第六話 夢見る少女
次の日の昼休み、私はあの子と机を寄せてお弁当を食べていた。
今日は向こうから、「ここ、座っていい?」と聞いてくれた。それだけのことが嬉しくて、返事をするときに少し声が弾んでしまった。
「そういえば、聞いてもらいたいことがあるんです」
「何?」
「この前、BARに行ったんですけど」
「待って。いきなり何してるの」
あの子が箸を止めたので、私は慌てて首を振った。
「お酒は飲んでいません。ホットミルクをいただいただけです」
「ああ、そういうこと。びっくりした」
「そこで店主さんと、いろいろお話をしたんです。でも、お店を出てから振り返ったら、さっきまであったはずのお店が見当たらなくて」
あの子は私を見たまま、少し黙った。
「……そんなこと、あるわけないでしょ」
「私も、そう思ったんです」
「道、間違えたんじゃない?」
「隣の路地も見たんですけど、見つからなかったんです」
「夢だったとか」
「ちゃんとお会計もしました」
「夢の中でも、お会計くらいするんじゃない?」
そう言われると、うまく言い返せなかった。
私は店の中の様子を話した。カウンターの木目や、棚に並んだ瓶、店主がカップを拭きながら話を聞いてくれたこと。
最初は食べながら聞いていたあの子も、次第に箸を置く時間が長くなった。
「嘘ついてる感じは、しないんだよね」
「ついていません」
「うん。あんた、そういうの苦手そうだし」
それが褒め言葉なのかはわからなかった。
「それで、その店主とは何を話したの?」
私は少し迷った。あの子に言われた言葉のことまで、そのまま話す勇気はなかった。
「自分のことは、自分が一番わからないとか。人間には善いところも悪いところもあって、その混ざり方が一人ひとり違うとか」
「何それ。人生相談?」
「そうだったのかもしれません。人間はカクテルみたいなものだと、おっしゃっていました」
「カクテル?」
「甘さや苦さの種類も、濃さも、人によって違うそうです」
あの子は少し考えて、自分のお弁当に目を落とした。
「じゃあ、私は結構苦そう」
「自分では、わからないそうですよ」
「そこは否定してよ」
顔を上げると、あの子は笑っていた。
「でも、ちょっと面白いね。その店主」
「はい。私も、またお話ししたいんです」
「だったら、もう一回行ってみたら?」
「でも、見つからなくて」
「帰るとき、急いでたんじゃない? 暗かったなら、何か見間違えたのかもしれないし。一回見つからなかっただけで、なくなったって決めなくてもいいでしょ」
私は顔を上げた。
疲れているときにしか見つけられない店なのかもしれない。そんなふうに考えて、もう一度探しに行くことを、いつの間にか諦めていた。
「……そうですね」
「うん。あったら教えて。ちょっと気になる」
「はい」
放課後にすることが、一つ決まった。
大通りに着いたときには、まだ空に明るさが残っていた。
私は歩く速度を落とし、建物を一つずつ確かめた。あの夜、信号を待った場所。その少し手前の路地。
立ち止まって奥を覗くと、見覚えのある看板があった。
「あ……」
思わず声が漏れた。
路地に入り、店の前まで歩いた。扉も、看板も、記憶のままだった。どうしてこれを見つけられなかったのだろうと思うほど、普通にそこにあった。
やっぱり、たまたま見つけられなかっただけだったのだ。
安心すると同時に、不思議な店だと本気で考えていたことが、少し恥ずかしくなった。
取っ手に手をかけたけれど、扉は開かなかった。
そこで初めて、営業時間の表示に気づいた。スマートフォンの時計と見比べると、開店まで一時間ほどあった。
「早すぎました……」
一度帰ろうか。それとも、どこかで時間を潰そうか。
迷いながら扉から離れたとき、背後で声がした。
「おや。こんにちは」
振り返ると、紙袋を抱えた店主が立っていた。
「こんにちは」
「また来てくれたんですね」
「はい。でも、営業時間を見ていなくて。すみません、また出直します」
店主はポケットから鍵を取り出した。
「まだ何も準備はできていませんが、寒いですし、よかったらどうぞ」
「いいんですか?」
「少しお待たせしてしまいますけど、それでもよければ」
「ありがとうございます」
開けてもらった扉をくぐると、木の匂いがした。
店内は、前に来たときより薄暗かった。店主が明かりをつけると、カウンターや棚の瓶が浮かび上がった。
私は前と同じ椅子に座った。
「準備をしてしまいますので、少し待っていてくださいね」
「はい。私のことは気にしないでください」
店主は紙袋から果物を取り出し、冷蔵庫にしまった。それから手を洗い、カウンターを拭き、道具を並べていく。
