第十話 怒っている声の向こう
「どうしたら、怒ってるんじゃなくて、悲しかったんだって伝えられるんでしょうか」
莉央の言葉が途切れると、店内の音楽が少し近くなった。
店主はカウンターに置いた布巾から手を離し、莉央に向き直った。
「人は会話をするとき、言葉だけを聞いているわけではありません。声の調子や表情、その場の雰囲気からも、相手の気持ちを受け取っています」
「言い方ってことですか?」
「ええ。同じ言葉でも、どう言うかで、違って聞こえることがありますね」
店主は少し考えてから続けた。
「心理学には、言葉が七%、声が三十八%、表情が五十五%で相手に伝わるという、有名な数字があります」
「言葉って、七%しか伝わらないんですか!?」
莉央が驚いたように顔を上げた。
「ただし、これは条件の限られた研究です。言葉と声や表情が食い違うときに、相手の好意や反感を、どの手がかりから判断するかという話なんです。普段の会話の内容が、九割以上、言葉以外で伝わるという意味ではありません」
「全部に当てはまるわけではないんですね」
「ええ。今日の待ち合わせが何時かは、笑顔だけでは伝えられないでしょう?」
私が頷くと、莉央も少し笑った。
「でも、にこにこしながら『会えて嬉しい』と言われるのと、顔を背けて冷たく同じことを言われるのとでは、受け取り方は違いますよね」
私は、莉央に話しかけたときのことを思い出した。
何よ、と言われた声。こちらを見る目。寄せられた眉。
返事の内容を聞く前に、もう嫌がられていると思った。
「……私、話しかけたとき、怒らせたと思った」
莉央が私を見た。
「お昼に誘ったとき?」
「うん。何よって言われて」
「びっくりしただけだったんだけど」
そこまで言ってから、莉央は口を閉じた。
「でも、嫌そうな顔はしたかも。何を言われるんだろうって思ったから」
私は少し驚いた。
私だけが、相手に何か言われることを怖がっていたわけではなかったらしい。
店主は二人の話を聞いてから、莉央へ目を向けた。
「傷ついたとき、どんなふうに言い返すことが多いですか?」
莉央はグラスの水滴を指でなぞった。
「何でそんなこと言うの、とか。別に、どうでもいいけど、とか」
「本当は、どうでもよくない?」
「……はい」
小さな返事だった。
「気にしてるって思われたくなくて。向こうは冗談で言っただけかもしれないのに、傷ついたって言ったら、私だけ真に受けたみたいになるし」
私は口を開きかけたけれど、言葉が見つからなかった。
そんなことはない、と言っていいのだろうか。
莉央が実際にどんなことを言われてきたのか、私はまだ知らなかった。
「それで、先に強く言い返してしまうんですね」
店主の言葉に、莉央が頷いた。
「言い返してる間は、まだ大丈夫なんです。でも、家に帰ってから思い出して、嫌な気持ちになって」
指先が止まった。
「相手はもう忘れてるかもしれないのに、私だけ、ずっと覚えてるんです」
莉央の横顔を見た。
いつもなら、そういう相手に何か言い返して、忘れてしまえる子だと思っていた。
けれど、私が見ていたのは、言い返したところまでだった。そのあと一人になった莉央が、何を考えているかは知らなかった。
「どうでもいいと言いながら、強い声になる。そうすると相手には、悲しかったという気持ちより、拒まれた感じや怒りが伝わることもあるでしょうね」
店主が言うと、莉央は視線を落とした。
「やっぱり、私の伝え方が悪いんですね」
「伝え方を変える余地はあると思います。でも、傷つくことを言われた責任まで、莉央さん一人が引き受ける話ではありませんよ」
莉央が顔を上げた。
「傷ついた人が、いつでも穏やかに説明できるとは限りません。声が強くなったから、その人の悲しさがなくなるわけでもないですから」
私は、自分も怒った顔ばかり見ていたのだと思った。
その顔が怖かったことは本当だった。でも、怖いと思ったところで、莉央の気持ちまで決めてしまっていた。
「じゃあ、どう言えばいいんでしょう」
莉央が尋ねた。
店主は少し間を置いた。
