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森で拾ったのは、半人前の天使でした ― ラグドール一家と小さな天使 ―  作者: くいたん


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第90話 エレノア襲来

 

 三日後。


 朝から、別邸の中にはいつもと少し違う気配が漂っていた。


 使用人たちが慌ただしく廊下を走り回っているわけではない。庭師はいつものように庭へ出て、朝露の残る植え込みを整えているし、侍女たちも開け放った窓から入り込む湖風を確かめながら、普段と変わらない手つきで部屋を整えている。


 それでも玄関には朝のうちに新しい花が飾られ、客間の寝台には涼しげな夏掛けが用意されていた。湖に面したテラスにも真っ白な卓布が掛けられ、その上へ食器や花が少しずつ運び込まれている。


 今日は、客人が来る。


 しかも、その客人を呼ぶきっかけを作ったのは、朝の飛行練習を終え、庭の木陰で絵本を開いているアリアだった。


「まだ?」


「まだです」


 隣で本を読んでいたノルンは、頁から目を離さずに答えた。


「もう来る?」


「先ほど同じことを聞いてから、まだ五分ほどしか経っていません」


「五分って長いね」


「待っている時だけじゃない?」


 少し離れた木の根元へ座っていたルカが笑うと、アリアはむっとした顔で膝の上の絵本へ目を戻した。


「じゃあ、来るまで本読む」


「さっきもそう言って、三行で玄関の方見たよ」


「今度はちゃんと読むもん」


 アリアは文字の下へ指を置いた。


 一行目を読み、二行目を読み、三行目まで進む。


 ここまでは、さっきと同じだった。


 今度こそ続きを読もうと、次の文字へ指を動かしたところで、遠くからかすかに馬の蹄の音が聞こえてきた。


「あっ!」


 アリアの顔がぱっと上がる。


 ほとんど同時に、ルカの猫耳も玄関のある方角へ向いた。


「今度は本当に来たかも」


「エレノアおばあちゃん!」


 アリアは絵本を閉じるなり立ち上がった。


「アリア、走らないでください」


「走ってないよ!」


 そう答えた時には、もう芝生の上を駆け始めている。


「アリア」


「はぁい!」


 返事だけは素直だった。


 途中からようやく足を緩めたものの、気持ちの方はとっくに玄関まで飛んでいってしまったらしい。少し歩いては門の方へ顔を向け、気づけばまた足が速くなり、そのたびにルカから無言の視線を向けられている。


 自分が書いた手紙を、エレノアおばあちゃんが読んだ。


 そして本当に、ここへ来る。


 昨日までは、自分の書いた文字が遠くにいる人へ届くことだけでも不思議で、嬉しかった。


 けれど今日は、その言葉を読んだ人が、自分の目の前へやって来る。


 紙の上へ書いたものが、遠く離れた誰かのところまで本当に届いたのだと、もうすぐ自分の目で確かめられる。そのことが嬉しくて、アリアは何度も門の方へ目を向けながら玄関へ急いだ。


     ◇


 やがて、一台の馬車が別邸の車寄せへゆっくりと入ってきた。


 玄関前には、すでにセレフィナが立っている。


 アリアはその少し後ろへ並び、両手を身体の前で重ねていた。そうしていなければ、馬車が止まりきる前に自分から駆けていってしまいそうだった。


 御者が手綱を引き、二頭の馬がゆっくりと足を止める。


 従者が扉を開け、最初に侍女が降りた。そのあとから、薄い藤色の夏用ドレスをまとった女性が姿を見せる。


「エレノアおばあちゃん!」


 我慢していた声だけが、先に飛んでいった。


 エレノアは馬車から降りたところで一瞬目を丸くしたものの、すぐに柔らかな笑顔になった。


「まあ。本当に待っていたのね」


「待ってたよ!」


挿絵(By みてみん)


