第91話 レディーへの第一歩
翌朝。
アリアが目を覚ました時、最初に頭へ浮かんだのは、次の満月でも、昨日書いていた手紙でもなかった。
「……レディー」
まだ半分眠ったまま、小さく呟く。
昨日、エレノアおばあちゃんが言っていた。
次の満月までここにいる間に、少し新しいことを覚えてみませんか、と。
お茶の飲み方や、歩き方、座り方。それに挨拶の仕方もあるらしい。
けれどアリアには、その辺りがまだよく分かっていなかった。
歩くことなら毎日しているし、椅子にも毎日座っている。誰かに会えば、ちゃんと「こんにちは」と言っている。
それなのに、どうしてわざわざ覚えることがあるのだろう。
ただ、ドレスを着るとも聞いた。
お茶会もするし、それに、お菓子もある。
そこまで思い出したところで、アリアの眠気はずいぶん消えていた。
隣の寝台では、もう起きていたルカが靴紐を結んでいる。
「ルカ」
「なに?」
「今日、レディーする日だよ」
「そうだね」
「何するのかな」
「昨日聞いたでしょ。歩いたり、座ったり、お茶を飲んだり」
「ドレスも着るよ」
「そこだけよく覚えてるね」
「お菓子もある」
「それも覚えてるんだ」
アリアは満足そうに笑った。
何をするのか全部分からなくても、何となく楽しそうだということだけは、もう分かっている。
だったら、やってみればいい。
昨日まで知らなかったことなら、今日知ればいいのだ。
そう思うと、いつもの朝なのに、少しだけ違う一日が始まるような気がした。
◇
朝食を終え、庭でいつもの飛行練習を済ませて部屋へ戻ると、侍女がアリアを待っていた。
「アリア様、お着替えをいたしましょう」
「もうドレス?」
すぐに目を輝かせたアリアへ、侍女が笑う。
「今日はまず、練習用のお洋服ですよ」
「練習用?」
てっきり、昨日聞いた素敵なドレスをもう着られると思っていたので、膨らんだ期待が少しだけしぼんだ。
「動きやすいお洋服で練習してから、あとでお茶会用のお洋服も合わせるそうですよ」
「あとで?」
「はい」
「じゃあいい!」
しぼんだ期待は、すぐに元へ戻った。
着替えたのは、いつもの旅服より少しきちんとした夏のワンピースだった。動きやすい柔らかな布で仕立てられ、白を基調に淡い水色が入っている。
アリアは鏡の前に立つと、左右の裾をつまんでみた。
いつもの服より、少しだけお姉さんに見えるような気がする。
「これでもレディー?」
「服だけでは決まりませんよ」
後ろから聞こえた声に振り返ると、そこにはエレノアとセレフィナが立っていた。
「じゃあ、何で決まるの?」
「それを、これから覚えましょう」
「うん!」
アリアはすぐに頷いた。
それなら、今から分かる。
知らないことを一つ教えてもらえると思うと、さっきまでより少し楽しみになった。
部屋の端では、ルカもその様子を見ている。
「ルカも来る?」
「僕も?」
「昨日、見てるって言ったでしょ?」
「見てるだけなら」
「では、ちょうどいいですね」
エレノアが何気なく言った途端、ルカの猫耳がわずかに後ろへ向いた。
「……何がです?」
「あとで少し、お手伝いをお願いします」
「やっぱり」
「まだ何もお願いしていませんよ」
「昨日から、その言い方の時は何かあります」
セレフィナが楽しそうに笑った。
アリアには、ルカがどうしてそんな顔をしているのか分からない。
けれど、自分だけでやるよりも、ルカも一緒にいる方が楽しそうだった。
◇
最初に連れて行かれたのは、別邸の客間だった。
アリアも何度か入ったことのある部屋で、大きな窓からは湖が見える。壁際には長椅子や椅子が並び、その間に小さな卓が置かれていた。
けれど今日は、部屋へ入る前にエレノアが足を止める。
「ではアリア。ここへ入ってみましょう」
「うん」
アリアがいつものように扉へ手を伸ばす。
その手が取っ手へ触れる前に、エレノアから声が掛かった。
「今日は、誰かのお家へ招かれたつもりで入ってみましょう」
アリアは扉を見たあと、エレノアを見た。
「ここ、セレフィナおばあちゃんのお家だよ?」
「そうですね。でも今日は練習です」
「じゃあ、誰のお家?」
そこまで決めなければ練習にならないと思ったらしい。
エレノアが少し考えてから、後ろにいるルカへ視線を向けた。
「ルカのお家にしましょうか」
「僕!?」
突然、自分の家を作られたルカが目を丸くする。
