第93話 本邸での一日
お茶会から二日後。
朝の飛行練習を終えたアリアが庭から別邸へ戻ってくると、玄関の前に一台の馬車が止まっていた。
「あ」
まだ身体に飛んでいた時の感覚を残したまま、アリアの足が止まる。
見覚えのある馬車だった。
扉に刻まれた紋章を確かめているうちに、ちょうど玄関からクラリッサが姿を見せた。
「おかえりなさい、アリア」
「クラリッサおばちゃん!」
この前のお茶会では、何度も気をつけて「クラリッサ様」と呼んだ。
けれど今日はもうお茶会ではない。
そう意識するより早く、いつもの呼び方が口から飛び出していた。
「今日はちゃんと、おばちゃんですね」
「うん。お茶会じゃないもん」
「覚えていたのね」
「覚えてるよ!」
得意になって胸を張りかけたところで、昨日まで何度も言われたことを思い出し、途中で少しだけ力を抜く。
そんなアリアを見て、クラリッサが笑った。
「そこまで続けなくても大丈夫ですよ」
「そっか」
アリアもつられて笑った。
飛行練習から戻ったばかりなので、水色の髪にはまだ少し風に吹かれた跡が残り、背中の小さな白い羽もいつもよりわずかに開いている。
クラリッサがわざわざ馬車で来ていることへ改めて気づき、アリアは首を傾げた。
「今日は何しに来たの?」
「あなたたちを迎えに来たのです」
「迎え?」
「本邸へ遊びにいらっしゃいませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、アリアの目が大きくなった。
「本邸!」
名前だけなら、ここへ来てから何度も聞いている。
ヴォルターが普段暮らしている家で、クラリッサやリオネルたちの生活の中心でもある場所。
別邸よりもっと大きいらしいという話も聞いた。
けれど、アリアたちはまだ一度も行ったことがない。
「行く!」
返事は、考えるより先に出た。
「ルカも?」
「もちろん」
「ノルンも?」
「ええ」
「マルルも?」
「それは置いていったら怒るでしょう?」
「怒るなの!」
返事が足元から聞こえた。
いつの間にか玄関の中まで来ていたマルルが、長い耳を揺らしながらこちらを見ている。
「まだ何も言ってないよ」
「聞こえたなの」
その後ろからルカとノルンもやって来た。
「本邸って、ここからどのくらい?」
ルカが尋ねると、クラリッサは馬車の方を見ながら答えた。
「馬車なら、それほどかかりませんよ」
「お城みたい?」
今度はアリアが聞く。
「お城ではありません」
「大きい?」
「別邸よりは」
「もっと?」
「もっと」
アリアは一度、今いる別邸を振り返った。
初めてここへ来た日には、玄関へ入っただけで思わず天井を見上げてしまった。
廊下は長いし、知らない部屋がいくつもある。庭だって、まだ全部歩いたわけではない。
それよりも大きい。
「……もっと?」
今度の声は、少し小さくなった。
隣でルカがアリアの顔を見る。
「緊張してきた?」
「してないよ」
「ほんと?」
アリアは少し考えた。
「……ちょっとだけ」
そこだけは正直だった。
◇
朝食を済ませ、出かける支度を整える頃には、ノルンも自分の荷物を準備していた。
前側には、これまでにはなかった古い木箱が収まっている。
数日前、イレーネに頼んでいた木箱用の革のホルダーが、昨日ようやく出来上がったのだ。
幅のある革帯が箱の底と両脇を包み込むように支え、木箱そのものには穴も金具も付けられていない。そこから伸びた帯を肩へ掛けることで、古い木箱を身体の前に安定させて下げられるようになっていた。
箱を直接抱えて歩く必要がないうえ、蓋の部分は革で覆わない作りになっているため、そのままでも必要な時には木箱を開けることができる。
「ノルン、今日はそれで行くの?」
「はい。せっかく作っていただきましたから」
アリアはノルンの前へ回ると、革帯に包まれた木箱がちゃんと身体の前に収まっているのを、もう一度確かめた。
