第96話 流れ着いた土地
ハイラムの言葉を聞いてからも、アリアはしばらく古い手記を見つめたまま動かなかった。
村は消えてしまったのではなく、別の場所へ流された。
それは、ずっと前に女神様から聞いている。
だからアリアも、どこかにお父さんとお母さんがいて、いつかきっと会えるのだと信じて旅を続けてきた。
けれど、それは今まで、女神様から聞いた言葉として知っているだけのものでもあった。
村が別の場所へ流されるということが、本当はどういうことなのか。家も畑も、そこに暮らしていた人たちも一緒に移るということが、どんな出来事なのか。
六歳のアリアには、まだはっきりとした形で思い浮かべることができなかった。
ところが今、目の前には、ある日突然知らない土地へ流された人たちが、本当にこの世界にいたことを示す記録がある。
ハイラムの先祖たちは、家も畑も失ってしまったわけではなかった。小さな集落ごと見知らぬ土地へ移り、それから何年も、何十年も、その場所で暮らし続けた。
何百年も前の出来事ではある。
それでも、自分たちとよく似たことを経験した人が本当にいたのだと知ると、女神様から聞いていた「別の場所へ流された」という言葉が、これまでよりほんの少しだけ現実のものとして胸の中へ入ってきた。
古い紙や地図に囲まれた小さな店の中では、扉の向こうを行き交う人々の声が聞こえているはずなのに、今のアリアには、それさえずいぶん遠くから響いているように感じられた。
「ハイラムさん」
「なんだ?」
「その人たちが来たところ、まだある?」
「先祖たちが流れ着いた集落か?」
「うん」
「今はもう町の一部になっているよ。昔の建物はほとんど残っていないが、土地そのものはある」
「なくなってない?」
「ああ」
その返事を聞いた途端、アリアが握っていた白いポシェットの布から、ほんの少しだけ力が抜けた。
昔、別の場所へ流された人たちがいた。
その人たちは、そこで暮らし続けた。
そして、その場所は今も残っている。
自分の村とまったく同じ出来事だと決まったわけではない。それでも、女神様から聞いた話を思い浮かべるには、十分すぎるほどよく似ていた。
隣にいたルカは、アリアの手から力が抜けたことに気づいたようだったけれど、何も言わず、ただそのそばに立っている。
足元ではマルルも、いつの間にか動きを止め、長い耳をわずかに持ち上げてハイラムの話を聞いていた。
「ただし」
ハイラムは卓へ視線を戻した。
「すべての記録が、まったく同じ出来事を示しているとは限らない」
アリアが顔を上げる。
「違うの?」
「場所だけが動いたように見えるものもあれば、人だけが知らない土地へ現れたという話もある。家ごと、畑ごと、集落ごとという記録も残っている」
「いっぱい違う」
「そうだ」
ハイラムは卓いっぱいに広げていた紙を、書かれた年代を確かめながら一枚ずつ並べ直していった。
「だから俺も、最初は全部別の出来事だと思っていた」
「今は?」
ルカが尋ねる。
「同じ原因から起きているのかもしれないと思ってる」
その言葉に、ノルンの視線が並べられた記録へ落ちた。
「そう考えるようになった、きっかけがあるのですか?」
「水だ」
ハイラムは何枚かの記録を選び、皆から見えるところへ並べた。
「正確には、水に関する記録が多すぎた」
最初の一枚へ指を置く。
「この家族が元々住んでいたのは、大きな川のそばだ」
次の一枚へ指を移す。
「こちらは泉のある村」
さらにもう一枚。
「この記録では、移動する前の晩に湖へ出ていた」
「全部、水なの?」
マルルが卓の下から顔を出す。
「全部ではない。ただ、水辺だったと分かるものが多い」
「じゃあ、水が運んだの?」
アリアが尋ねると、ハイラムは首を横へ振った。
「それが分からないんだ」
「さっきの手記には」