アリアは反対に、ぱっと笑った。
「ルカのお家!」
「何で僕なんですか」
「よく知っている相手の方が、アリアもやりやすいでしょう」
そう言われてしまえば、ルカも断りにくい。
仕方なさそうに部屋の中へ入り、扉の向こうでアリアを待つ。
「僕は何をすればいいんです?」
「アリアを迎えてあげてください」
「分かりました」
部屋の向こう側にいるルカを見た途端、アリアには急に遊びのように思えてきた。
「ルカのお家に遊びに来た!」
「そういうことみたい」
「じゃあ行くね!」
今度こそ扉を開けようとしたところで、また止められる。
「扉は、お屋敷の方に開けてもらいましょう」
「わたし開けないの?」
「招かれたお客様なら、案内されて入ることが多いのですよ」
どうして自分で開けられるのに、人に開けてもらうのだろう。
少し不思議だった。
けれど、すぐ横にいた侍女が静かに前へ出て扉を開くと、アリアは目を丸くした。
自分では何もしていないのに、目の前の道がすっと開いた。
「あ。開いた」
「侍女さんが開けてくれたんだよ」
向こうからルカが言う。
「分かってるよ」
少し頬を膨らませながらも、アリアは開いた扉の前へ立った。
「では、入る前に少しだけ姿勢を整えてみましょう」
「しせい……」
「昨日、お茶の時にもしましたね」
「あ!」
思い出した。
背中を伸ばす。
アリアはそう教わった通りにしようとして、思い切り胸を張った。肩へ力を入れ、顎まで少し上がる。
「できた?」
「少し頑張りすぎですね。そのまま歩いてみてください」
「うん」
一歩出そうとして。
出ない。
身体中へ力を入れすぎて、いつものように足が動かなかった。
「……歩きにくい」
「でしょう?」
アリアはすぐに力を抜いた。
「じゃあ、どうするの?」
「いつものアリアのままでいいのです。ほんの少しだけ背中を伸ばしてみてください」
「ほんの少し?」
「ええ」
今度は力を入れすぎないように、いつもの立ち方へ少しだけ何かを足すようなつもりで背中を伸ばした。
一歩進む。
今度は普通に歩けた。
もう一歩進んでみても、やっぱり平気だ。
「こっちは簡単」
「では、そのまま入ってみましょう」
「うん!」
アリアは開かれた扉を越え、部屋の中へ入った。
ところが、待っていたルカの顔を見た途端、身体がいつものアリアへ戻る。
「こんにちは!」
満面の笑みで、大きく手を振った。
「こんにちは」
ルカもいつものように返す。
これなら知っている。いつもしている挨拶だ。
ところが後ろから、
「では、もう一度してみましょう」
と言われた。
アリアが振り返る。
「違った?」
「間違いではありませんよ。ただ、今日は別のご挨拶も覚えてみましょう」
同じ「こんにちは」なのに、別のやり方がある。
アリアには、そこが少し不思議だった。
「手を振らないの?」
「今日は振らずにご挨拶してみましょう」
「でも、ルカだよ?」
「そうですね」
「お兄ちゃんだよ?」
「それも変わりません。でも今日は、そのお兄ちゃんのお家へ招かれたお客様という練習です」
アリアはルカを見る。
いつものルカだ。
猫耳も尻尾も、顔も同じなのに、今日は会い方だけ少し違う。
何となく分かるような、やっぱりよく分からないような気がした。
「じゃあ、どうするの?」
「そうですね。では、まず私がやってみましょう」
エレノアはアリアの前へ立つと、スカートの裾を左右の指先でそっとつまんだ。
片足を少し後ろへ引き、背中は伸ばしたまま、膝をやわらかく曲げる。
ほんのわずかな動きなのに、いつも立っている時とはまるで違って見えた。
アリアは目を丸くする。
「それ、なに?」
「カーテシーといいます。ご挨拶の仕方の一つですよ」
「かーてしー」
聞き慣れない言葉を、アリアはゆっくり繰り返した。
「わたしもする!」
「では、一緒にやってみましょうか」
「うん!」
アリアはエレノアの隣へ並んだ。
「まず、裾を少しだけ持って」
「こう?」
「ええ。そんなに持ち上げなくて大丈夫ですよ」
「あ」
思いきりつまみ上げかけていた裾を、少し下ろす。
「それから、片方の足を少し後ろへ」
アリアが右足を後ろへ引く。
「このくらい?」
「もう少しだけ近くて大丈夫です」
戻して、もう一度。
「ここ?」
「そうです。では、そのまま膝を少し曲げてみましょう」
アリアが、ちょこんと膝を折る。