「ほんとに手、あいてる!」
「そうですね」
「走れる?」
「試しません」
「えー」
「アリアが急に走らなければ、必要ありません」
「……気をつける」
ルカが横からノルンの背中を見て、小さく笑った。
「前よりは、ね」
「ルカ!」
朝食を済ませ、出かける支度を整えると、アリアたちはクラリッサの馬車へ乗り込んだ。
今日は正式なお茶会ではないので、アリアが着ているのも先日の特別なドレスではない。淡い色の夏用ワンピースに、いつもの白いポシェット。低い位置で二つに結んだ水色の髪には、青いリボンが揺れている。
ルカも旅服ではなく、別邸で用意してもらった少しきちんとした服を着ていた。
馬車が別邸を出ると、アリアはすぐに窓へ寄った。
最初は見慣れてきた湖畔の道を進んでいたけれど、途中から別の街道へ入り、それまで窓の外に見えていたミレア湖が少しずつ木々の向こうへ隠れていく。
代わりに増えてきたのは、広い畑と牧草地だった。
湖の近くとは景色そのものが違う。
アリアが窓へ顔を寄せて眺めていると、柵の向こうに何頭もの馬が見えた。
「お馬さん!」
声と一緒に指が伸びる。
「本邸の周りには、馬を育てている場所もありますよ」
向かいに座るクラリッサが教えてくれた。
「乗れる?」
「馬に?」
「うん」
「乗ってみたいの?」
「乗ってみたい!」
迷いのない返事に、隣のルカがすぐ口を挟んだ。
「アリア、馬に乗ったことないでしょ」
「あるよ?」
「いつ?」
「ルカ」
「僕は馬じゃないよ」
「でも乗るよ?」
「猫の時でしょ」
「同じじゃないの?」
「絶対違うと思う」
アリアは少し考えた。
大きなラグドールになったルカの背中へ乗って走ったことなら、もう何度もある。
ルカが馬ではないことくらい分かっているけれど、背中へ乗って走るというところは同じではないのだろうか。
「乗ってみたら分かるね」
「もう乗ることになってる……」
ルカが小さく息を吐く。
そんな二人を、クラリッサは楽しそうに見ていた。
「小さな馬もいますから、あとで見に行ってみましょうか」
「小さいお馬さん?」
「ポニーという種類ですよ」
「ポニー」
初めて聞いた名前を、アリアは確かめるようにもう一度口にした。
「ルカより大きい?」
「猫のルカと比べるんですか?」
「だって乗るなら大事だよ」
「僕を基準にしないで」
ルカの抗議を聞きながら、アリアの中ではもう、小さな馬へ乗っている自分の姿が出来上がり始めていた。
◇
本邸が見えてきたのは、それからしばらくしてからだった。
「……あれ?」
窓の外を眺めていたアリアが、少し身を乗り出した。
最初に見えたのは高い石壁と大きな門だった。
その向こうには建物が一つではなく、いくつもの棟が奥へ続いている。さらにその後ろには、別邸では見たことのないほど高い屋根まで見えていた。
どこからどこまでが本邸なのか分からず、アリアはしばらく窓の外を眺めたあと、クラリッサを振り返った。
「全部?」
「全部ですよ」
「…………」
一度、座席へ戻る。
けれど、やっぱり気になってもう一度窓へ顔を寄せた。
「おうち?」
「おうちです」
「人、何人住んでるの?」
「それは後で数えてみます?」
アリアは別邸へ着いた日のことを思い出した。
玄関に並んでいた人たちを一人ずつ数えようとして、途中で分からなくなった。
「……やめとく」
「賢明ですね」
馬車が門をくぐると、本邸の広さはさらによく分かった。
正面の建物へ向かう道の左右には、きれいに整えられた庭が広がっている。その向こうにも別の建物があり、少し離れた場所では馬が動いていた。
そして反対側からは、何か硬いもの同士がぶつかる音が聞こえてくる。
かん。
ぱしん。
アリアがそちらを見るより早く、ルカの猫耳がぴくりと動いた。
「何の音?」
「訓練場ですよ」
クラリッサが答える。
「騎士?」
「ええ。南方騎士団の者も来ています」
今度はルカが窓へ寄った。