ノルンが、卓に置かれた古びた一冊へ目を向ける。
「『水は道にあらず。境であった』とありました」
「ああ」
「なら、これを書いた方自身も、水そのものが人や土地を運ぶ道だったとは考えていなかったのかもしれませんね」
ハイラムがノルンを見る。
「俺もそう思ってる」
「水辺に、何かの境があった」
「そう考えれば、あの言葉には合う」
断定するのではなく、二人とも卓の上の記録を見ながら、そこに残された言葉から考えられる可能性を一つずつ確かめているようだった。
その会話を聞いていたアリアの身体が、ほんの少しだけ前へ動く。
「境……」
最近、その言葉を何度聞いただろう。
別邸の書庫で見つけた古い記録には、
『空の子は、境を見る』
と書かれていた。
その言葉を聞いた時の先生の顔も覚えている。
そして今、何百年も前に書かれた手記には、
『水は道にあらず。境であった』
と残されている。
「同じなのかな」
アリアが小さく呟いた。
「何と?」
ハイラムが尋ねる。
「こっちで見つけた古い言葉にも、『境』ってあったの」
紙を動かしていたハイラムの手が止まった。
「どんな記録だ?」
アリアはすぐには答えず、隣のノルンを見る。
少し前までなら、聞かれたことをそのまま全部話していたかもしれない。けれど旅を続けるうちに、話したいことと、誰にでも話してよいことは同じではないのだと少しずつ覚えてきた。
ノルンはアリアと目を合わせ、少し考えてから小さく頷いた。
「ミレア湖について残されていた古い記録です」
ハイラムの表情が変わった。
「湖の?」
「はい」
ノルンは記憶を確かめるように一度だけ目を伏せ、それから静かに読み上げた。
「赤き月、水鏡に沈みし夜。二つの月、重なりし時。空の子は、境を見る」
「……赤い月」
ハイラムが小さく繰り返す。
「それは、どこにあった?」
「グランヴェル家の別邸に残されていた資料です」
「年代は?」
「正確には分かりません。ただ、かなり古いものです」
答えを聞いた途端、ハイラムは卓の上へ視線を走らせた。
「ちょっと待て」
積み上げてあった紙を一束ずつずらし、その下から別の束を取り出していく。
「これじゃない」
もう一つ。
「こっちでもない」
探すたびに紙の山が少しずつ動いていくので、アリアは興味深そうに横から覗き込んだ。
「いっぱいあるね」
「だから触るなよ」
「触ってないよ」
「今、指が出てた」
「見るだけ」
「それならいい」
少し離れたところでそのやり取りを見ていたエミールが、思わず小さく笑った。
町を案内するために一緒に来ただけだったはずなのに、いつの間にか自分まで古い記録を探す場に立ち会っている。
けれど今は口を挟まず、ハイラムが動かす紙の山を静かに眺めていた。
さらに何枚かを確かめたところで、ハイラムの手が止まる。
「あった」
引き抜いたのは、先ほど見せてもらった記録よりは少し新しそうな一枚だった。それでも紙の端はかなり色褪せ、ところどころ薄くなっている。
「何?」
「昔の天文記録だ」
「お月さま?」
「ああ」
ハイラムは紙を卓へ広げた。
「流れ着いた土地の記録を調べ始めてから、月齢や天候まで調べた時期がある」
「どうして?」
「何か共通する条件がないかと思ってな。ただ、昔の記録は日付そのものが曖昧なことも多いから、全部を確かめられたわけじゃない」
「分かったのある?」
「あった」
その一言に、アリアたちは自然と卓へ近づいた。
マルルも皆の足元から紙を見上げ、エミールも今度は少しだけ距離を詰める。
「先祖がこの土地へ流れ着いたとされる年だ」
ハイラムの指が、紙の上で止まった。
「その頃、この辺りで月食が観測されている」
「月食」
ルカが紙を覗き込む。
「月が暗くなるやつ?」
「そうだ」
するとアリアが、すぐに顔を上げた。
「赤くなった?」
「そこまでは記録に残っていない」
