第四話 心のカクテル
店主の話が途切れると、店の奥から時計の針が進む音が聞こえた。私は水の入ったグラスに手を添えたまま、さっきまでの言葉を思い返していた。
自分のことは、自分が一番わからない。
だから周りの人に聞いてみるといいけれど、一人の意見を鵜呑みにしてはいけない。人によって見えている自分が違うのなら、本当の私はどこにいるのだろう。
「店主さんは、性善説とか性悪説って、本当にあると思いますか?」
店主は拭いていたカップから顔を上げた。
「人間は、生まれつき善いのか悪いのか、という話ですか?」
「はい。人間の本性というものがあるなら、どちらだと思いますか?」
店主はカップを棚に戻した。
「どちらも、人間の中にありますよ」
迷いのない答えだった。
「両方ですか?」
「ええ。人間は、正義も悪も、どちらも備えています。誰かを助けたいと思うこともあれば、誰かを傷つけたいと思うこともある。ただ、その濃度や種類が、一人ひとり違うんです」
「濃度や種類……」
「カクテルみたいなものですね」
店主は背後の棚を見た。色の違うシロップの瓶が、照明を受けて並んでいた。
「甘いものも、苦いものも、混ざり方で味が変わります。同じ材料を使っても、分量が違えば別の味になるでしょう」
「私、まだお酒は飲めないんですけど」
「たとえ話ですから、今日は水で付き合ってください」
店主が笑ったので、私も少しだけ笑った。
「もちろん、昔の性善説と性悪説は、単にいい人と悪い人を分ける話ではありません。学ぶことや、人がどう育つかまで考えたものです。今のは、それとは少し違う、僕自身の人間の見方ですね」
私はグラスに目を落とした。透き通った水の向こうで、カウンターの木目が歪んで見えた。
「でも、本当に優しい人っていますよね。そういう人の中にも、悪があるんでしょうか?」
「僕は、あると思います」
「そんなふうには見えなくても?」
「見せないだけかもしれませんし、何かを思っても、行動には移さない人なのかもしれません」
いつも笑っているクラスメイトの顔が浮かんだ。頼まれればノートを貸して、一人でいる子にも自然に声をかける。あの子が誰かの不幸を願っているところなんて、想像できなかった。
「優しい人は、悪いことを考えない人だと思っていました」
「考えたうえで、しないことを選んでいる場合もあるでしょうね」
「では、悪いことを考えても、優しい人でいられるんですか?」
「心に浮かんだことだけで、その人のすべてが決まるとは思いません。腹が立っても相手の話を聞こうとする人もいれば、笑顔のまま相手を傷つける人もいますから」
私はグラスの表面についた水滴を、指先でなぞった。
「誰かを嫌いになるのも、悪いことなんでしょうか?」
「嫌いになること自体を、悪いとは思いませんよ。傷つけられた相手から離れるために、必要な気持ちかもしれません」
「それなら、相手が嫌な目に遭って、嬉しいと思うのはどうですか?」
店主はすぐには答えなかった。その沈黙が気になって、私は言葉を足した。
「私、嫌いな子が先生に怒られているのを見て、嬉しくなったことがあるんです」
口にすると、胸の奥に小さな引っかかりができた。
「何もしていません。ただ見ていただけです。でも、もっと怒られればいいのにって思いました」
「その子に、何かされたんですか?」
「嫌なことを言われました。何度か。でも、そのとき怒られていたのは、私とは関係ないことです」
店主は静かに頷いた。
「私も、その子と同じなんでしょうか?」
「君が傷ついたことも、その子が怒られて嬉しかったことも、どちらも本当なんでしょうね。ただ、それだけで二人が同じだとは言えません」
「でも、私にも悪いところがあったんですよね」
「相手が苦しむことを望んだ。その気持ちには、目を向けてもいいと思います」
責められてはいなかった。それでも、気にしなくていいと言ってもらえるのを、どこかで待っていた自分に気づいた。
「僕にもありますよ。失礼なことを言われて、相手が困るような言葉を返したくなることが」
「店主さんにもですか?」
「ええ。そのときは、うまい言い返し方を思いついたとさえ感じます。でも、少し時間がたつと、言わなくてよかったと思うこともある」
「言ってしまうことも、あるんですか?」
「あります。あとから謝っても、言う前には戻せませんね」