「こう?」
「上手ですよ」
すぐにアリアの顔が明るくなった。
「できた!」
「では今度は、最初からやってみましょう」
「うん!」
アリアは自分から扉の外へ戻った。
頭の中で考えているだけでは分からなかったけれど、一度見せてもらえば、今度は自分でもやってみたくなる。
扉の前で待つと、侍女が静かに開いてくれた。
背中を少しだけ伸ばして歩き、ルカの前まで来たところで一度止まる。
今度は手を振らない。
さっき教えてもらった通りに、ワンピースの裾をそっとつまみ、片足を少し後ろへ引いた。
ちょこんと膝を折る。
それから、できたかな、と確かめるように顔を上げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
ルカも返してくれる。
その瞬間、さっきとは少し違う感じがした。
知らない人のようになったわけではない。
ルカはちゃんとルカのままだ。
ただ、自分の方が少しだけ違うアリアになったような、不思議な感じがした。
「できた?」
すぐにエレノアを見る。
「とても上手ですよ」
「やった!」
嬉しくなって両手が上がりかける。
けれど途中で、自分で止めた。
「あ」
ゆっくり手を戻す。
「今、振らなかった!」
「自分で気づきましたね」
「もう一回する!」
「まだやるの?」
ルカが尋ねる。
「もっと上手になるまで!」
「僕、ずっとここ?」
「お客さん待っててね!」
「僕が家の人なんだけど」
セレフィナが笑った。
アリアも笑いながら、もう一度扉の外へ戻っていく。
最初は、どうして同じ挨拶を違うやり方でするのか分からなかった。
でも一度できたら、今度はもう少し上手にやってみたくなる。
それだけで、さっきまで少し変だと思っていた練習が、だんだん面白くなってきていた。
◇
何度か部屋へ入る練習をしたあと、今度は椅子へ移った。
「座るのもするの?」
「しますよ」
「わたし、座れるよ?」
「では、いつものように座ってみてください」
「うん」
それなら簡単だ。
アリアは椅子の前まで行って身体を返すと、いつものように腰を下ろした。
ぽすん。
柔らかな座面が沈み、スカートがふわりと広がる。
「ほら、座れた!」
「座れましたね」
やっぱりできる。
そう思っていると、エレノアが続けた。
「では今度は、もう少し静かに座ってみましょう」
「静かに?」
「今は椅子へ少し身体を預けましたね。今度は、自分で最後まで身体を支えてみましょう」
「落ちてないよ?」
「ほんの少しだけ、落ちました」
アリアは自分が座っている椅子を見た。
今まで座るたびに、そんなことを考えたことなど一度もない。座るものだから、ただ座っていただけだった。
「どうやるの?」
「見ていてください」
エレノアが隣の椅子の前へ立った。
向きを変え、そのまま静かに腰を下ろしていく。
ほとんど音がしなかった。
アリアは、その足と身体の動きをじっと見つめた。
「もう一回やる」
すぐに椅子から立つ。
さっき見た通りに椅子の前まで行き、身体を返す。
今度はいきなり座らず、ゆっくりと身体を下ろしていく。
ところが途中で、小さな足がふるふるしてきた。
「……まだ?」
「もう少しです」
「つかれる」
「そんなに力を入れなくても大丈夫ですよ」
そこで少しだけ力を抜いてみる。
最後のところで。
ぽす。
「あ」
音はした。
でも、さっきの「ぽすん」とは違った。
「今、小さかった!」
「ええ。ずっときれいに座れましたよ」
「ほんと?」
「本当です」
アリアは嬉しくなった。
同じ椅子に、同じように座っただけなのに、少しやり方を変えるだけで本当に違う。
しかも、それが自分でも分かった。
「じゃあ、立つのもある?」
「もちろん」
「やっぱり」
今度はルカまで笑った。
それに気づいたアリアが、すぐそちらを見る。
「ルカはできる?」
「座るくらいなら」
「やって!」
「僕も?」
「見たい!」
ルカは仕方なさそうに隣の椅子へ行くと、特に何かを考えている様子もなく、自然に腰を下ろした。
ぽすん、とは鳴らない。
アリアの目が大きくなる。
「できてる」
「何が?」
「きれいに座った」
「普通に座っただけだよ」
「知ってたの?」
「これくらいは」
「教えてよ!」
「聞かれてないし」
「ずるい!」
少し悔しくなった。
自分は今覚えたばかりなのに、ルカはもうできる。