「そっか」
期待していたぶんだけ、肩がほんの少し下がる。
「ただ」
ハイラムはもう一枚、別の紙を取り出した。
「こっちもだ」
「こっち?」
「別の地方で、それまで人の住んでいなかった場所へ、突然家々が現れたという記録がある」
その横へ、同じ頃の天文記録を並べた。
「この時期にも月食があった」
「二つ?」
「ああ。ただし、今のところ確認できたのは二つだけだ」
ノルンはしばらく二枚の紙を見比べていた。
「二つだけでは、偶然の可能性もありますね」
「ああ。だから俺も、証拠だとは思っていない」
「でも」
ルカが顔を上げる。
「ミレア湖でも、次の満月に月食がある」
「そうなの!」
アリアも勢いよく続けた。
「次のお月さま、赤くなるの!」
ハイラムが顔を上げる。
「次の満月?」
「うん」
「月食なのか?」
「皆既月食です」
ノルンが答えると、今度はハイラムが黙る番だった。
「……知らなかった」
「町の人なのに?」
「歴史を調べていても、毎月空を見上げてるわけじゃない」
「そっか」
「それに」
ハイラムは再び卓の紙へ視線を落とした。
「まさか、ここでまたつながるとは思ってなかった」
「何が?」
「俺の先祖の話と、ミレア湖だ」
卓の上には、それまで別々に集められてきた記録が並んでいる。
突然、知らない土地へ流れ着いた集落。
水辺で起きた出来事。
月食。
水の向こうに見えた、辿り着くことのできない故郷。
そして、何度も現れる「境」という言葉。
どれか一つだけなら、古い昔話として片づけることもできたかもしれない。
けれど、離れた場所に残された記録の中から似たものが少しずつ見つかり、それが今度はミレア湖へ残された言葉とも重なり始めている。
「ハイラムさん」
アリアが尋ねる。
「ミレア湖でも、流された人いたの?」
「それは見つけていない」
「じゃあ、なんで湖なの?」
「そこなんだよ」
ハイラムは椅子へ腰を下ろし、背もたれへ身体を預けた。
「俺がこの湖を調べ始めたのは、もっと後だ」
「先祖のことから?」
「ああ」
先祖の手記を見つけ、似た記録を探し、水辺という共通点へ気づいた。
そうして長く調べ続けるうちに、ミレア湖にも昔から奇妙な話がいくつも残っていることを知ったのだという。
「満月の夜に、湖の中央へ行くと岸へ戻れなくなる」
「船長さんも言ってた!」
「だろうな。船乗りなら聞いたことがある話だ」
「光を見る人もいるって」
「ああ」
「それも知ってる?」
「知ってる」
ハイラムは頷いた。
「俺が気になったのは、その先だ」
「先?」
「古い記録の中に、湖で見たものを書き残した人間が何人かいる」
「何見たの?」
「人によって違う」
ハイラムは別の紙を一枚広げた。
「森」
「森?」
「山だと言う者もいる。知らない町だったという話もある」
「湖なのに?」
「そうだ」
アリアは意味が分からず、水など一滴もない卓の上をじっと見つめた。
「水の上に山?」
「水面に映っていたらしい」
「湖の向こうにある山じゃなくて?」
「少なくとも、本人はそう書いていない」
ハイラムは次の紙へ手を伸ばした。
「これは、『水の下に知らない家々の灯りを見た』」
「沈んでる町?」
「そう思って潜ろうとした人間もいたらしいが、何もなかった」
「じゃあ、何だったの?」
「分からない」
ハイラムはそこで一度言葉を切ると、先ほどの古い手記をもう一度開いた。
「ただ、これを見つけてから、考え方が変わった」
『あの夜、水の向こうに故郷を見た』
先ほどノルンが読み上げた一文を思い出しながら、アリアは古い手記をじっと見つめた。
「湖に映ってたの?」
「先祖が見たのがミレア湖だったかどうかは分からない」
「でも」
「もし、水が別の場所を映すことがあるなら」
ハイラムがアリアを見る。
「ミレア湖で昔から見られているものも、本当に存在するどこかの景色かもしれない」
