第95話 湖の町に残るもの
翌朝。
朝食を終えて玄関へ出たアリアは、門のそばに立っているエミールの姿を見つけると、まだ数段残っていた階段を少し急いで下りた。
「エミール! おはよう!」
大きく手を振ると、こちらに気づいたエミールも片手を上げる。
「おはよう。ちゃんと覚えてたんだね」
「覚えてるよ?」
どうしてそんなことを聞かれるのか分からず首を傾げると、エミールは笑った。
「昨日、案内してって言ったのはアリアだから」
もちろん忘れてはいない。
昨日の夕方から、今日は市場へ行って、古い舟着き場を見て、それからお菓子のお店も探すのだと何度も考えていた。眠る前にはマルルと「お魚も見るなの」「お菓子も見るよ」と話したくらいなのだから、むしろアリアの方が朝になるのを待っていたくらいだった。
今日は本邸へ行く時のように、目的地まで馬車で運んでもらうわけではない。
町の入口までは別邸の馬車で送ってもらい、そこから先は自分たちの足で歩いて回ることになっている。
白いポシェットを斜めに掛けたアリアが馬車へ乗り込むと、ルカとノルンが続き、マルルも当然のようにその足元へ収まった。
旅をしていた頃のように、一日歩き続けるための荷物もなければ、次の町へ着く時間を気にする必要もない。
それだけでも、今日のお出かけはいつもの旅とは少し違って感じられた。
「最初はどこ?」
馬車が動き出すのを待ちきれず、アリアが向かいに座ったエミールへ尋ねる。
「まず市場。朝の方が魚とか野菜とか、いろいろ並んでるから」
その一言に、アリアより先にマルルの長い耳がぴんと持ち上がった。
「お魚なの!」
「お菓子は?」
「それはあと」
ほんの少しだけ残念だったけれど、朝の市場というものもアリアはほとんど知らない。
それなら魚を見るのも楽しそうだと思い直し、「お魚も見る」と頷いてから、少し考えて付け足した。
「食べられるなら」
「結局そこなんだ」
隣でルカが笑う。
町へ着く前から、今日一日が賑やかになることだけは間違いなさそうだった。
◇
町の入口で馬車を降りたアリアは、最初の角へ着くまでに三度立ち止まった。
一度目は、店の軒先に吊るされた色鮮やかな布が風にはためいていたから。
二度目は、大きな籠を背負った人が、その中に何を運んでいるのか気になったから。
三度目は、細い路地の奥から焼きたてのパンらしい匂いが流れてきたからだった。
「今日は、ほんとにゆっくりでいいんだよね?」
念を押すようにエミールを見ると、少し呆れた顔をしながらも頷いてくれる。
「そのつもりだけど」
「じゃあ、あっち見てもいい?」
「いいよ」
「そのあと、あれも?」
「いいけど、まだ町に入って三十歩くらいしか歩いてないよ」
「だって、いっぱいあるもん」
アリアにとって、ミレア湖畔の町をこうして歩くのは今日が初めてだった。
別邸から湖を眺めたり、船へ乗ったり、本邸へ出かけたりすることはあっても、その湖のそばに広がる町の中へ入り、自分の足で通りを歩いたことはない。
だから、目に入るものは何もかも知らないものばかりだった。
道の端へ積み上げられた樽も、窓辺へ花を飾った家も、店先で大きな声を出している人も、細い路地の向こうにちらりと見える湖も、一つ見つけるたびに気になってしまう。
それに今日は、どこかへ急いで辿り着く必要もなかった。
旅をしていた頃、道はいつも「次の場所へ行くためのもの」だった。
日が暮れる前に教会へ着かなければならない日もあれば、商隊と一緒なら出発の時間も決まっていた。面白そうなものを見つけても、すべてを覗いて歩くことはできない。
けれど今日は、気になったなら立ち止まってもいい。
初めて歩く町を急がず眺めていると、ほんの数十歩進むだけでも、知らないものが次々に見つかっていった。
それが、アリアにはとても楽しかった。
市場へ入ると、その気持ちはさらに膨らんだ。
朝に湖から揚がったばかりの魚が木箱の上へずらりと並び、その向こうでは色の濃い野菜や丸い果物が、籠からあふれそうになっている。
威勢のいい呼び声があちこちから重なり、焼いた魚の香ばしい匂いが流れてくるたび、マルルの耳が忙しく向きを変えた。
「マルル、こっちだよ」
「お魚なの」
「あとで見よう」
「今見るなの」
すでに魚屋の方へ身体を向けているマルルを見て、アリアは一度エミールを振り返った。