だったら、自分ももっと上手になればいい。
「もう一回する」
「まだやるの?」
「ルカより上手にする」
「勝負なの?」
「勝負!」
さっきまで「座ることなんてできる」と思っていたのに、今はもう少し上手に座りたくなっていた。
何度か繰り返しているうちに、最初ほど足へ力を入れなくてもよいことが分かってくる。
身体をどこまで下ろせば椅子があるのかも、少しずつ分かるようになった。
うまく座れた時には、自分でも音が違う。
そのたびにアリアは、できることがまた一つ増えたような気持ちになった。
◇
午前の練習が終わる頃には、さすがに少し疲れていた。
「レディー、大変」
アリアはそう言いながら、部屋の長椅子へ向かった。
いつもなら、そのまま何も考えず座るところだった。
けれど、長椅子の前まで来た時、ふと足が止まる。
さっき何度もした。
向きを変えて、いきなり身体を落とさず、最後まで自分の足で支える。
アリアは誰に言われたわけでもないのに、少しだけゆっくり腰を下ろした。
音はほとんどしなかった。
「…………」
座ってから、自分でも少し驚いた。
練習はもう終わったと思っていたのに、身体が覚えていた。
「できた」
思わず、自分で呟く。
少し離れたところでエレノアとセレフィナが顔を見合わせていたけれど、アリアは気づかなかった。
今は、自分が誰にも言われずできたことの方が嬉しい。
冷たい果実水を一口飲み、ふう、と息を吐いた。
「まだある?」
「たくさんありますよ」
エレノアが答える。
「いっぱい?」
「いっぱい」
「…………」
少し大変そうだと思った。
でも、扉から入ることはさっきより上手になったし、椅子へ座ることも、もう最初とは違う。
できなかったわけではない。
知らなかっただけだった。
「でも、できたのもある」
「ええ」
「二つできた」
「そうですね」
「じゃあ大丈夫」
まだ何が待っているのか分からないけれど、今までと同じなら、一つずつやればいい。
「次なに?」
「その前に」
セレフィナが声を掛けた。
振り返ると、部屋の入口に二人の侍女が立っている。
その手には、大きな箱があった。
アリアの目が一気にそちらへ向く。
「なに?」
「明日のお茶会で着るお洋服を、合わせてみましょう」
「ドレス!」
疲れていたことなど、一瞬で消えた。
アリアは勢いよく立ち上がろうとして、途中でぴたりと止まった。
「あ」
さっき、立ち方も少し教えてもらった。
長椅子へ手をついて飛び上がるのではなく、身体を少し前へ移して、自分の足で立つ。
やってみる。
いつもよりゆっくりと身体を起こし、ちゃんと自分の足で立てた。
その瞬間、嬉しくなって真っ先にルカを見る。
「見た?」
「見たよ」
「きれいだった?」
「さっきよりね」
「やった!」
今度こそ両手を上げた。
「そこはいいの?」
「今はお茶会じゃないもん!」
アリアの中では、もう少しずつ分かれていた。
いつもの自分でいていい時と、少しだけきちんとする時。
きちんとするからといって、ずっと静かにしていなければならないわけではないらしい。
それなら思っていたより、レディーは大変ではないのかもしれなかった。
◇
箱が開いた瞬間。
「わあ……」
アリアの声が自然と小さくなった。
白と淡い水色の布が重なり、その間には繊細なレースや金色の飾りが見える。青いリボンも添えられていて、さっきまで着ていた練習用のワンピースとは、ひと目で違うものだと分かった。
六歳のアリアが着ても大人びすぎないように仕立てられた、華やかな茶会用のドレスだった。
きれい。
最初に浮かんだのは、それだけだった。
けれど見ているうちに、これを自分が着るのだと思うと、胸の奥がむずむずしてきた。
「これ、わたし?」
「ええ」
セレフィナが答える。
「ほんとに?」
「そのために用意しました」
アリアはもう一度、ドレスを上から下まで眺めた。
白と淡い水色の布に、青いリボンと金色の小さな飾り。
目を移すたびに好きなところが見つかって、どこから見ればいいのか分からないくらいだった。
「……かわいい」
「気に入りました?」
「うん!」
「では、着てみますか?」
「着る!」
今度は迷わなかった。
◇
しばらくして。
ルカが待っている部屋へ、廊下から小さな足音が近づいてきた。
「ルカ!」
扉が開くより少し早く、アリアの声が届いた。