その言葉を聞いたアリアは、息をすることさえ忘れたようにハイラムを見つめた。
「じゃあ……」
声が自然と小さくなる。
「お父さんとお母さんがいるところも、見える?」
足元にいたマルルの長い耳が、ぴくりと動いた。
少し離れて立っていたエミールも、いつの間にか笑みを消している。
ハイラムはすぐには答えなかった。
答えられないのだと、アリアにも分かっている。それでも、聞かずにはいられなかった。
「見えるかもしれない?」
「可能性がないとは言えない」
ハイラムは言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「でも、期待させるようなことも言いたくない。俺が持っているのは、昔の記録と仮説だけだ」
「かせつ」
「こうかもしれない、という考えだ」
「まだ分からない?」
「ああ」
アリアは少しだけ黙った。
けれど、がっかりしたように俯くことはなかった。
村が別の場所へ流されたことは、女神様からすでに聞いている。
そして今日、その言葉とよく似た出来事が、本当に過去にもあったことを知った。
なら、今できることは一つだった。
「じゃあ、調べる」
「何を?」
「ほんとかどうか」
ハイラムが目を上げる。
「次の満月に」
アリアはまっすぐ言った。
「わたしたち、湖へ行くから」
「…………」
ハイラムの眉が動いた。
「湖へ出るのか?」
「うん」
「皆既月食の夜に?」
「うん」
「中央まで?」
「たぶん」
「たぶんで行くな」
それまでより少し強い声が返ってきて、アリアが目を瞬いた。
「船長さんも一緒だよ?」
「それなら多少は安心だが」
「準備もする」
今度はルカが口を挟んだ。
「夜の湖へ出るための灯りとか、戻る方法とか、今調べてる」
「それでも危険だ」
「分かってます」
ルカの返事に、ハイラムは何も言わなかった。
少し離れたところでは、エミールも真面目な顔で二人のやり取りを聞いている。
町を案内していただけのはずなのに、今日初めて知ったことは思っていたよりずっと大きかったらしい。
その様子を見ていたノルンが、静かに口を開いた。
「ハイラムさん」
「なんだ?」
「湖に関する記録を、もう少し詳しく見せていただけませんか?」
「全部か?」
「可能なら」
「……何日かかると思ってる?」
「必要なら何日でも」
「ノルン」
ルカが呼ぶ。
「満月まで、あと二週間くらいしかないよ」
「二週間もあります」
「ノルンにはそうなんだ」
アリアがくすっと笑いかけたところで、ふと何かを思いついた。
「持って帰れない?」
ハイラムはすぐに首を横へ振る。
「原本は駄目だ」
「そっか」
「でも、写しなら作れる」
その瞬間、ノルンの目がわずかに明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ。全部は無理だが、関係ありそうなものなら選んでおける」
「お願いします」
「返事が早いね」
エミールが思わず笑った。
「必要ですから」
「分かった。分かった」
ハイラムはしばらく考え、それから卓の上へ積まれた紙を見渡した。
「こっちでも整理しておく」
「ありがとうございます」
「ただし」
今度はアリアたちへ目を向ける。
「君たちの村のことも、もう少し聞かせてほしい」
「わたしたちの?」
「ああ」
「なんで?」
「これまで調べてきたものと、どこまで似ているのか確かめたい」
アリアは少し考えた。
村が消えた日のこと。
自分たちが見たもの。
何がなくなり、何が残っていたのか。
思い出すこと自体は、もう以前ほど怖くはない。それがお父さんとお母さんへつながるかもしれないのなら、なおさらだった。
「いいよ」
アリアは頷く。
「じゃあ話す」
◇
それからアリアたちは、村へ戻った日のことを、覚えている範囲で一つずつ話していった。