 エレノアがこちらへ歩いてくると、アリアももう待ちきれずに数歩近づいた。


「お手紙届いた?」


「届きましたよ」


「全部読んだ?」


「全部」


「二枚とも?」


「二枚とも」


「線引いたところも?」


「そこも」


「マルルのことも?」


「そこも」


「赤ちゃんのことも?」


「そこもです」


「すごい!」


 心から感心したように言われ、今度はエレノアが笑った。


「わたしではなく、手紙がですか?」


「うん!」


「そうでしょうね」


 アリアにとっては、それが何より大事だった。


 少し曲がった文字も、書き直したところも、二枚いっぱいに書いたことも、全部ちゃんとエレノアおばあちゃんのところまで届いていた。


 自分が書いたものを、遠くにいた人が読んでくれた。


 そのことを改めて確かめるように、アリアは嬉しそうにエレノアを見上げている。


 そこへセレフィナも歩み寄った。


「いらっしゃい、エレノア」


「急に押しかけてしまって申し訳ありません、セレフィナ様」


「構いませんよ。ただ、思っていたより早かったので、少し驚きました」


「わたしも、こんなに早く伺うつもりではなかったのですけれど」


 そう言いながら、エレノアの視線がゆっくりアリアへ向いた。


「思っていたより、ずっと長くこちらにいらっしゃる方がいると分かりましたので」


 セレフィナも同じようにアリアを見る。


 二人から視線を向けられた本人は、なぜか少し嬉しそうに胸を張った。


「わたしが教えたよ!」


「そうでしょうね」


「次の満月までいるって!」


「それも、しっかり読ませていただきました」


「ちゃんと届いたね!」


「ええ。それはもう」


 エレノアの笑顔が、ほんの少しだけ深くなる。


「一か月近くこちらで過ごすことになるという、とても大切な情報まで」


「たいせつ?」


「とても」


「そっか」


 アリアは疑うこともなく頷いた。


 少し後ろにいたルカが、そっと視線を逸らす。


 どうやら、自分が何気なく書いた一文が伯爵夫人の予定を変え、本当にここまで呼び寄せたことには、まだ本人だけが気づいていないらしい。


     ◇


 荷物を客間へ運んでもらったあと、一行は湖に面したテラスへ移った。


 木陰を抜けてきた風が卓の上を通り、白い卓布の端をわずかに揺らしている。並べられているのは冷たい果実水と紅茶、それに小さな焼き菓子や季節の果物で、ひと口で食べられそうな色とりどりの菓子まで、皿の上へきれいに並べられていた。


