第五話 少しだけ、違う明日
グラスに残っていた水を飲み干すと、私は壁の時計を見上げた。思っていたよりも、長く話していたらしい。
「そろそろ、帰ります」
店主は頷いた。
「気をつけて帰ってくださいね」
私は鞄から財布を取り出した。
「ホットミルク、おいくらですか?」
告げられた金額をトレーに置く。店主がお釣りを用意している間、私は自分が座っていた場所を眺めた。
空になったグラスと、木目の浮かぶカウンター。ここへ来たときには、こんなに長く誰かと話すつもりなんてなかった。
「ごちそうさまでした。それと、お話も聞いてくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ。僕も、いろいろ考えさせてもらいました」
「店主さんも、ですか?」
「ええ。一人で考えていると、同じところを回ってしまうことがありますから」
私はお釣りを財布にしまい、椅子から下りた。
「また、来てもいいですか?」
「もちろんです」
その返事に安心して、扉へ向かった。取っ手に手をかけたところで振り返ると、店主はカウンターの向こうに立っていた。
「おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
扉を開けると、夜の空気が頬に触れた。
路地は静かだった。店から漏れた明かりが足元を照らしていて、少し先には大通りの白い光が見えた。
歩きながら、店主の言葉を思い返した。
誰かに善いところがあることと、自分が傷ついたことは、両方あっていい。
言われたことを忘れなくてもいいし、無理に好きになる必要もない。その言葉が、胸の奥に残っていた。
大通りへ出ると、車の走る音が急に近くなった。信号を待つ人や、買い物袋を下げた人が行き交っている。さっきまでの静けさが、もう遠い場所のことのようだった。
また来るなら、曲がる場所を覚えておかないと。
そう思って、私は振り返った。
けれど、路地の奥にあったはずの明かりが見えなかった。
数歩戻り、暗がりを覗き込む。店の看板も、あの扉も見当たらない。あるのは建物の壁と、その脇に並んだ室外機だけだった。
「……ここ、でしたよね」
誰にともなく呟いた。
曲がる道を間違えたのだろうか。隣の路地ものぞいてみたけれど、どこにもBARらしい店はなかった。
ほんの少し前まで、確かにそこにいた。ホットミルクを飲んで、水を飲んで、店主と話をした。お会計まで済ませたのに。
私は財布を開いた。さっき受け取った小銭が入っている。それがあの店のお釣りだと、誰かに証明できるわけではなかったけれど、夢だったとは思えなかった。
もう一度だけ路地を見た。
もしかしたら、本当に疲れているときにしか、見つけられないBARなのかもしれない。
普段なら、そんなことは考えなかったと思う。でも、そのときは不思議と、そういう店があってもいい気がした。
私は財布をしまった。
店が見つからなくなっても、話したことまで消えたわけではない。
大通りに戻り、家へ向かって歩き出した。
次の日の昼休み、私は鞄の中のお弁当を見つめていた。
教室では椅子を動かす音がして、何人かが机を寄せ合っている。
あの子は、窓際の席にいた。机にお弁当の包みを置いて、スマートフォンを見ている。
昨日までなら、わざわざ近づこうとは思わなかった。今日も、目が合いそうになるだけで緊張した。
話しかけたところで、また嫌なことを言われるかもしれない。
そう思うと、座ったままでいたくなった。
それでも私は、お弁当を持って立ち上がった。あの子にも善いところがあると確かめたいのか、自分が少し変われるか試したいのか、うまく説明できなかった。
ただ、嫌なことを言ってくるあの子の姿しか、私は知らないのだと思った。
机のそばまで行くと、あの子が顔を上げた。
「……何よ」
眉が寄った。その顔を見た瞬間、やっぱりやめればよかったと思った。
「あの」
お弁当を持つ手に力が入る。
「一緒に、お昼食べませんか?」
あの子は私を見たあと、手元のお弁当に視線を落とした。
「なんで?」
「今日は、少し話してみたくて」