いつものように森から帰ったこと。
家があるはずの場所へ着いたこと。
それなのに、村がなくなっていたこと。
お父さんも、お母さんもいなかったこと。
家だけではなく、その周りにあったものまで消えていたこと。
ハイラムは途中で口を挟まず、聞いたことを紙へ一つずつ書き留めていった。
マルルも、あの日自分が覚えていることを聞かれれば答え、分からないことには長い耳を揺らしながら「分からないなの」と正直に返した。
エミールは少し離れた場所に立ったまま、今度はほとんど口を挟まなかった。
アリアたちがどうして旅をしているのかは知っていた。
けれど、家へ帰った時に村そのものがなくなっていたという出来事を、これほど詳しく聞いたのは初めてだった。
「村の近くに、大きな川や湖は?」
「川?」
アリアは記憶をたどる。
「小さい川ならあったよ」
「泉は?」
「森に、お水が出るところあった」
「村の中?」
「ちょっと離れてる」
「ほかには?」
質問は続いた。
アリアは覚えていることを答え、分からないものには分からないと答えた。ルカも、自分が覚えていることがあれば横から補い、ノルンは二人と一匹の話を遮ることなく静かに聞いていた。
「なるほど……」
最後に、ハイラムが鉛筆を置いた。
「何か分かった?」
「まだだ」
「まだ?」
「一回聞いただけで分かったら、俺はこんなに何年も調べてない」
「そっか」
あっさり納得したアリアを見て、ハイラムが小さく笑った。
「ただ、一つ、見方を変えた方がよさそうだ」
「見方?」
「ああ」
ハイラムは、今しがた自分が書いた紙へ指を置いた。
「昔の記録は、ほとんどが『流されてきた側』の話だ」
「流されてきた側?」
「知らない場所へ突然現れた人間たちだよ」
「あ」
アリアは卓の上へ並んでいる古い記録を見た。
昨日までとは違う土地で目を覚ました人たち。
家や畑ごと、知らない場所へ移ってしまった人たち。
確かに、これまでハイラムが見せてくれたのは、そういう人たちの側から残された記録ばかりだった。
「でも、君たちが見たのは逆だ」
今度はルカも顔を上げる。
「逆?」
「ああ」
ハイラムは、アリア、ルカ、マルルへ順番に視線を向けた。
「村の方がいなくなって、君たちはこちらに残った」
「…………」
アリアの表情が止まった。
同じ出来事なのに、そんなふうに考えたことは一度もなかった。
自分たちはずっと、いなくなったお父さんとお母さんを探してきた。
家がなくなった。
村のみんながいなくなった。
だから、自分たちが取り残されたのだと思っていた。
けれど。
「向こうから見たら……」
ルカが小さく呟いた。
ハイラムが頷く。
「そうだ。村がそのまま別の場所へ流されたのなら、向こうから見れば、突然いなくなったのは君たちの方になる」
アリアの目が、ゆっくり大きくなった。
お父さんとお母さんから見れば。
朝にはいつものように森へ出かけていったアリアたちが、いつまで待っても帰ってこなかったことになる。
「お父さんたちも……」
アリアの声が小さくなる。
「わたしたち、探したかな」
誰もすぐには答えなかった。
けれど隣にいたルカの猫耳が、ほんの少しだけ伏せる。
「たぶん」
それでも声はしっかりしていた。
「探したと思う」
足元から、もう一つ小さな声が重なった。
「ぼくも、そう思うなの」
アリアがマルルを見る。
マルルは長い耳を少しだけ垂らしていたけれど、アリアから目を逸らさなかった。
「きっと、探したなの」
「……うん」
アリアは小さく頷いた。
少し離れたところにいたエミールも、何も言わなかった。
けれど、いつの間にかその顔からは、町を歩いていた時の気楽な笑みが消えていた。
今までずっと、自分たちだけがお父さんとお母さんを探しているような気がしていた。