さっきまで馬を見ていたアリアと、ほとんど同じ顔をしている。
「ルカ、見たいんでしょ」
「ちょっとだけ」
「見たい顔してる」
「アリアも馬見たい顔してるよ」
「だって見たいもん」
「僕も見たいよ」
二人で顔を見合わせる。
その向かいで、ノルンだけは窓の別の方向を見ていた。
「ノルンは?」
「何がです?」
「何見たい?」
「特には」
「ほんと?」
「ええ」
いつもの落ち着いた返事だった。
けれど馬車が正面玄関へ向かう途中、別棟の前を通った時だった。
庭の一角で淡い光がふわりと膨らみ、次の瞬間、ぱちん、と弾けて消えた。
ノルンの目がすぐにそちらへ向く。
アリアは見逃さなかった。
「ノルン、今見た」
「見ました」
「気になる?」
ノルンはもう一度、光が消えた場所を見た。
「……少しだけ」
「みんな見たいのあるね」
そう言うと、ノルンも少しだけ笑った。
「そうですね」
◇
本邸の正面玄関では、ヴォルターが待っていた。
その隣にはリオネルとエミールもいる。
「こんにちは!」
馬車から降りたアリアは、いつもの勢いで三人のところへ駆けていこうとした。
けれど、二歩目が出る前にこの前の練習を思い出す。
少し速度を落とし、今度は歩いて近づいた。
まずヴォルターの前で止まる。
「ヴォルター様。こんにちは」
「…………」
ヴォルターの太い眉が、ほんの少しだけ上がった。
その横でリオネルが先に笑う。
「様になってる」
「お茶会で覚えたの!」
「僕は?」
「え?」
「僕には様、付かないの?」
アリアはリオネルを見る。
少し考えた。
「……リオネル」
「付かないんだ」
「いつも通りでいいって言われてない」
「誰に?」
「聞いてない」
「じゃあ、基準は何なの?」
「…………」
アリアは助けを求めるように後ろを振り返った。
昨日までなら、そこにエレノアがいた。
けれど今日は一緒に来ていない。
「自分で考えるところになったね」
ルカが横から言う。
困った顔になったアリアを見て、ヴォルターが小さく息を吐いた。
よく見ると、笑っている。
「ここでは、いつも通りで構わない」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、ヴォルターさん?」
「それもいつも通りだな」
「うん!」
許可が出た途端、アリアの顔も声もすっかり元へ戻った。
その少し向こうでは、エミールがマルルを見ていた。
視線に気づいたマルルも見返す。
「エミールなの」
「今日もいるね」
「いるなの」
「撫でる?」
「いいなの」
もう片手を伸ばしかけている。
「エミール」
リオネルが呆れたように呼んだ。
「ちゃんと挨拶してからにしたら?」
「あ」
エミールもそこで気づいたらしい。
マルルへ伸ばしていた手を途中で止める。
「こんにちは」
「こんにちはなの」
「これでいい?」
「いいなの」
「マルルが決めるんだ」
ルカが笑い、玄関先にあった少しだけよそ行きの空気は、あっという間にいつものものへ変わっていった。
◇
本邸の中を案内してもらううちに、アリアはここが別邸とはずいぶん違う場所なのだと感じ始めていた。
もちろん、大きい。
広い食堂もあれば、何人もの客を迎えられそうな応接室もある。長い廊下の先にはまた別の廊下があり、全部の部屋を見て回ろうとすれば、一日ではとても足りないらしい。
けれど違うのは、大きさだけではなかった。
別邸では、廊下を歩いていても、どこかゆっくりしている。
ここでは人が絶えず動いている。
紙の束を抱えて早足で歩く人がいたかと思えば、別の誰かがヴォルターを探してやって来る。騎士が報告を持ってくることもあれば、役人らしい人が書類を抱えて部屋へ入っていくこともあった。
別邸が、みんなで暮らすための大きなお家なら。
ここは、たくさんの人が仕事をする場所でもある。
アリアにも、何となくその違いが分かってきた。