自分でも頼りない答えだと思った。沈黙が長く感じられて、断られたときに何と言おうか考え始めたころ、あの子はスマートフォンを伏せた。
「……別に、いいけど」
渋々という様子だったけれど、私は頷いた。
「ありがとうございます」
近くの空いた椅子を借りて、机の横に置いた。
お弁当を開けてからも、しばらく会話は続かなかった。卵焼きを食べ、何か話さないとと思い、ご飯を口に運んでいるうちに、ますます話し始めるきっかけがわからなくなった。
「今日の数学、さ」
先に口を開いたのは、あの子だった。
「宿題、多すぎない?」
私は箸を止めた。
「多いと思いました」
「だよね。授業で終わらなかった分、全部こっちに回された感じ」
「最後の問題は、まだ説明もされていませんでしたよね」
「そう。それなのに、ここまでやってこいって」
思わず頷くと、あの子は少し身を乗り出した。
「しかも、昨日は少なめにするって言ってたのに」
「先生の少なめって、いつも信用できないです」
言ってから、少し驚いた。こんなことをこの子の前で言うつもりはなかった。
あの子も意外そうな顔をして、それから笑った。
「あんたも、そういうこと言うんだ」
「思ってはいます」
「いつも何も気にしてなさそうな顔してるのに」
「そんなことないです。気にしても、言えないだけで」
「ふうん」
その声は、さっきより柔らかかった。
数学の宿題から、長い朝礼の話になった。短く話しますと言った先生ほど長く話すことや、班分けのたびに感じる面倒くささ、家で勉強しようとした瞬間に勉強しなさいと言われること。
「今やろうと思ってたのにって、なりますよね」
「なる。あれで一回やる気なくす」
「それを言うと、言い訳だって言われます」
「うちも同じ!」
あの子が笑って、私も笑った。
話してみると、同じことに腹を立てていて、同じところを面倒だと思っていた。あの子の愚痴に驚くこともあったし、私が話すと、そんなこと気にしてたの、と笑われることもあった。
嫌な感じはしなかった。
お弁当を食べ終わっても話が途切れず、教室の人が少なくなっていることにも気づかなかった。
「あれ、次って何だっけ」
「理科です」
「移動じゃん」
二人で時計を見上げた。
「あと二分しかないです」
「ちょっと、早く言ってよ」
「私も今、気づきました」
慌ててお弁当を片づけ、教科書を取りに戻った。廊下へ出ると、隣を歩くあの子が、笑いをこらえるように口元を押さえた。
「愚痴言って遅刻とか、最悪なんだけど」
「まだ間に合います」
そう答えた私も、少し笑っていた。
放課後、靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「ねえ」
振り向くと、あの子がいた。
昼休みは話せたけれど、もういつもの顔に戻っているかもしれない。そんな心配が一瞬浮かんだ。
あの子は靴を履きながら、私をちらりと見た。
「今日、ちょっと意外だった」
「何がですか?」
「あんた、もっとおとなしくて、何考えてるかわかんない感じだったから」
私は返事に迷った。
「でも、あんたのこと、ちょっと理解できたかも」
そう言って、あの子は少し笑った。
私はその顔を見ていた。何か返したかったのに、すぐには言葉が出てこなかった。
「……私もです」
ようやくそう言うと、あの子は鞄を肩にかけた。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
あの子が校門のほうへ歩いていく。
言われて傷ついたことが、なくなったわけではない。今日一緒にお昼を食べたからといって、急に何でも話せるようになったわけでもなかった。
それでも、明日あの子に会うのが、昨日ほど怖くなかった。
私は靴箱の扉を閉めた。
また明日。
さっきの言葉を心の中でもう一度繰り返すと、口元が少し緩んだ。
幸せだと思ったのは、久しぶりかもしれない。
店主に話したいことができた。
そう思ってから、あのBARへ続く道が見つからなかったことを思い出した。
残念だったけれど、今日のところは、このまま家に帰ろうと思った。