けれど、もし村のみんなが別の場所で無事にいるのなら。
向こうでも同じように、帰ってこないアリアたちを探しているのかもしれない。
そう考えると胸の奥が少し苦しくなるのに、不思議と、寂しいだけではなかった。
お父さんも。
お母さんも。
自分に会いたいと思ってくれているかもしれない。
それは、今まで考えたことのなかったことだった。
ハイラムはアリアたちが黙ったままなのを急かさず、しばらく待ってから、書き留めた紙へ視線を戻した。
「それと、調べるならもう少し詳しく知りたいことがある」
「なに?」
アリアが顔を上げる。
「村のどこまでがなくなっていたのかだ」
「どこまで?」
「ああ。家や畑だけなのか、道もなのか。森との境はどこだったのか。何がなくなって、何がこちら側に残ったのか」
ルカも少し考える。
「前に戻った時、そんなところまで見てなかった」
「その時は、そんなこと考えられなかったもん」
アリアが言うと、ルカは少しだけ笑った。
「そうだね」
あの日は、家があったはずの場所を探すだけで精いっぱいだった。
どこまでなくなっているのか、何が残っているのかを調べようなどと思えるはずもない。
「村の外にいたから、ぼくたちは残ったのかな」
ルカが尋ねると、ハイラムは少し考えてから頷いた。
「それが一番分かりやすい可能性だな。君たちは三人とも、その時は村の外にいたんだろう?」
「うん」
アリアが頷く。
「森にいたよ」
「なら、それで説明できる可能性は十分ある。ただ、そのことを確かめるためにも、どこまでが一緒に流されたのかは知っておきたい」
あくまで調べるための確認なのだと分かり、ルカも頷いた。
「じゃあ、今度戻った時は見てみよう」
「うん。わたしも見る」
「ぼくも見るなの」
マルルまで胸を張る。
「何を見るか、忘れないでね」
エミールがようやく口を挟むと、アリアが振り返った。
「覚えてるよ?」
「今日だって町へ入ってすぐ三回止まったじゃないか」
「それは忘れたんじゃないもん」
「じゃあ大丈夫かな」
「大丈夫!」
ほんの少しだけ、店の中へいつもの空気が戻った。
ハイラムはそんなやり取りを聞きながら、新しい紙を一枚取った。
「今分かっていることだけ、分けて考えた方がいいな」
そう言って、紙へ短い言葉を書き始める。
アリアは何を書いているのか気になり、少しだけ身体を前へ寄せた。
「なに?」
「今、分かっていることだ」
ハイラムは書き終えた紙を、皆から見える方へ向けた。
そこには、
『村は移動した。アリアたちは残った』
と書かれていた。
「わたしたち……」
アリアは、その一文をゆっくりと読んだ。
村が別の場所へ流されたことは、すでに女神様から聞いている。
だから、それ自体が今日初めて分かったわけではない。
けれど、ハイラムの先祖たちの記録を知ったことで、その言葉は今までとは少し違って見えるようになっていた。
本当に、家も畑も人も一緒に別の土地へ移り、そこで暮らし続けた人たちがいた。
なら、お父さんとお母さんたちも、どこかで同じように暮らしているのかもしれない。
そして、自分たちはその場所へは行かず、こちら側に残った。
村の外にいたからなのか。それとも、どこまでが一緒に流されたのかを確かめれば、ほかにも何か分かることがあるのか。
それは、これから調べていけばいい。
けれど今のアリアの胸に一番強く残っていたのは、そのことではなかった。
もし向こうでも同じように時間が流れているのなら。
お父さんとお母さんも、自分たちを探しているのかもしれない。
アリアは紙に書かれた文字をもう一度見つめ、それから白いポシェットの上へそっと手を置いた。
探しているのは、自分たちだけではないのかもしれない。
そう思うと、まだどこにいるのかも分からない家族との距離が、ほんの少しだけ近くなったような気がした。