「ヴォルターさん、ここでもお仕事いっぱいだね」
「ここでも、というのは?」
「別邸でもしてた」
「ああ」
「ずっと?」
「そういう日もある」
アリアは廊下の向こうへ消えていった紙の束を思い出した。
「大変」
「前にも言われたな」
「今も大変そう」
冗談ではなく、本気で心配している顔だった。
ヴォルターは一瞬だけアリアを見たあと、また少し笑った。
◇
本邸の庭へ出ると、馬車から聞こえていた音が今度ははっきりと届いてきた。
訓練場では何人もの騎士が木剣を持って向かい合い、隣では弓の練習をしている。
さらに奥では、魔術師たちが魔法を使っていた。
風が一か所へ集まったかと思えば、形を作る前にほどけて消える。少し離れた場所では土が盛り上がって低い壁になり、その隣では淡い光の膜が広がりかけたものの、片側だけ大きく歪んで消えた。
「わあ……」
アリアは首を忙しく動かした。
見たいものが多すぎて、どこから見ればいいのか分からない。
けれど、隣の二人は違っていた。
ルカは最初から騎士たちの方を見ている。
ノルンの目は、魔法を使っている人たちへ向いている。
そしてアリア自身は、そのさらに奥にある厩舎から目を離せなくなった。
そこに、普通の馬よりずっと小さな馬が見えた。
「ポニー!」
「まだ教えてないのによく分かったね」
リオネルが笑う。
「小さいもん!」
「それだけ?」
「それで分かるよ」
アリアの身体は、もう厩舎の方へ向いていた。
けれど一歩進んだところで、隣のルカを見る。
ルカはまだ訓練場から目を離していない。
「ルカ、ここ見る?」
「いいの?」
「わたし、お馬さん見る」
「一人で?」
「クラリッサおばちゃんいるよ」
それなら、とルカの耳がまた訓練場へ向く。
アリアは今度はノルンを見た。
「ノルンは?」
「わたしは、あちらへ行ってみます」
視線の先では、先ほど失敗した魔術師が、もう一度光の膜を作ろうとしていた。
今度も片側が少し歪んだ。
「ノルン、気になるんだ」
「少しだけです」
「さっきも言ってた」
三人が、それぞれ別の方向を見ている。
それに気づいた時、アリアはほんの少しだけ不思議な気持ちになった。
旅へ出てから、三人はほとんどいつも一緒だった。
知らない道を歩く時も。
町へ入る時も。
何かを探す時も。
食事をする時も、眠る時でさえ、近くにいることが多かった。
けれど今は、同じ庭の中にいるのに、それぞれ見たいものが違う。
離れることが嫌だったわけではない。
ただ、少しだけ新鮮だった。
「あとで戻ってくる?」
「戻るよ」
ルカがすぐ答えた。
「わたしも」
ノルンも頷く。
それを聞いただけで、アリアの中にあった小さな不思議さは、すぐ楽しみへ変わった。
「じゃああとで、何したか教えてね」
「アリアもね」
「うん!」
そうして三人は、旅へ出てから初めてといっていいくらい自然に、同じ場所から別々の方向へ歩き出した。
◇
「この子ならどうかしら」
クラリッサが連れてきたのは、普通の馬よりはずっと小さいけれど、アリアよりは十分に背の高い栗色のポニーだった。
丸みのある身体に太めの脚。
近くまで行くと、大きな目がじっとアリアを見ている。
「こんにちは」
アリアが声を掛けると、ポニーの鼻が少し動いた。
「聞こえた?」
「聞こえていますよ」
そばにいた厩舎の係が笑う。
「触ってもいい?」
「まずは、手を見せてあげてください」
「手?」
「知らない人に急に触られたら、アリア様もびっくりするでしょう?」
「ああ」
それなら分かる。
アリアはすぐに手を伸ばすのをやめ、代わりに掌を見せるようにして、ゆっくり前へ差し出した。
ポニーの鼻先が近づいてくる。
ふん、と温かい息が指へ触れた。
「くすぐったい」
思わず笑ったけれど、手は引かなかった。
もう一度匂いを確かめるように鼻を寄せたあとも、ポニーは逃げなかった。
「もう触っていい?」
「今なら大丈夫でしょう」