「見てもいい?」
「いいけど」
「じゃあ見よう!」
結局、マルルより先にアリアが魚屋へ向かい、ルカが「アリアまで行くの?」と追いかけることになった。
しばらくして振り返ると、案内するはずだったエミールは一番後ろを歩き、誰かが別の道へ入り込まないよう全員を見ながらついてきている。
「案内って大変だね」
それに気づいたルカが言うと、エミールは小さく息を吐いた。
「今、分かった」
「エリオお兄ちゃん、いつもこんな感じなのかな」
「たぶん、もっと大変だと思う」
その言葉に、魚を覗き込んでいたアリアが顔を上げた。
「なんで?」
エミールとルカが、ほとんど同時にこちらを見る。
「アリアがいるから」
「わたし?」
「誰だと思ってたの?」
自分はちゃんと皆と一緒に歩いているつもりなのに、どうして自分がいると大変になるのだろう。
少し考えてみたものの、その間にもマルルが別の魚へ鼻を近づけていたので、アリアの意識もすぐそちらへ移ってしまった。
◇
市場を出る頃には、アリアの手には小さな焼き菓子が一つ、マルルには湖魚を薄く焼いたものが少しだけ渡されていた。
二人とも十分満足したところで、エミールが次に案内してくれたのは、町の賑わいから少し外れた古い舟着き場だった。
「昔は、ここから大きな船も出てたらしいよ。今はほとんど使われてないけど」
今使われている舟着き場よりずっと小さく、低い石造りの岸壁と、長い年月を水辺で過ごしてきたことが分かる黒ずんだ杭が何本か残っているだけだった。
「じゃあ、なんで残してるの?」
アリアが尋ねると、エミールは少し考えてから首を傾げた。
「……なんでだろう」
「知らないの?」
「全部知ってるなんて言ってないよ。案内役にだって、知らないことくらいあるから」
そう言われれば、その通りだった。
「じゃあ、分かる人がいたら聞けばいいね」
あっさり納得したアリアに、エミールが笑う。
「そういうところだけ前向きだね」
アリアは岸壁の端まで歩き、そこから湖の中央を眺めた。
市場で見つけたものをルカへ話しながら来たはずなのに、遠くまで広がる水面を見た途端、頭の中へ別の景色が戻ってくる。
少し前、皆で船を出した日のことだった。
船首をどちらへ向けても、コンパクトから伸びる青い光は進行方向へ伸びた。
右へ向けば右。
左へ向けば左。
来た方へ戻ろうとしても、やはり前を指していた。
行き先を教えてくれるはずなのに、追えば追うほど、どこへ行けばよいのか分からなくなる。
「ここからも、あそこ見えるね」
アリアが湖の中央を指すと、ルカも同じ方向へ目を向けた。
「この前、船で行ったところ?」
「うん」
今の水面には、あの日の青い光も、何かが隠れているような気配も見えない。
ただ朝の光を受けた湖が、静かに広がっている。
それでもアリアには、もうそこに何もないとは思えなかった。
「満月になったら、違うのかな」
先ほどまで市場ではしゃいでいた声が、自然と少しだけ静かになる。
次の満月まで待たなければならないと知った時には、ずいぶん先のことのように感じていた。
けれど今は、朝になれば飛ぶ練習があり、魔法も、本も、ミントに乗ることもある。昨日できなかったことを今日もう一度試しているうちに、一日は思っていたより早く終わっていく。
待つことばかりを考えなくなった。
それでも湖の前へ立てば、ここへ来た一番の理由が、まだ何一つ解決していないことを思い出す。
「たぶん、それを確かめるんでしょ」
隣から聞こえたルカの声に、アリアは頷いた。
「うん」
少し離れたところでは、ノルンも湖を見ていた。
その横顔を見ていると、今ここでいくら眺めても答えが出るわけではないことも分かる。
「まだ見るところあるよ」
エミールに呼ばれ、アリアはようやく水面から目を離した。
「行く!」
皆のあとへ追いつこうとしてから、一度だけ振り返る。
明るい朝の湖は、さっきと何も変わっていなかった。
けれどアリアの中では、楽しい町歩きのすぐ隣に、次の満月へ続くものがもう一度戻ってきていた。
◇
古い舟着き場から続く通りへ入ると、市場とは町の顔が少し違って見えた。
色の褪せた壁を持つ家や小さな工房、昔から続いているらしい古い宿が並び、軒先には使い込まれた船具や湖を描いた絵を飾っている店もある。