「例えば、『今の言い方は悲しかった』と、感じたことを短く伝えてみるのはどうでしょう。何でそんなことを言うのかと尋ねるより、何が起きたか、相手にもわかりやすくなるかもしれません」
「……恥ずかしいです」
「ええ。普段言わないことなら、なおさらでしょうね」
「そんなこと言ったら、泣きそうになるかもしれません」
店主は頷いた。
「その場で言えなければ、あとから伝えてもいいと思います。落ち着いてから文章にする方法もありますし」
「あとからでも、いいんですか?」
「話しているときには、自分が何に傷ついたのかわからないこともあるでしょう。少し時間がたってから、言葉になることもあります」
私は、ただ見ていただけだと思っていた自分が、話しながら笑っていたことを思い出した夜を思い返した。
自分のしたことさえ、すぐにはわからなかった。
自分の気持ちも、そうなのかもしれない。
「さっきは強く言ったけど、本当はあれが悲しかった。そう言い直すこともできますよ」
「一回言ったことを、直しても?」
「ええ。言ってしまったことへの謝罪が必要なら、それも一緒に。最初の一言で、会話を終わらせなくてもいいんです」
莉央はグラスを持ち上げたけれど、飲まずに置いた。
「でも、悲しかったって言って、そんなことでって笑われたら?」
その声には、さっきよりはっきりとした不安があった。
店主は、そんなことはありませんとは言わなかった。
「そういう返しをする人も、いるかもしれません」
「だったら、言わないほうがましな気もします」
「言えば必ずわかってもらえるとは、僕にも約束できません。ただ、伝えた気持ちをどう扱う人なのかは、そこで見えてくることもあります」
莉央は黙って聞いていた。
「それに、誰にでも同じように話す必要はありません。まずは、最後まで聞いてくれそうな人からでいいと思います」
私は莉央の手を見た。
カウンターの上で、指が重なっていた。何かを言おうとしているようにも、そのまま話を終わらせようとしているようにも見えた。
「私には、あとからでも言ってほしい」
気づいたときには、口にしていた。
莉央がこちらを向いた。
「私、すぐには気づけないかもしれないから。怒ってるのかなって思って、そのまま黙ってしまうこともあると思う。でも、悲しかったって教えてもらえたら、聞きたい」
言い終わると、胸がどきどきしていた。
莉央は私を見て、それから少しだけ笑った。
「琴葉って、そういうこと、急にちゃんと言うよね」
「今、言わないと、またやめてしまいそうだったから」
莉央の笑みが、少し深くなった。
けれど、すぐには次の言葉が出てこなかった。
私も待った。店主も、何も言わずにそこにいた。
「……私も、ちゃんと話したい」
ようやく、莉央が言った。
「この前、何でもないって言われたとき、ちょっと嫌だったの」
「うん」
「話しかけてくれるようになったの、私も嬉しかったから。途中でやめられたら、やっぱり私には言いたくなくなったのかなって思って」
私は莉央を見つめた。
誘ったら迷惑かもしれないと思って、言葉を引っ込めた。
その同じ瞬間に、莉央は、私が話してくれなくなったと思っていた。
「だから、はっきり言ってって、強くなったんだと思う」
莉央は一度息を吐いた。
「怖がらせたのは、ごめん」
私は首を横に振りかけて、ゆっくり頷いた。
「うん。話してくれて、ありがとう」
何でもなかったことにはしたくなかった。
怖かったことも、莉央が今、話してくれたことも、両方覚えておきたかった。
「私も、誘っていいのか迷ったって、最初から言えばよかったね」
「うん。でも、今はわかった」
莉央がグラスに手を伸ばした。
私も自分のグラスを持った。氷が少し小さくなっていて、飲み物は最初より柔らかい味がした。
「今のは、怒ってるようには聞こえなかった」
私が言うと、莉央は顔を上げた。
「本当?」
「うん。嬉しかったのも、嫌だったのも、わかった」
莉央は少し俯いた。
「……そっか」
その一言を聞いて、ほっとしたのだろうかと思った。
でも、今度は、自分で決めずに尋ねた。
「少し、安心した?」
「うん。した」
莉央はそう答えて、私を見た。