店主は畳んだ布巾を、カウンターの端に置いた。
私はもう一度、あの教室を思い出した。先生の声がして、みんなが顔を伏せていた。隣の席の子と目が合って、その子が口元を緩めた。
私も、笑った気がする。
「……ただ見ていただけでは、なかったかもしれません」
「というと?」
「隣の子が笑ったので、私も少し笑ったと思います」
話すまで、その場面は思い浮かばなかった。あの子が怒られていたことばかり覚えていて、そのときの自分の顔を考えたことがなかった。
「さっきおっしゃっていた空気って、こういうことですか?」
店主は少し考えてから答えた。
「そういう小さな同調が、空気をつくることはあるでしょうね。ただ、さっきの話には補っておきたいことがあります。空気に流されたからといって、一人ひとりの行動の責任がなくなるわけではありません」
「周りが笑ったから、では済まないんですね」
「ええ。でも、今それに気づいたことにも、意味はあると思います」
私は膝の上で手を重ねた。
「みんなの中に悪があるなら、誰かを傷つけることはなくならないんでしょうか?」
「傷つけたい気持ちが生まれることと、実際に傷つけることの間には、選べる余地があります。ただ、その気持ちに気づきにくいときもあるんです」
「どんなときですか?」
「自分は正しいことをしていると、信じているときですね」
店主の言葉に、私は顔を上げた。
「悪いことをした人を責めるのは、正しいことではないんですか?」
「何をしたのか確かめて、必要なら止めたり、責任を求めたりすることは大切です。でも、相手が悪いことをしたからといって、どれだけ傷つけてもいいわけではありません」
「それは、わかります」
「ええ。こうして話しているときは、僕にもわかります。けれど腹が立っていると、相手が苦しむことまで、当然の報いに見えてしまうんです」
あの子には、言ったことを謝ってほしかった。
けれど、先生に怒られているのを見ていたとき、謝ってほしいと考えていただろうか。私と同じくらい嫌な気持ちになればいいと思っていなかっただろうか。
「正しいと思う気持ちに、悪い気持ちが混ざるんですね」
「ありますね。だから、正義感が強ければ、それだけで善い人だとも言い切れないのでしょう」
「自分でも、何が混ざっているかわからないカクテルなんですね」
「そうですね。僕も、自分のことになると見分けがつかなくなります」
私はグラスを持ち上げ、水を一口飲んだ。冷たさが喉を通り、少しだけ息がしやすくなった。
「その中身は、変わるんですか?」
「僕は変わると思っています。何を経験するか、誰と過ごすか、どんな行動を重ねるかによっても」
「では、今の自分がずっと続くわけではないんですね」
「ええ。だからこそ、これから何をするかを考える意味があるんでしょうね」
私はグラスを置いて、少し迷ってから尋ねた。
「あの子にも善いところがあるとして、それでも嫌いなままでいいんでしょうか?」
「無理に好きになる必要はありません。その子に善いところがあることと、君が傷ついたことは、両方あっていいんです」
その言葉を聞いて、私はゆっくり頷いた。
あの子を許せたわけではなかった。ただ、嫌いでいることと、傷つけていいと思うことは、別にできるのかもしれない。
「店主さんの心のカクテルは、どんな味なんですか?」
店主は少し困ったように笑った。
「自分では、飲みやすくしているつもりなんですが。君には、どう見えますか?」
私は考えた。優しい人だと思う。でも、欲しい言葉ばかりをくれる人ではない。私が笑ったことも、なかったことにはしてくれなかった。
「甘くはないと思います」
「それは手厳しいですね」
「でも、嫌いじゃないです」
店主が笑ったので、私も少し笑った。
明日あの子に会っても、好きにはなれないと思う。嫌なことを言われたら、また腹が立つだろう。それでも、誰かがあの子を笑ったとき、私が一緒に笑うかどうかは、まだ決まっていない。
私は水面に目を落とした。
ただ見ていただけだと思っていた。でも、思い返せば、私も少し笑っていた。
あの子に傷つけられたことは覚えているのに、自分が笑ったことは、話すまで思い出さなかった。
自分のことは、自分が一番わからない。
店主の言葉が、さっきとは少し違って聞こえた。