初めて見るものばかりなので、アリアが何かを見つけては立ち止まるたび、エミールは知っている範囲で一つずつ教えてくれた。
その途中、彼が一軒の店の前でふと足を止めた。
「あれ。まだ開いてるんだ」
その声につられて見上げると、通りから少し奥まったところに、古びた木の看板を掛けた店があった。
「何のお店?」
「昔の地図とか本とか。前に入ったことはあるけど、売ってるのか集めてるだけなのか、僕もよく分からないんだよね」
「地図?」
それまで静かについてきていたノルンが、すぐに店へ目を向ける。
ほんの少し声が早かっただけなのに、ルカには分かったらしい。
「入りたいんでしょ」
「少し見たいだけです」
「ノルンの『少し』って、本があると長いよ」
ノルンがすぐには否定しなかったので、アリアは笑いながら先に扉へ近づいた。
取っ手へ手を伸ばしかけたところで、このところエレノアから教わっていることが頭に浮かぶ。
「ここ、お店だから自分で開けていいんだよね?」
「いいよ」
「お屋敷じゃないもんね」
「ちゃんと使い分けてるんだ」
後ろでルカが笑う。
「使える時は使うの!」
少し得意そうに胸を張ってから、今度こそ扉を開いた。
◇
中へ入った途端、古い紙と木、それに長く閉じた箱を開けた時のような乾いた匂いが鼻へ届いた。
「本、いっぱい……」
アリアの声が自然と小さくなる。
壁には背の高い棚が並び、本や紐で束ねられた紙がぎっしり収められている。
けれど別邸の書庫とは違い、棚の横には巻かれた地図が何本も立て掛けられ、壁には昔のミレア湖らしい絵も掛けられていた。
小さな木箱や、何に使ったものなのか分からない古い道具まで、本と一緒に棚の隙間へ収まっている。
ノルンはすぐに棚の文字を追い始め、ルカは壁に掛かった地図へ近づいた。エミールも久しぶりに見る店の中を眺めている。
アリアは入口のそばに置かれた大きな石が気になり、何だろうと手を伸ばしかけたところで、エミールから声が飛んだ。
「売り物かもしれないよ」
「あ」
以前なら、何なのか確かめたくてそのまま触っていたかもしれない。
けれど今は伸ばした手をきちんと戻し、少し離れたところから眺める。
「じゃあ、見るだけにする」
「珍しいね」
突然、店の奥から声が聞こえた。
アリアたちは一斉に振り返る。
本の山の向こうから顔を出したのは、ヴォルターよりずっと年上に見える男だった。
灰色の混じった髪を無造作に後ろへまとめ、片手には何枚かの紙、もう片方には鉛筆を持っている。
「子どもが四人も来る店ではないんだが」
「マルルもいるなの」
マルルがすぐに訂正すると、男の視線がゆっくり足元へ落ちた。
普通なら、ここで驚かれる。
アリアはもう、それを知っている。
ところが男は、マルルをしばらく見たあと、「今、喋ったか?」と確認しただけだった。
「喋ったなの」
「そうか」
少し考え、それだけで頷いてしまう。
あまりに普通なので、今度はアリアの方が気になった。
「驚かないの?」
「驚いてはいる」
「顔、変わってないよ?」
「顔に出にくいんだ」
「そっか」
それなら仕方がない。
アリアが納得すると、男は初めてわずかに口元を緩めた。
◇
男はハイラムと名乗った。
この辺りに残っている古い地図や記録を集め、湖だけでなく、町や周辺の土地についても調べているのだという。
それを聞いたノルンはすぐに興味を示したが、アリアは店いっぱいに置かれた紙を改めて見回してから、もっと単純なことが気になった。
「なんで、昔のこと調べるの?」
何気なく尋ねただけだった。
けれどハイラムは、それまでのようにはすぐに答えなかった。
壁に掛かった一枚の古い地図へ目をやり、その隣にある細い額を外して卓へ置く。
「家に残っていたものを見つけたのが始まりだ。俺の先祖が書いた」
額の中には、アリアが今習っているものとは少し形の違う文字が並んでいた。
「何が書いてあるの?」
「この町へ来た日のことだ」
「旅行したの?」
「いや。来るつもりはなかったらしい」
その答えに、アリアは額から顔を上げた。
来るつもりがなかったのに、この町へ来た。
道を間違えたのだろうか。
そう思ったけれど、ハイラムが続けた話は、アリアが想像していたものとはまるで違った。