アリアは首の辺りへそっと手を置いた。
思っていたより温かい。
毛も、ルカがラグドールになった時とは全然違う。
大きな猫の柔らかな毛とは違って、もっと短く、触れた手の下にはしっかりした身体の形がある。
「違うね」
「何とです?」
「ルカ」
係の人が意味を理解できずにいる横で、クラリッサだけが小さく笑った。
「乗ってみます?」
「乗る!」
返事だけはすぐだった。
鞍へ上がる時には係の人に手伝ってもらった。
ポニーの背中へ座り、教えてもらった通りに手綱を持つ。
さっきまで下から見ていた地面が少し遠くなった。
「…………」
アリアは身体を少し前へ倒した。
けれどポニーは動かない。
「行かない」
「まだ何も伝えていませんからね」
「行くって思ったよ?」
「思っただけでは、分からないこともあります」
アリアは少し驚いてポニーの耳を見る。
「ルカは分かるよ」
「ルカさんは、アリア様のことをよく知っているのでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、アリアは少しだけ納得した。
「そっか」
ルカなら、言わなくても分かる。
自分がもっと速く走ってほしい時も、少しゆっくりしてほしい時も、何度も一緒に走るうちに、身体を動かしただけで気づいてくれることが増えた。
それは、ルカだからだったのだ。
このポニーとは、今日初めて会ったばかり。
「じゃあ、どうするの?」
「一つずつ覚えましょう」
手綱は強く引かない。
身体を固くしすぎない。
まずはゆっくり歩いてもらう。
教えてもらった通りにやってみると、ポニーが一歩前へ進んだ。
「動いた!」
嬉しくなった身体が、思わず弾む。
当然、ポニーの背中も一緒に動いた。
「わっ」
身体が揺れた。
けれど落ちなかった。
ポニーの背中が動いた瞬間、アリアの腰も自然にその動きへついていったからだ。
係の人が少し驚いた顔をした。
「乗ったことがあるのですか?」
「あるよ!」
「馬に?」
「ルカに」
「……ルカ様?」
「大きな猫になるの」
「猫……」
どう説明すればいいのか分からない顔になった係の人を見て、クラリッサがとうとう笑った。
「その話は、あとでゆっくり聞いてください」
ポニーがもう一歩進む。
今度はアリアも、自分の身体ではなく背中の動きへ意識を向けてみた。
ルカとは違う。
身体の動く速さも、背中の広さも、揺れ方も違う。
けれど、揺れた時に無理に逆らわず、その動きへ身体を合わせる方がいいところは少し似ていた。
「もう一回」
歩く。
止まる。
また進む。
少しずつ向きを変える。
何度か繰り返すうちに、さっきまで手綱を持つだけで少し固くなっていた肩から、力が抜けていった。
「できる!」
「まだ歩いているだけですよ」
「でも、できる!」
「それはそうですね」
ポニーの耳がぴくりと後ろへ動いた。
その動きを見たアリアが笑う。
「ルカみたい」
「猫と馬は違いますよ」
「でも、お耳動く」
「それは動きます」
「名前ある?」
「ミントです」
「ミント」
アリアは新しく覚えた名前を呼びながら、少しだけ身体を前へ寄せた。
「よろしくね」
ミントの耳が、もう一度ぴくりと動いた。
「返事した」
本当にそうだったかどうかは分からないけれど、アリアはそう思うことにした。
◇
同じ頃、訓練場ではルカがエミールと向かい合っていた。
「本当にやるの?」
「見たいって言っただろ」
「見たいとは言ったけど」
「だったら、見るだけじゃなくて少しくらいやってみればいい」
エミールが持っているのは刃のついていない練習用の木剣だった。
ルカには何も持たせていない。
「別に、剣を使えるようになる必要はないよ」
「じゃあ何するの?」
「まずは避ける」
「避けるだけ?」
「最初はね」
エミールが軽く木剣を構えると、ルカの猫耳が自然に前を向いた。
「行くよ」
「うん」
木剣が肩の近くへ伸びてくる。
