↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/13

第七話 話してみなければ

 シンデレラをもう一口飲んでから、私はグラスをカウンターに置いた。


 ここへ来たら、学校であったことを話そうと思っていた。あの子とお昼を食べたことも、笑い合えたことも聞いてもらえた。


 でも、まだ一番伝えたかったことを言えていなかった。


「あの、店主さん」

「はい」


 店主が手を止めて、こちらを見た。


「ありがとうございました」


 改めて口にすると、少し照れくさかった。それでも、今度は目を逸らさずに続けた。


「店主さんのおかげで、あの子と話せるようになりました。あの日、ここでお話を聞いていなかったら、きっと話しかけていなかったと思います」


 店主は少し驚いたように私を見て、それから微笑んだ。


「そう言ってもらえると、僕も嬉しいです。でも、実際に話しかけたのは君ですよ」

「それは、そうですけど」

「怖くはありませんでしたか?」

「……すごく怖かったです」


 お弁当を持って、あの子の机へ向かったときのことを思い出した。


 何よ、と言われた瞬間、引き返したくなった。誘った理由を聞かれても、気の利いたことは何も言えなかった。


「断られたら、どうしようと思っていました。また嫌なことを言われるかもしれないとも」

「それでも、声をかけたんですね」

「はい」

「僕の話がきっかけになったとしても、そこは君がしたことです。僕には、代わりに教室へ行くことはできませんから」


 私は膝の上に置いた手を見た。


 自分が頑張ったと言っていいのだろうか。ただ、お昼に誘っただけなのに。


 けれど、その一言を言うまでに、何度もやめようと思ったことは覚えていた。


「……少しは、頑張れたんでしょうか」

「君が今話してくれたことを聞く限り、僕はそう思います」


 胸の奥が、ゆっくり温かくなった。


 私はグラスに視線を戻した。淡い黄色の飲み物は、さっきより少なくなっていた。


「やっぱり、面と向かって話さないと、わからないですね」

「どんなことがわかりましたか?」

「思っていたより、話しやすい子でした。同じ授業を面倒だと思っていたり、家で同じようなことを言われていたりして」


 思い出すと、口元が緩んだ。


「私だけが嫌だと思っているんじゃなかったんだって、少し安心しました。それに、あの子も私のことを、何を考えているかわからないと思っていたみたいです」

「そうでしたね」

「私は、嫌われていると思っていました。でも、あの子からすると、私のほうも近づきにくかったのかもしれません」


 店主は頷きながら、布巾を畳んだ。


「相手の顔は見えていても、その人から自分がどう見えているかは、なかなかわからないものですね」


 私は、教室で過ごしていた自分を思い浮かべた。


 嫌なことを言われたくなくて、目を合わせないようにしていた。何か話しているのが聞こえても、できるだけ反応しないようにしていた。


 それで自分を守っていたつもりだったけれど、向こうからは、何を考えているかわからない顔に見えていたのだろうか。


「私も、話しかけないでほしいように見えていたのかもしれません」

「そう見えていた可能性はありますね。ただ、それは君が嫌なことを言われて当然だった、という意味ではありませんよ」


 私は顔を上げた。


「君が距離を取ったのには、理由があったんでしょう。今になって相手の見え方を想像できたからといって、過去のことを全部、自分のせいにする必要はありません」


 私はゆっくり頷いた。


 少し仲良くなれた途端、嫌だと思っていた自分のほうが間違っていたような気がしていた。そのことまで見抜かれたようで、グラスの脚に触れた指を止めた。


「不思議です。話す前は、あの子に嫌なことを言われた場面ばかり思い出していたんです。でも、今は笑った顔も思い浮かびます」

「知っている顔が、増えたんですね」

「はい。どちらも同じ子なのに」


 あの子は、先生の宿題の出し方に文句を言いながら、よく笑った。私が意外なことを言うと、目を丸くした。授業に遅れそうになったときには、私より慌てていた。


 そんな顔をすることを、私は知らなかった。


「嫌なことを言う子だって、それだけで考えていたのかもしれません」

「傷ついた経験があると、その場面が強く残ることはあるでしょうね」

「でも、それだけではなかったんですね」

「ええ。今回、君が会って話したことで、それ以外の部分も見えたんでしょう」


 私は少し考えた。


「それなら、もっと早く話せばよかったです」


 店主はすぐには頷かなかった。


「今だから、話せたのかもしれませんよ」

「今だから?」

「君の気持ちも、相手の気分も、毎日同じではありませんから。昨日は、君が勇気を出して、その子も誘いを受けてくれた。その両方があったんだと思います」


 もし、あの日より前に誘っていたら。


 同じようにお弁当を食べて、笑えただろうか。そうなったかもしれないし、断られて、もっと話しかけにくくなっていたかもしれない。


 どちらも、今の私にはわからなかった。


「昨日で、よかったのかもしれませんね」

「少なくとも、昨日話せたことは、よかったですね」


 その言い方に、私は笑った。


「店主さんは、わからないことを、わかったとは言わないんですね」

「言ってしまうこともありますよ。あとから、どうしてあんなに自信があったんだろうと反省します」

「店主さんでも?」

「僕でも」


 店主も笑った。


 私はグラスを持ち上げた。口に含むと、パイナップルの香りのあとに、レモンの酸っぱさが残った。


「これから、もっと仲良くなれるといいんですけど」

「ええ」

「また嫌なことを言われたらと思うと、少し怖いです」


 楽しかったことを話しているのに、そんな心配が口から出た。


 一度笑い合えたからといって、明日も同じとは限らない。今日のことまで、なかったことになってしまったら嫌だった。


「そのときは、嫌だったと伝えられそうですか?」


 店主に尋ねられて、私は少し黙った。


「……まだ、わかりません」

「そうですか」

「せっかく話せるようになったのに、また気まずくなったら嫌です」

「それは、迷いますね」


 簡単に、言えばいいとは言われなかった。


 私は指先でグラスの脚をなぞった。


「でも、何も言わなかったら、あの子にはわからないままなんですよね」

「気づくこともあるでしょうけど、伝えないとわからないことはあると思います」

「面と向かって話すって、楽しく話すだけではないんですね」


 店主は静かに頷いた。


「そうですね。何を面白いと思うかだけでなく、何を嫌だと思うかを知ることも、その人を知ることですから」


 私はあの子に、まだ話していないことがたくさんあった。


 好きなものも、苦手なものも、あのとき傷ついたことも。


 一度に全部話せる気はしなかった。でも、もう何も話さずに決めつけていたころには、戻りたくなかった。


「少しずつ、話してみます」

「ええ。相手の話も聞きながら、少しずつでいいと思います」


 私は頷いて、残っていたシンデレラを飲んだ。


 明日、あの子に会ったら、まずは店が見つかったことを伝えよう。やっぱりあったでしょ、と得意そうな顔をされるかもしれない。


 それから、何を話そう。


 そう考えていると、店主が空になったグラスに目を向けた。


「お口に合いましたか?」

「はい。とてもおいしかったです」


 私はグラスから手を離し、店主を見た。


「それと、やっぱり、お礼は言わせてください」


 店主が少し首を傾げたので、私は続けた。


「話しかけたのは私ですけど、話しかけてみようと思えたのは、ここでお話しできたからです」


 今度は店主も、否定しなかった。


「では、ありがたく受け取ります」


 そう言って微笑んだ顔を見て、私はようやく、伝えたかったことを伝えられた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。