前の日まで、先祖たちは別の土地でいつも通り暮らしていたという。
家があり、畑があり、家族がいて、朝になれば昨日と同じように外へ出るはずだった。
ところが翌朝。
家の外には、見たこともない山があった。
話を聞いているうちに、アリアの指がいつの間にか白いポシェットの端をつかんでいた。
昨日まであったものが、朝になったら違っている。
知っているはずの場所が、知らない場所になっている。
それだけで、胸の奥へしまっていた景色が少しずつ浮かび上がってきた。
「その人だけが来たの?」
自分でも気づかないうちに、声が小さくなっていた。
ハイラムは首を横へ振る。
「小さな集落ごとだったそうだ」
集落ごと。
その言葉を聞いた途端、アリアは次に何を聞こうとしていたのか分からなくなった。
家も、畑も、そこに住んでいた人たちも一緒に、昨日までとは違う場所へ移ってしまった。
あの日、自分の目の前からなくなっていた村のことを考えずにいる方が難しかった。
隣ではルカも黙っている。
ただ、いつの間にか少しだけアリアの近くへ立っていた。
「戻れたの?」
代わるようにルカが尋ねる。
「戻れなかった。元の場所を探した者も、知っている道へ戻ろうとした者もいたらしいが、どこにも見つからなかった」
アリアは卓の上の古い紙を見つめた。
まだ全部の文字を読むことはできない。
それでも、そこへ書かれた人たちがどんな気持ちだったのかは、少しだけ想像できた。
帰りたいのに、帰れない。
知っている道へ戻ろうとしているのに、帰りたい場所へ着かない。
「どうして……?」
こぼれた声に、ハイラムは棚から何枚もの記録を取り出した。
自分もそれを知りたくて、長い間調べ続けてきたのだという。
最初は先祖だけに起きたことだと思っていた。
何百年も前の話だから、長い年月のうちに昔話が大げさになっただけではないかと考えたこともあった。
けれど、調べていくうちに似た記録が見つかった。
山の麓へ、ある日突然、それまでなかった家々が現れたという話。
川沿いへ、昨日までは存在しなかった畑が現れたという記録。
そして土地だけではなく、そこに住んでいた人々まで一緒に移ってきたらしいもの。
ハイラムが一枚ずつ紙を卓へ置くたび、アリアの中には「あの日」とは違う景色が増えていった。
自分の村だけではないのかもしれない。
ずっと昔にも、昨日までの暮らしを突然失った人がいた。
「家族も、一緒だったの?」
「場合による。離れてしまった人もいたらしい」
ポシェットを握る指へ、少し力が入った。
もし自分の村にも、同じことが起きたのだとしたら。
アリアは、離れた側だった。
お父さんとお母さんたちが村と一緒に別の場所へ流されたのなら、向こうから見れば、突然いなくなったのはアリアの方になる。
お父さんとお母さんも、自分を探したのだろうか。
昨日まで歩いていた道へ戻ろうとして、何度も何度も、知っている場所を探したのだろうか。
胸の中へ浮かんできたものを、どう言葉にすればよいのか分からなかった。
アリアが黙ったまま古い紙を見つめていると、隣のノルンが静かに口を開いた。
「これらの出来事に、共通していることはありますか?」
ハイラムは少し意外そうにノルンを見たあと、卓の上の記録を何枚か選び直した。
「全部じゃない。だから、まだ仮説だが、水辺の近くで起きたものが多い」
「水?」
アリアが顔を上げる。
ハイラムは、川や泉、湖、海に近かったという記録が残っているのだと説明しながら、一枚ずつ該当する紙を示した。
その一つ一つを聞くうちに、アリアの頭には、少し前まで立っていた古い舟着き場と、その向こうに広がっていたミレア湖が浮かんできた。
「それから、移る前の夜、水面がおかしかったという話もいくつかある」
その言葉に、ルカの猫耳がすっと前を向く。
「どんなふうに?」
「そこが曖昧なんだ。水が光っていたというものもあれば、景色が二重に見えたというものもある。水の向こうへ、知らない場所が見えたという記録もあった」
ノルンの表情が、わずかに変わった。
アリアにも分かった。
ハイラムが話すたび、これまでミレア湖で少しずつ集めてきた言葉が、同じところへ寄ってくる。
そして。
「一つだけ、月について書かれたものがある」
その瞬間、アリアの胸が強く鳴った。
