」
「そんなつもりでは……」
「うん。でも、何でもないって言われたら、こっちもそれ以上聞けないでしょ」
私は、箸でつまんでいた卵焼きを戻した。
そうだったのか。
私は、言わないことで何も起こらずに済むと思っていた。断られることもないし、相手を困らせることもない。
でも、言いかけた言葉は、なかったことにはならないらしい。
私が引っ込めたあとも、あの子はその続きを考えていたのだ。
「今までも、そう思っていたんですか?」
「思うことはあったよ。話しかけたそうにしてるのに、目が合ったら逸らしたりするし。何なの、とは思ってた」
そんなふうに見えていたとは知らなかった。
私は嫌われたくなくて、相手の顔を見ていた。けれど、あの子には、その視線の意味がわからなかった。
同じ教室にいて、何度も顔を合わせていたのに、お互いに違うことを考えていた。
「……嫌なことを言われたら、どうしようと思っていました」
あの子が私を見た。
言ってから、また引っ込めたくなった。でも、今度はそのまま続けた。
「さっきも、誘っていいのかわからなくなって」
あの子は少し黙ったあと、箸を置いた。
「誘うって、何に?」
私は膝の上で片手を握った。
昨日、店主に言ったばかりだった。
少しずつ、話してみます、と。
「あのBARに、今度、一緒に行きませんか?」
言い終わると、思っていたより短い言葉だった。
あの子は私を見ていた。それから、呆れたように口元を緩めた。
「言えるじゃん」
私は返事を待ったまま、あの子の顔を見つめた。
「まさか、まだ一緒に遊ぶのは早いとか、しょうもないことでも思ってた?」
苦笑いを浮かべて言われ、何も返せなくなった。
「……思ってました」
あの子が目を丸くした。
「本当に?」
「まだ、お昼を一緒に食べるようになったばかりなので」
「そこ、そんなに気にするんだ」
「気にします」
即答すると、あの子はおかしそうに笑った。
私は少し恥ずかしくなって、グラスもないのに水を飲みたくなった。
「だって、学校で話すのと、一緒に出かけるのは違うじゃないですか」
「まあ、違うけど。誘うだけならよくない? 無理だったら無理って言うし」
「断られたら、次の日から話しにくくなりそうで」
「一回予定が合わなかっただけで?」
「予定が合わないのか、行きたくないのか、わからないので」
あの子はしばらく私を見てから、小さく頷いた。
「ああ……そこまで考えるんだね」
今度は、笑われなかった。
それが少し意外で、私は顔を上げた。
「私は、行きたくなかったらそう言うから」
「それは、それで緊張します」
「じゃあ、どうすればいいの」
あの子が困った顔をして、私も思わず笑った。
「すみません」
「でも、今回は行きたい。気になってたし」
私はあの子を見た。
「本当ですか?」
「今、行きたいって言ったでしょ」
「はい」
嬉しくて、返事が少し大きくなった。
あの子はそれを見て、また苦笑いを浮かべた。
「そんなに?」
「はい。一緒に行けたらいいなと思っていたので」
「だから、最初からそう言えばいいのに」
そう言われて、私も少し笑った。
言えばいい。
あの子には簡単なことでも、私には難しい。けれど、難しいと思っていることまで話せば、少しは伝わるのかもしれない。
「でも、さっきの言い方は、少し怖かったです」
言ってから、息を止めた。
あの子は一瞬きょとんとしたあと、視線を横へ動かした。
「……そういうところが嫌ってやつ?」
「はい。もう、一緒にお昼を食べてくれなくなるのかと思いました」
「そこまでは言ってないよ」
「でも、そう思ってしまいました」
あの子は唇を結んで、それから小さく息を吐いた。
「じゃあ、次はもうちょっと普通に言う」
「ありがとうございます」
少し沈黙があった。
私はお弁当に目を落とした。さっき戻した卵焼きが、そのまま残っている。
それを口へ運ぼうとしたとき、あの子が言った。
「で、いつ行く?」
顔を上げると、あの子はスマートフォンを取り出していた。
「えっと、いつが空いていますか?」
「今週なら、金曜」
「私も大丈夫です」
「じゃあ、金曜ね」
思っていたより簡単に、約束が決まった。
「営業時間、ちゃんと調べておいてよ」
「はい。昨日は一時間も早く着いてしまったので」
「何してるの」
あの子が笑って、私も笑った。
私はスマートフォンの予定表を開いた。金曜日の欄に、BARへ行く、と入力する。
一人で行く予定ではないことが、画面を見ているだけで嬉しかった。
まだ、知らないことはたくさんある。
あの子が私のどんなところを苦手に思っていたのか、どんな言い方なら私が怖がらずに済むのか。今日、ようやく少し話せたところだった。
私は予定を保存して、スマートフォンを机に伏せた。
途中でやめた言葉の続きが、金曜日の約束になっていた。




