第七話 話してみなければ
シンデレラをもう一口飲んでから、私はグラスをカウンターに置いた。
ここへ来たら、学校であったことを話そうと思っていた。あの子とお昼を食べたことも、笑い合えたことも聞いてもらえた。
でも、まだ一番伝えたかったことを言えていなかった。
「あの、店主さん」
「はい」
店主が手を止めて、こちらを見た。
「ありがとうございました」
改めて口にすると、少し照れくさかった。それでも、今度は目を逸らさずに続けた。
「店主さんのおかげで、あの子と話せるようになりました。あの日、ここでお話を聞いていなかったら、きっと話しかけていなかったと思います」
店主は少し驚いたように私を見て、それから微笑んだ。
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいです。でも、実際に話しかけたのは君ですよ」
「それは、そうですけど」
「怖くはありませんでしたか?」
「……すごく怖かったです」
お弁当を持って、あの子の机へ向かったときのことを思い出した。
何よ、と言われた瞬間、引き返したくなった。誘った理由を聞かれても、気の利いたことは何も言えなかった。
「断られたら、どうしようと思っていました。また嫌なことを言われるかもしれないとも」
「それでも、声をかけたんですね」
「はい」
「僕の話がきっかけになったとしても、そこは君がしたことです。僕には、代わりに教室へ行くことはできませんから」
私は膝の上に置いた手を見た。
自分が頑張ったと言っていいのだろうか。ただ、お昼に誘っただけなのに。
けれど、その一言を言うまでに、何度もやめようと思ったことは覚えていた。
「……少しは、頑張れたんでしょうか」
「君が今話してくれたことを聞く限り、僕はそう思います」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
私はグラスに視線を戻した。淡い黄色の飲み物は、さっきより少なくなっていた。
「やっぱり、面と向かって話さないと、わからないですね」
「どんなことがわかりましたか?」
「思っていたより、話しやすい子でした。同じ授業を面倒だと思っていたり、家で同じようなことを言われていたりして」
思い出すと、口元が緩んだ。
「私だけが嫌だと思っているんじゃなかったんだって、少し安心しました。それに、あの子も私のことを、何を考えているかわからないと思っていたみたいです」
「そうでしたね」
「私は、嫌われていると思っていました。でも、あの子からすると、私のほうも近づきにくかったのかもしれません」
店主は頷きながら、布巾を畳んだ。
「相手の顔は見えていても、その人から自分がどう見えているかは、なかなかわからないものですね」
私は、教室で過ごしていた自分を思い浮かべた。
嫌なことを言われたくなくて、目を合わせないようにしていた。何か話しているのが聞こえても、できるだけ反応しないようにしていた。
それで自分を守っていたつもりだったけれど、向こうからは、何を考えているかわからない顔に見えていたのだろうか。
「私も、話しかけないでほしいように見えていたのかもしれません」
「そう見えていた可能性はありますね。ただ、それは君が嫌なことを言われて当然だった、という意味ではありませんよ」
私は顔を上げた。
「君が距離を取ったのには、理由があったんでしょう。今になって相手の見え方を想像できたからといって、過去のことを全部、自分のせいにする必要はありません」
私はゆっくり頷いた。
少し仲良くなれた途端、嫌だと思っていた自分のほうが間違っていたような気がしていた。そのことまで見抜かれたようで、グラスの脚に触れた指を止めた。
「不思議です。話す前は、あの子に嫌なことを言われた場面ばかり思い出していたんです。でも、今は笑った顔も思い浮かびます」
「知っている顔が、増えたんですね」
「はい。どちらも同じ子なのに」
あの子は、先生の宿題の出し方に文句を言いながら、よく笑った。私が意外なことを言うと、目を丸くした。授業に遅れそうになったときには、私より慌てていた。
そんな顔をすることを、私は知らなかった。
「嫌なことを言う子だって、それだけで考えていたのかもしれません」
「傷ついた経験があると、その場面が強く残ることはあるでしょうね」
「でも、それだけではなかったんですね」
「ええ。今回、君が会って話したことで、それ以外の部分も見えたんでしょう」
私は少し考えた。
「それなら、もっと早く話せばよかったです」
店主はすぐには頷かなかった。
「今だから、話せたのかもしれませんよ」
「今だから?」
「君の気持ちも、相手の気分も、毎日同じではありませんから。昨日は、君が勇気を出して、その子も誘いを受けてくれた。その両方があったんだと思います」
もし、あの日より前に誘っていたら。
同じようにお弁当を食べて、笑えただろうか。そうなったかもしれないし、断られて、もっと話しかけにくくなっていたかもしれない。
どちらも、今の私にはわからなかった。
「昨日で、よかったのかもしれませんね」
「少なくとも、昨日話せたことは、よかったですね」
その言い方に、私は笑った。
「店主さんは、わからないことを、わかったとは言わないんですね」
「言ってしまうこともありますよ。あとから、どうしてあんなに自信があったんだろうと反省します」
「店主さんでも?」
「僕でも」
店主も笑った。
私はグラスを持ち上げた。口に含むと、パイナップルの香りのあとに、レモンの酸っぱさが残った。
「これから、もっと仲良くなれるといいんですけど」
「ええ」
「また嫌なことを言われたらと思うと、少し怖いです」
楽しかったことを話しているのに、そんな心配が口から出た。
一度笑い合えたからといって、明日も同じとは限らない。今日のことまで、なかったことになってしまったら嫌だった。
「そのときは、嫌だったと伝えられそうですか?」
店主に尋ねられて、私は少し黙った。
「……まだ、わかりません」
「そうですか」
「せっかく話せるようになったのに、また気まずくなったら嫌です」
「それは、迷いますね」
簡単に、言えばいいとは言われなかった。
私は指先でグラスの脚をなぞった。
「でも、何も言わなかったら、あの子にはわからないままなんですよね」
「気づくこともあるでしょうけど、伝えないとわからないことはあると思います」
「面と向かって話すって、楽しく話すだけではないんですね」
店主は静かに頷いた。
「そうですね。何を面白いと思うかだけでなく、何を嫌だと思うかを知ることも、その人を知ることですから」
私はあの子に、まだ話していないことがたくさんあった。
好きなものも、苦手なものも、あのとき傷ついたことも。
一度に全部話せる気はしなかった。でも、もう何も話さずに決めつけていたころには、戻りたくなかった。
「少しずつ、話してみます」
「ええ。相手の話も聞きながら、少しずつでいいと思います」
私は頷いて、残っていたシンデレラを飲んだ。
明日、あの子に会ったら、まずは店が見つかったことを伝えよう。やっぱりあったでしょ、と得意そうな顔をされるかもしれない。
それから、何を話そう。
そう考えていると、店主が空になったグラスに目を向けた。
「お口に合いましたか?」
「はい。とてもおいしかったです」
私はグラスから手を離し、店主を見た。
「それと、やっぱり、お礼は言わせてください」
店主が少し首を傾げたので、私は続けた。
「話しかけたのは私ですけど、話しかけてみようと思えたのは、ここでお話しできたからです」
今度は店主も、否定しなかった。
「では、ありがたく受け取ります」
そう言って微笑んだ顔を見て、私はようやく、伝えたかったことを伝えられた気がした。