ハイラムは古い記録の束を探り、下の方から一枚の写しを取り出した。
「別の土地で見つかったものだ。『月の色が変わり、水にもう一つの月が落ちた夜』とある」
赤い月。
二つの月。
水鏡。
これまで別々の場所で聞いてきた言葉が、今度は偶然では片づけられないほど近くへ並んだ。
「それ……お月さまが二つになるの?」
「水へ映れば、二つには見えるだろう」
その答えを聞いた途端、アリアの頭には別邸の窓から何度も眺めた湖が浮かんだ。
「……ミレア湖みたいに?」
何気なく口にしたつもりだった。
けれど今度は、ハイラムの方が黙った。
「どうしてミレア湖が出てくる?」
アリアはすぐには答えなかった。
言ってしまおうと思えば、鍵の欠片のことも、コンパクトのことも、女神様から頼まれたことまで全部話せる。
以前なら、本当にそうしていたかもしれない。
けれど旅の間に、何でも誰にでも話してよいわけではないことを教わった。
話したいことと、話してよいことは同じではない。
六歳のアリアには、その線引きがいつも簡単にできるわけではない。
だから自分だけで決めず、ノルンを見る。
目が合うと、ノルンが小さく頷いた。
「わたしたち、ミレア湖のことを調べてるの」
そこまでは言える。
けれどハイラムから「何を?」と尋ねられたところで、アリアは一度口を閉じた。
頭の中には、欠片、コンパクト、女神様と、いくつもの言葉が浮かんでいる。
その中から、今ここで話してよいものだけを探した。
「まだ全部は言えない」
自分でそう言えたことに、アリア自身がほんの少し驚いた。
隣を見ると、ルカが何も言わず、少しだけ笑っている。
「でも、満月の夜に、湖の真ん中で何か起きるっていうお話を調べてるの」
「満月?」
「うん。古い歌があるの」
どんな歌なのかと聞かれ、今度はノルンが引き継いだ。
「月影の浮かぶ水鏡。求むる者は辿り着けず。忘れられし空の子のみ、その門を見る」
最後の言葉が落ちたあと、店の中が静かになった。
アリアは、自分の背中にある小さな白い羽を意識した。
空の子。
以前なら、その言葉が自分を指しているのかもしれないということばかりが気になった。
けれど今は、「門」の方が気になった。
ハイラムも同じ言葉へ引っ掛かったらしい。
「……門」
小さく呟き、卓の上へ並べた紙をしばらく見つめる。
やがて顔を上げた時には、それまでとは少し違う表情になっていた。
「似た言葉を見たことがある」
その一言に、アリアの身体がわずかに前へ出た。
ハイラムは迷うことなく棚の奥へ向かい、何冊かの本を避け、その後ろに置かれていた細長い箱を取り出した。
「ずっと意味が分からなかったんだ」
箱の中から出てきたのは、表紙の色まで変わった古い手記だった。
何百年も前、この土地へ突然流れ着いた先祖が、ここで暮らし始めてから何年も経ったあとに書いたものだという。
ハイラムが慎重に頁を開き、ノルンがその横から古い文字へ目を走らせる。
アリアには読むことができない。
だから、ノルンの視線が一行ずつ動くたび、何が書かれているのか待つしかなかった。
その時間が、ひどく長く感じられた。
「何て書いてあるの?」
とうとう待てずに尋ねると、ノルンはもう一度同じ行を確かめてから、静かに読み上げた。
「『あの夜、水の向こうに故郷を見た』」
故郷。
その言葉だけで、アリアの胸の中にはお父さんとお母さんの顔が浮かんだ。
ノルンはその下へ視線を移す。
「『されど、いくら進めど辿り着けず』」
今度は聞いたことがあった。
アリアは古い手記を見たまま、歌の一節を小さく口にする。
「求むる者は、辿り着けず……」
歌に残っていた言葉と、何百年も前の誰かの記録。
同じ場所で書かれたものでもなければ、同じ人が残したものでもない。
それなのに、同じことを言っている。
ノルンが最後の一文へ視線を落とすまで、アリアは動けなかった。
「『水は道にあらず。境であった』」
「……さかい」
書庫で見た古い文章が、そのまま胸の奥から戻ってきた。
空の子は、境を見る。
あの時、先生も「境」という言葉にだけ反応した。
そして今、知らない土地へ流された人まで、同じ言葉を残している。
ばらばらに拾ってきたものが、一本の細い糸でつながっていくようだった。
けれど、その先に何があるのかは、まだ見えない。
「その人……帰りたかったの?」