そして、姿を見せる。
低い位置で二つに結ばれた水色の髪。
背中には、いつもの小さな白い羽。
白と淡い水色を重ねた華やかなドレスには、繊細なレースや金の飾りが入り、青いリボンがアリアの動きに合わせて揺れている。
ルカの目が少し大きくなった。
その顔を見た瞬間、アリアの胸がもっと弾んだ。
「どう?」
「似合ってるよ」
「ほんと?」
「うん」
「かわいい?」
「……かわいいよ」
「やった!」
嬉しくなり、その場でくるりと回った。
スカートがふわりと広がる。
今度は後ろを見せようと身体をひねり、リボンを指さした。
「ここも見て!」
「見えてるよ」
「青いの!」
「うん」
「かわいいでしょ?」
「うん。かわいい」
何もかも、ルカに見せたかった。
自分でも鏡を見たはずなのに、ルカにも同じところを見てほしい。
そう思うと、今度はもっとよく鏡を見たくなった。
アリアは駆け出そうとして、一歩目で止まった。
「…………」
さっき練習したばかりだった。
ドレスを着た今なら、なおさらやってみたい。
肩へ力を入れすぎないようにしながら、背中を少しだけ伸ばす。
一歩進む。
もう一歩。
スカートが足の周りで静かに揺れた。
歩きにくくはない。
むしろ、さっきまでよりドレスがきれいに揺れているような気がした。
鏡の前まで着くと、アリアは自分の姿をじっと眺めた。
映っているのは、いつもの自分だ。
水色の髪も、小さな羽も、顔だって何も変わっていない。
それなのに、少しだけ違って見える。
「レディーみたい?」
振り返って尋ねる。
「少し近づきましたね」
エレノアが答えた。
「少し?」
「まだ一日目ですから」
「じゃあ、明日はもっと?」
「明日は実際に、お茶会をしてみましょう」
「ほんとの?」
「本当のお茶会です」
「このドレスで?」
「ええ」
「お茶飲む?」
「飲みます」
「お菓子も?」
「もちろん」
「やる!」
今日一番早い返事だった。
ルカが笑う。
「やっぱり最後はそこだね」
「でも、今日いっぱいできたよ?」
アリアは指を折った。
挨拶。
歩くこと。
座ること。
立つこと。
朝には全部「いつもやってる」と思っていたものばかりだ。
でも今は少し違う。
同じことにも別のやり方があると知り、それを自分でもできた。
「明日もやる」
アリアが言った。
「どうしてです?」
エレノアに尋ねられ、アリアは鏡の中の自分を見たまま答えた。
「できること増えたから」
それは、アリアにとって一番分かりやすい答えだった。
朝には知らなかったことが、今は一つできる。
だったら、明日もまた何か一つ増えるかもしれない。
「では、明日も続きをしましょう」
「うん!」
「まずは、お茶会から」
「やった!」
「その前に、今日覚えたことを少しだけ復習してからですね」
「…………」
鏡の中のアリアの笑顔が止まった。
「お茶会の前?」
「前です」
「いっぱい?」
「少しだけ」
それなら。
「じゃあいい!」
すぐに笑顔が戻った。
ルカが吹き出す。
「本当に分かりやすいね」
「何が?」
「何でもない」
「また言った!」
アリアはルカのところへ行こうとして、反射的に駆け出しかけた。
けれど、最初の一歩でまた止まる。
ドレスを見下ろし、さっき鏡まで歩いた時のことを思い出した。
少しだけ背中を伸ばして、ゆっくり一歩。
もう一歩。
そのままルカのところまで歩いていく。
「どう?」
「ちゃんと歩けてるよ」
「レディー?」
「今はね」
「やった!」
その言葉が嬉しくて、最後の一歩だけ。
ぴょん。
小さく跳ねた。
「アリア」
「一回だけ!」
振り返ったアリアは、ちょっとしたいたずらを見つけられた時のような顔で笑っている。
エレノアも笑った。
セレフィナも、やめなさいとは言わなかった。
今日覚えたことは、いつもの自分をやめるためのものではない。
知らない場所へ行った時に困らないように、できることを一つ増やしただけなのだ。
きれいに歩けるようになっても、静かに椅子へ座れるようになっても、いつもとは違う挨拶を覚えても、嬉しい時に最後の一歩でぴょんと跳ねてしまう、その小さな天使まで変わる必要はなかった。
アリアはまだ新しいドレスが嬉しくて、鏡とルカの間を何度も見比べている。
朝にはよく分からなかった「レディー」という言葉が、今はほんの少しだけ、自分にもできそうなものへ変わっていた。