ルカの身体は考えるより早く横へ動いた。
「速いな」
「猫だから」
「でも、もう一回」
今度は反対側から来る。
それも避ける。
さらにもう一度。
また避けた。
四度目。
木剣から逃れること自体はできたものの、その勢いで後ろへ下がった足が少し流れた。
そこで、エミールの動きが止まった。
「今」
「なに?」
「避けることしか考えてなかった」
「でも避けたよ?」
「うん。でも、そのあと後ろに何があるか見てない」
言われてルカが振り返る。
ほんの少し後ろに、訓練用の木の柱があった。
「……ぶつかる」
「そう」
エミールは木剣を肩へ乗せた。
「避ける速さなら、たぶん僕より速い。でも、避けたあとどうするのかまで決めた方がいい」
「どうするって?」
「逃げるのか。相手から離れるのか。それとも、誰かを守るのか」
最後の言葉に、ルカの耳が小さく動いた。
「守る」
「誰を?」
答える必要はなかった。
エミールにも分かったらしい。
「だったら、自分だけ避けたら駄目だね」
ルカは少し黙って木剣を見た。
旅の途中で危ないことは何度もあった。
アリアが先へ走ってしまったこともあった。
目の前で何かが起きているのに、自分には何もできず見ているしかなかったこともある。
避けられるだけでは、足りない。
「もう一回」
「いいよ」
今度は、ルカの方から立つ位置を少し変えた。
自分の後ろに誰かがいるつもりで。
その動きを見て、エミールが少し笑った。
「そういうこと」
◇
そしてノルンは、魔術師たちの練習を少し離れたところから眺めていた。
何度目かの光が広がる。
薄い膜のようなものが空中へ現れるけれど、途中から右側だけが大きく膨らみ、形を保てないまま崩れて消えた。
「……またか」
魔術師の一人が息を吐く。
「魔力を増やしているのに安定しない」
その言葉を聞いて、ノルンの眉がほんの少し動いた。
「増やすからではありませんか?」
「え?」
魔術師が振り返る。
いつの間に近くにいたのか気づいていなかったらしい。
「君は……」
「ノルンです」
「ああ。例の子どもたちと一緒にいる」
「はい」
ノルンは、さっき光が消えた場所へ視線を戻した。
「もう一度していただけますか?」
「分かるのか?」
「見れば」
魔術師は少し戸惑ったものの、もう一度手を上げた。
魔力が集まり、光の膜が広がる。
先ほどと同じように、途中から右側だけが大きく膨らんだ。
「そこです」
「どこだ?」
「右へ流れすぎています。強くしようとして、そちらへ必要以上に魔力を流しています」
「右へ……」
「全体へ同じように流してみてください。増やす必要はありません」
言われた魔術師は半信半疑のまま、もう一度魔力を集めた。
今度の光は、先ほどよりゆっくりと広がっていく。
大きさも少し小さい。
けれど、途中で歪まない。
やがて丸い光の膜が、そのまま空中へ残った。
「……できた」
「はい」
「これだけ?」
「これだけです」
そのやり取りを見ていた別の魔術師まで近づいてくる。
「今の、もう一度説明してくれないか?」
「構いません」
すると、さらに一人が振り返った。
「こっちも見てもらっていいか?」
ノルンは少しだけ周囲を見た。
いつの間にか人が増えている。
「順番にしてください」
それでも帰ろうとはしなかった。
◇
昼を少し過ぎた頃。
三人はようやく本邸の庭にある木陰で合流した。
先に戻っていたアリアは、椅子へ座って冷たい果実水を飲みながら足をぶらぶらさせていたけれど、ルカの姿を見つけた途端に顔を上げた。
「ルカ!」
「ただいま」
「何した?」
聞きたいことが溜まっていたらしい。
待ちきれずに身を乗り出す。
「エミールに何回も攻撃された」
「えっ!」
アリアの目が一気に大きくなった。
「大丈夫!?」
「木の剣だよ。それに当たってないから」
「一回だけ掠った」
後ろから来たエミールが付け足す。
「言わなくていいよ」
「当たったの!?」