気づけばアリアは、謎のことではなく、その人自身のことを聞いていた。
ハイラムは手記へ目を落とした。
「ずっと帰りたかったらしい」
「帰れた?」
ほんのわずかな間があった。
「……いや」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
何百年も前の知らない人なのに、遠く感じなかった。
帰りたい場所があるのに帰れないことも、そこにいる大切な人を探し続けることも、今のアリアには分かる。
けれどハイラム自身は、この町で生まれ、この土地を故郷だと思っているという。
「俺は帰るために調べてるんじゃない。ここが俺の故郷だからな。でも、先祖がどうしてここへ来たのかは知りたい。突然知らない土地へ連れてこられた人間が、この世界には確かにいた。それが何なのか、どうして起こったのか、元へ戻る方法が本当になかったのか。それを知りたいんだ」
アリアはその言葉を聞きながら、古い手記を見つめていた。
朝、別邸を出た時には、こんなものを見つけるとは思っていなかった。
初めて歩くミレア湖畔の町で、市場へ行き、マルルと魚を見て、お菓子を食べ、エミールにいろいろな場所を案内してもらう。
今日はただ、知らなかった町を見て歩く、楽しい一日になるはずだった。
それなのに今、自分たちがずっと探してきたものへ、思いがけないところから手が届きそうになっている。
「わたしも、知りたい」
声にすると、ルカがこちらを見た。
アリアは一度だけ息を吸い、今度はハイラムをまっすぐ見た。
「どうして、お父さんとお母さんがいる村がなくなったのか」
ハイラムの表情が変わる。
「村が?」
「帰ったら、なくなってたの」
何度話しても、あの日のことが軽くなるわけではなかった。
家も、お父さんも、お母さんも、村のみんなもいなくなっていた。
けれど今日は、話しながらあの日の空っぽの場所ばかりを思い出してはいなかった。
卓の上には、突然知らない土地へ流された人たちの記録がある。
なくなったのではなく、別の場所で生き続けた人たちの記録が。
「だから探してるの」
アリアは古い手記へ視線を戻した。
そこから先を言葉にするのは、少し怖かった。
もし違ったら。
期待したあとで、やっぱり何も分からなかったら。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「わたしの村に起きたことも……これと同じなの?」
ハイラムはすぐには答えなかった。
長い時間をかけて集めてきた記録を一枚ずつ見つめ、何かを確かめるように視線を動かしている。
水辺で起きたこと。
月の色が変わった夜。
水の向こうに見えた知らない景色。
辿り着くことのできなかった故郷。
そして、境。
アリアも答えを急かさず、ただハイラムの言葉を待った。
やがて、彼が顔を上げる。
「もし、君の村に起きたことが、俺が調べてきたものと同じなら」
そこで一度、言葉が止まった。
アリアは瞬きもせず、その続きを待つ。
「消えたんじゃないかもしれない」
「え……?」
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
ハイラムは、まっすぐアリアを見る。
「今も、どこかにあるのかもしれない」
すぐには、その意味が全部入ってこなかった。
あの日、目の前からなくなった村が、いったいどういう形で「別の場所へ流された」のか、アリアにはずっと想像できなかった。
女神様からそう聞いていても、その言葉にはまだ形がなかった。
けれど今、目の前には本当に流された人たちの記録がある。
家も、畑も、人も失われたのではなく、別の場所へ移り、そこで暮らし続けた人たちがいた。
アリアは古い手記を見つめた。
そこに言葉を残したのは、自分の知らない昔の誰かだった。
それでも、その人が突然知らない土地へ流され、帰りたい場所を探しながら、この世界のどこかで確かに生きていた。
その事実だけで、今まで胸の中にしかなかった「お父さんとお母さんも、どこかにいるかもしれない」という思いが、ほんの少しだけ輪郭を持った気がした。
アリアは白いポシェットの上へ置いた小さな手を見下ろした。
さっきまで強く握っていた指から、いつの間にか力が抜けていた。




