15話 密偵の最悪な一日
聖マグリッタ王国の密偵、ルシルは吸血鬼の国と呼ばれるヘキエ王国へとやってきた。
朝霧に紛れて、城の裏手から侵入する。
ルシルには使命があった。
それは、ヘキエ王国が悪の国かどうかを確認することであった。
聖マグリッタ神は、人間に慈悲を与え守護する存在。
そんな教えを否定する悪の国は滅ぼさねばならない。
すでに、この大陸の秩序を乱す転移者が集まる会議では、ヘキエ王国の吸血鬼が従者を椅子にしたという事実があるらしい。
それだけならまだしも、他国が放った刺客すら吸血鬼にやられたそうだ。
しかも吸血鬼の従者は盾となって死んだらしい。
人間を奴隷として使っているという噂もあるぐらいだ。
決して許すわけにはいかない。
朝霧が晴れてきた。
人の気配がする。
ルシルはじっとその場で身を潜めた。
ずる、ずる、と何かを引き摺る音がする。
物陰からこっそり覗くと、鎖で繋がれた人間が散歩させられていた。
ルシルは驚きで声が出そうになるのをなんとか抑えた。
なんと恐ろしいヘキエ王国。
奴隷は立って歩くことすら許されないのか。
「グレイ、見ましたか? 殿下が覗きましたよ」
「ありがとうございます!!」
!?
奴隷はこの状況を喜ぶことしか許されていないのか!?
何という悪趣味。
吸血鬼に娯楽として消費されているなんて。
助けに飛び出したくなる気持ちをグッと抑え込む。
待っていてください。必ずあなたを助けますから!
振り返らずにその場を離れた。
今は調査が先だ。
街に入ると、朝からたくさんの人が食料を受け取りに配給所に並んでいた。
ルシルも人混みに紛れようとしたが、すぐに異常を感じる。
目線だ。
この国民達は、ルシルという部外者をきちんと部外者だと認識している。
長年の経験から、これはそういう目線だと感じた。
ルシルはすぐに屋根の上に避難した。
まさか、国民全員が知らない人間を認識できるというのか!?
統制されている。
もし戦争にでもなれば、この統制された国とやり合うことになる。
それはなんと恐ろしいことなのだろうか。
だが、聖マグリッタ神の名の下、引くわけにはいかない。
しばらくすると、街は静寂に包まれた。
とある一軒を覗いてみると、男は仕事に出かけ、女や子供は家の中でそれぞれ内職をしている。
無駄がない。
いや、余暇がない。
この街には市場もなければ宿屋もない。
来客もないのだから、必要がない。
まるで、戦争の準備をしているかのような……。
そんなまさか。
屋根の上を歩いていると、城の方から人がやってきた。
すぐさま身を隠す。
ちらっと顔を出すと、目立つピンク色のフリフリなドレスを着た吸血鬼が、奴隷に傘を差されながら歩いていた。
見窄らしい国民の衣装とは対照的な、なんと贅を尽くした衣装だろうか。
やはり邪悪としか言いようがない。
しばらく見ていたら、メイドと目が合った。
すぐさま身を隠す。
たまたまだろうか?
ルシルほどの身を隠す技術を持った者は、暗部の中でも数えるほどしかいない。
今のうちに城の中に侵入しよう。
ルシルは裏路地を抜けて、城内へと身を滑り込ませた。
古めかしい吸血鬼の城。
城内には価値の高そうな壺や絵画が置いてあった。
だがその雰囲気とは違い、掲げてある旗にはネズミのような絵が書いてあった。
なんだ、この絵は。
舌を出したネズミが涎を垂らしながら、板状のものを舐めている。
……恐ろしい。
欲を言えば悪の国であるという証拠を持ち帰りたいところだ。
だが、こんな旗を持ち帰ったところで何の証拠にもならないだろう。
城内で働いている者は皆休まずに手を動かしている。
人がいると動きづらい。
ルシルは城内に隠れて、夜まで待つことにした。
――夜。
静まり返った城は、不気味なくらいに暗かった。
廊下に点在するランプには灯りが点いていない。
昼に場所を確認した吸血鬼の執務室に入ろうと扉に手をかける。
すると突然足音が聞こえてきた。
バカな。人の気配はなかったはずなのに。
「こんばんはぁ、迷子ですかぁ?」
可愛らしい女の声だった。
月明かりに照らされて浮かび上がってきたのは、十六歳ぐらいの、昼間に見たのと同じメイドだった。
申し訳ないですが、少し痛くしますよ……!
ナイフを懐から取り出そうとしたら、メイドが消えた。
「何!?」
消えたのではない、一瞬で懐に入られたのだ。
気づいた時には鳩尾を殴られ、腕を取られて床に押し付けられていた。
「毒殺はぁダメって言われたのでぇ、殺しませぇん」
背中に跨られ、女の力とは到底思えないほどの力で、腕を押さえられている。
「うーん、こういうときはぁ……拷問ですかぁ?」
もう一人、廊下の奥から現れた。
朝、奴隷を鎖に繋いで散歩させていた男だ。
「ブラン、ご苦労様です。拷問部屋に通してください。情報は必要ありませんが、恐怖を与えましょう」
情報が必要ない?
情報を話すつもりはない。でもなぜ拷問を受けなければならないんだ!
「放せ!」
「黙ってくださぁい。姫様が起きちゃいますぅ」
鼻と口に布を当てられ、薬を嗅がされる。
途端に意識を失った。
***
目を覚ますと、そこは厨房だった。
椅子に縛りつけられ、食材と共に端に置かれている。
……まさか、吸血鬼の餌にされるのか!?
ブランと呼ばれていたメイドが、血のついたエプロンを着た大男に話しかけている。
「あー言葉通じてますかぁ? ご、う、も、ん。ですよぉ?」
「ナニ? りょうり、スル?」
「まー間違いではないですけどぉ……」
大男は、見た目に似合わないほど声が高かった。
ブランはこちらを指差した。
「あの男を料理してくださぁい。あ、でも殺しちゃダメですぅ」
「ナニ、ダメ? 我听不懂」
未知の言語を話している。
大丈夫なのだろうか、私は殺されずに拷問だけで済むのだろうか……。
「はぁ、僕もう行きますぅ。また明日の朝迎えにきますねぇ」
「ワカッタ、マタネ」
ブランはこちらを見ることもせず、去って行った。
ブランに手を振っていた大男がくるっと向きを変え、人でも斬れそうな大包丁を手にしてこちらへ歩いてきた。
切れ長の目は、何人も殺してきたかのような鋭さを持っている。
そして突然、大包丁を振り上げてドスの効いた声で叫んできた。
「ムシ! コロス! 姫サマ喜ブ!」
「うわぁあ! やめてくれ!! 命だけは助けてくれぇえ!!」