「ちょっとだけ!」
今度は本当に心配になったらしく、アリアはルカの腕を見始めた。
「どこ?」
「もう何ともないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
何度か確かめて、ようやく安心する。
「アリアは?」
今度はルカが聞いた。
すると顔がすぐに明るくなった。
「お馬さん乗った!」
「もう?」
「ミント!」
「名前?」
「うん! 歩いたよ。曲がったよ。止まったよ」
「一人で?」
「途中から!」
話したいことが多すぎるらしく、次々に言葉が出てくる。
「ルカに乗るのと、ちょっと似てた」
「似てないって言ったでしょ」
「ちょっと似てたよ」
「どこが?」
アリアは少し考えた。
「落ちないところ」
「それ、アリアの問題じゃない?」
「あれ?」
そこへノルンが戻ってきた。
「ノルン!」
「はい」
「何した?」
「魔術師の方々と、少しお話をしていました」
「お話?」
「はい」
アリアとルカが、ほとんど同時にノルンの後ろを見る。
少し離れたところでは、何人かの魔術師がまだこちらを見ながら何か話していた。
ルカの猫耳が動く。
「本当に話だけ?」
「少し、魔法も見ました」
「教えた?」
「少しだけです」
アリアの目が丸くなった。
「ノルン、先生したの?」
「先生ではありません」
「でも教えたんでしょ?」
「少しです」
「先生だよ」
「違います」
「先生なの」
マルルまで横から加わる。
「違います」
今度は返事が少しだけ速かった。
それがおかしくて、アリアとルカが笑った。
朝、この庭へ着いた時。
三人はそれぞれ違うものを見ていた。
アリアは馬を見つけた。
ルカは騎士たちへ目を向けた。
ノルンは魔法が気になった。
ほんの少しの間、それぞれ別の場所で違うことをしていたのに。
戻ってみれば、話したいことがたくさんあった。
アリアはそれが、少し面白かった。
一緒にいるから同じことをしなくてもいい。
別々のところへ行ったからこそ、戻ってきた時に知らない話を聞ける。
「また来てもいい?」
アリアがクラリッサへ尋ねた。
「もちろん」
「ミントにも乗る!」
「練習すれば、もっと上手になりますよ」
「じゃあ練習する!」
「僕も来ようかな」
ルカが言う。
「エミールと?」
「まあ」
エミールが少し笑った。
「次は掠らないようにね」
「次は全部避ける」
「避けるだけじゃ駄目って教えたでしょ」
「あ」
まだ覚えることが残っていたらしい。
そこへ、先ほどノルンと話していた魔術師の一人が近づいてきた。
「あの」
「はい」
「次にこちらへ来る日が分かれば、教えてもらえないだろうか」
「…………」
ノルンが少しだけ黙る。
すぐ横から、アリアが顔を出した。
「ノルン、また先生だって!」
「先生ではありません」
「でも待ってるよ?」
「少し見るだけです」
「やっぱり先生」
「アリア」
「はぁい」
返事だけは、とても素直だった。
木陰に笑い声が広がる。
ミレア湖へ着いたばかりの頃、アリアは次の満月まで一か月近く待たなければならないと聞いて、その時間をとても長く感じていた。
早く月が満ちればいいのに。
早く次の欠片を探しに行きたい。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今日だけでも知らないことがいくつも増えた。
ポニーへ乗った。
初めての相手には、思っているだけでは伝わらないことも知った。
ルカは訓練場で新しいことを覚え、ノルンにはもう次に来るのを待っている人までできている。
明日になれば、また別のことが起きるのかもしれない。
アリアは果実水を飲み終えると、本邸の向こうに広がる青い空を見上げた。
まだ昼を少し過ぎたばかりだった。
次の満月までは、まだ時間がある。
けれど、その時間をただ「待つだけの時間」だと思うことは、いつの間にか少なくなっていた。