まだ音楽の流れていない店では、水の音や、グラスの触れ合う音がよく聞こえた。
こうやって店が始まるのだと思った。
前に来たときには、明かりも席も、すべて用意されていた。その場所を整えている店主を眺めながら、私は学校であったことをどう話そうか考えていた。
「お待たせしました」
静かな音楽が流れ始めたころ、店主が私の前に水の入ったグラスを置いた。
「少し早いですが、ご注文を伺いましょうか」
「では……」
ホットミルク、と言いかけたところで、店主が微笑んだ。
「せっかくなので、今日はカクテルを飲んでみませんか?」
私は目を瞬かせた。
「あの、私、まだ高校生なので」
「心配いりませんよ。ノンアルコールカクテルです」
「でも、ノンアルコールでも、少しだけアルコールが入っていることがあると聞いたことがあるんですけど」
店主は頷いた。
「確かに、酒税法ではアルコール分が一%未満の飲み物は、酒類には当たりません。ただ、それは『ノンアルコール』という言葉の定義とは、分けて考える必要がありますね」
そう言って、冷蔵庫からジュースを取り出した。
「今から作るのはジュースだけです。アルコールは入れませんから、安心してください」
「そういうカクテルもあるんですね」
「ええ。お酒を使わなくても、材料を組み合わせて、香りや味わいを楽しめるんです」
「それなら、飲んでみたいです」
私が答えると、店主は少し声を落とした。
「ただ、『BARでカクテルを飲んだ』とだけ言うと、誤解を招きかねませんから。なるべく周りには言わないように」
店主は人差し指をそっと口元に当て、片目をつむった。
内緒ですよ、と言うような仕草が、それまでの落ち着いた様子に似合わなくて、私は思わず笑ってしまった。
「何だか、悪いことをしているみたいです」
「ジュースを混ぜるだけなんですけどね」
「話すときは、ジュースだったと、ちゃんと説明します」
「ええ。それなら安心です」
店主も笑って、細い脚のついたグラスを取り出した。
「苦手な果物はありますか?」
「特にはありません」
「では、今日は僕に選ばせてもらっても?」
「はい。お願いします」
店主はグラスを用意しながら、私を見た。
「今日は、何かいいことがありましたか?」
「わかるんですか?」
「前に来たときより、表情が明るく見えたので。何か話したそうにも見えました」
私は思わず頬に手を当てた。
「……ありました」
口にすると、また嬉しくなった。
「あのときお話しした子に、昨日、話しかけてみたんです。一緒にお昼を食べませんかって」
「そうでしたか」
「最初は嫌そうな顔をされたんですけど、一緒に食べてくれて。それで、話してみたら、意外と盛り上がったんです」
数学の宿題のこと。お互いに愚痴を言い合っていたら、五時間目に遅れそうになったこと。
帰りに、少し理解できたかもしれないと言ってもらえたこと。
店主は時々頷きながら、聞いてくれた。
「今日は、向こうから来てくれたんです」
「それは嬉しいですね」
「はい。それで、このお店の話もしたら、もう一度行ってみたら?って言ってくれて」
「もう一度?」
「この前、帰るときに振り返ったら、お店が見つからなかったんです。でも、今日はちゃんとありました。きっと、道を間違えたんですね」
店主は私の顔を見て、柔らかく笑った。
「また見つけてもらえて、よかったです」
そう言って、銀色のシェイカーに氷とジュースを入れた。
蓋を閉め、両手で持ち上げる。軽快な音が響いて、私は思わず見入った。
やがて、淡い黄色の液体がグラスに注がれた。
「シンデレラです」
目の前に置かれた一杯を、私は覗き込んだ。
「お姫様の?」
「ええ。オレンジ、パイナップル、レモンのジュースで作っています」
細い脚をそっと持ち、一口飲んだ。果物の甘い香りが広がったあと、爽やかな酸味が舌に残った。
「おいしいです」
「よかった」
店主は微笑んだ。
「カクテルにも、花言葉のような言葉が添えられることがあるんです。シンデレラは、『夢見る少女』といわれています」
「夢見る少女……」
私はもう一度、グラスを見た。
「私に、ですか?」
「はい。今日の君は、これからのことを楽しみにしているように見えたので」
夢と言われるほど、大きなことは考えていなかった。
ただ、明日も一緒にお昼を食べられたらいいと思っていた。今日話しきれなかったことを、また話せたらいい。それくらいのことだった。
でも、少し前の私は、明日が来るのを楽しみにしていなかった。
「……明日も、あの子と話したいです」
店主は頷いた。
「良いですね」
グラスの中の黄色が、明かりを受けて明るく見えた。
私はもう一口飲んだ。さっきと同じ甘さと酸っぱさがしたけれど、今度は少しゆっくり味わえた。