「わぁ……」


 アリアは椅子へ座る前から、もう卓の上へ目を奪われていた。


「それ、おいしいやつ?」


「たぶん」


 ルカが答える。


「見ただけで分かるの?」


「アリアほど見てないよ」


「見てるだけだよ?」


「さっきからずっとね」


「だって、おいしそうなんだもん」


 エレノアは向かい側の椅子へ腰を下ろしながら、そんな二人のやり取りを楽しそうに眺めていた。


「いただいていいですよ」


「ほんと?」


「ええ」


「いただきます!」


 アリアの手が、すぐ皿へ伸びる。


 けれど、あと少しで届くところで止まった。


 右には丸い焼き菓子があり、左には赤い果実の乗った小さな菓子、その隣には薄く砂糖をまぶしたものまで並んでいる。


 アリアの手が右へ動き、途中で左へ戻り、それからもう一度右へ向かった。


「決まらないの?」


「全部食べたい」


「それは知ってる」


「じゃあ、どれから?」


「それを僕に聞くの?」


「うん」


「好きなのからでいいと思うよ」


 それでもしばらく悩んでから、アリアはようやく赤い果実の乗った菓子を一つ選んだ。


「これ!」


 満足して自分の皿へ置き、ふと向かいを見る。


 エレノアの前には、自分が選ばなかった種類の焼き菓子があった。


「それもおいしそう」


「食べます?」


「いいの?」


「どうぞ」


「やった!」


 嬉しそうに手を伸ばすアリアを見て、エレノアの目がほんの少しだけ細くなった。


 その視線に気づいたセレフィナが、紅茶の器を持ったまま尋ねる。


「どうしました?」


「いいえ」


 エレノアは何事もなかったように紅茶へ口をつけたものの、そのあとも時折アリアへ視線を向けている。


 当の本人は、まったく気づいていなかった。


 両手で小さな菓子を持ち、ひと口食べる。


「おいしい!」


 幸せそうに頬を緩ませ、もうひと口。


 次は果物へ手を伸ばす。


 食べることに夢中になるにつれ、少しずつ背中が丸くなり、身体も卓へ近づいていった。


「アリア」


「ん?」


「こぼれるよ」


 ルカに言われて慌てて皿を近づけると、今度は袖の端が卓へ触れそうになる。


「わっ」


 急いで腕を引き、果実水と紅茶、それから皿へ順番に目を向けて、何も倒れていないことを確かめた。


「あぶなかった!」


「何が?」


「こぼしてない!」


「基準そこなんだ」


 とうとうエレノアが口元へ手を添えた。


「面白いですね」


「なにが?」


「いろいろです」


「いろいろ?」


「ええ。とても」


 何がそんなに面白いのか分からないまま、アリアは次の菓子へ視線を移した。


     ◇


「そういえば」


 しばらくして、エレノアが紅茶の器を置いた。


「手紙に書いてありましたね。本を一人で読めるようになったと」


「うん!」


 その話なら、とアリアがすぐに顔を上げる。


「今日も読んでたよ」


「どんな本を?」


「鳥が木の実を探すお話!」


「その本を、一人で最後まで読めたのですか?」


「うん。この前、全部読んだ!」


「それはすごいですね」


「それから、お手紙も書ける」


「それは、とてもよく分かりました」


「二枚!」


「ええ。二枚とも」


「今日も書いてたよ」


 ルカが横から加えると、アリアもすぐ続いた。


「トアに!」


「もう次の手紙ですか?」


「うん!」


「ずいぶん好きになったのですね」


「お手紙、楽しいもん」


 嬉しそうに答えるアリアをしばらく見てから、エレノアは今度はノルンへ視線を向けた。


「文字を覚えるのも早かったのでしょう?」


「一度、文字と音が結びついてからは早かったですね。まだ知らない言葉はありますが、一つ一つの音を表す文字なら、かなり迷わず読めるようになっています」


「書く方は?」


「読むほどではありません。ただ、自分で文章を考えて、書こうとします」


「それが大きいですね」


「なにが?」


 自分の話だと分かったアリアが、すぐ会話へ戻ってくる。


 エレノアは少し笑った。


「アリアは、覚えたことをすぐ使いたがるでしょう?」


「うん!」


「文字を覚えたら手紙を書く。本が読めたら、次の本を読みたくなる」


「うん!」


「魔法も?」


「できたら、もう一回する!」


「でしょうね」


 エレノアは納得したように頷いた。


「覚えることそのものより、覚えたことを自分で使ってみるのが好きなのね」


 ところが、アリアは不思議そうな顔をした。


「使わないの?」


「覚えても、すぐには使わない人もいますよ」


「どうして?」


「…………」


 今度はエレノアの方が答えに詰まった。


 その様子を見て、セレフィナが静かに笑う。


「アリアに聞かれると、答える方が考えさせられますね」


「本当です」


 エレノアはもう一度、目の前の少女を見る。


 昨日できなかったことでも、今日はまたやってみる。一度できれば、そこで満足するのではなく、今度はもう少し上手にやろうとする。


 失敗したとしても、どうして失敗したのかが分かれば、それだけで嫌になって終わることもない。


 手紙だって同じなのだろう。


 一通書けたから、今度はもう一通。そうして書くことに慣れてくれば、次はもっと上手に伝えてみたくなる。


「……案外」


 小さく漏れた声を、アリアは聞き逃さなかった。


「なに?」


「聞こえました?」


「言ったよ」


「言いましたね」


「なに?」


 エレノアは少し考えたあと、素直に答えた。


「思っていたより、才能があるかもしれないと思ったのです」


「さいのう?」


「何かを覚える才能です」


「わたし、あるの?」


「少なくとも、覚えたことを楽しんで使う才能はありそうですね」


「ある!」


 どこまで理解したのかは怪しい。


 けれど、褒められたことだけはしっかり分かったらしく、アリアは嬉しそうに胸を張った。


 その瞬間、膝に置いていたナプキンが、するりと滑って床へ落ちた。


「あ」


 エレノアが見る。


 アリアも見る。


 ルカまで見る。


 三人の視線が床のナプキンへ集まり、アリアが椅子から降りようと身体を動かしたところで、エレノアが声を掛けた。


「そのままで」


「え?」


「今日は、拾ってもらいましょう」


「誰に?」


 アリアがきょろりと周りを見ると、エレノアはそばに控えていた侍女へ目を向けた。


 侍女はすぐに身をかがめて床のナプキンを拾った。


 けれど、それをアリアの膝へ戻すことはせず、そのまま静かに下げていく。


「あれ?」


 アリアが目で追っていると、別の侍女が新しいナプキンを持ってきて、膝の上へそっと広げてくれた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 アリアは新しいナプキンを両手で押さえたあと、先ほどのものが運ばれていった方へもう一度目を向けた。


「さっきの、もう使わないの?」


「ええ。床へ落ちたものですからね」


「洗うの?」


「あとで、きれいにしてもらいますよ」


「そっか」


 そこまでは納得したらしい。


 けれど、すぐに次の疑問が浮かんだ。


「でも、落としたら自分で拾っちゃだめなの?」


「だめではありませんよ」


「じゃあ、どうして?」


 そこが分からない。


 落としたものは自分で拾い、汚れてしまったなら取り替える。それならアリアにも分かる。


 けれど、どうして自分で拾うところまで誰かにお願いするのだろう。


「場所によっては、自分で慌てて屈むより、近くの者へお願いした方がよいこともあるのです」


「どうして?」


「その方が、動きがきれいに見えることもありますから」


「きれいに?」


「ええ。振る舞いが、です」


 アリアの眉が少し寄った。


 同じナプキンを拾うだけなのに、場所によってやり方が変わる。


 どうしてそんなことをするのか、まだよく分からない。


 その顔を見て、エレノアは少し笑った。


「少し難しかったですね」


「ちょっと」


「では、もっと簡単なところからやってみましょうか」


 エレノアは自分の膝へナプキンを整えて見せた。


「食事をする時は、まずこうします」


「こう?」


 アリアも真似して広げる。


「ええ。それから、背中を少し伸ばして」


「こう?」


 今度は思いきり背筋をぴんと伸ばした。


「もう少し力を抜いて大丈夫ですよ」


「こう?」


「そうです」


「できた?」


「できています」


 それだけで、アリアの顔がぱっと明るくなる。


「簡単!」


 隣からルカの声がした。


「今だけだと思う」


「聞こえた!」


「聞こえるように言ったよ」


「ちゃんとできるもん」


「じゃあ、そのままお菓子食べてみたら?」


「できる!」


 アリアは背中を伸ばしたまま、皿の上の焼き菓子へ手を伸ばした。


 さっきより少しゆっくりと動かし、肘を大きく広げないよう気をつけながら、身体も卓へ近づけすぎないようにして食べる。


 エレノアが見ている。


 セレフィナも見ている。


 なぜかルカまで、じっとこちらを見ている。


「…………」


 しばらく頑張ったところで、アリアの顔が曇った。


「食べにくい」


「でしょうね」


 ルカが笑う。


 けれどエレノアは、そんなアリアを見て少しだけ目を細めた。


「でも、先ほどよりずっときれいですよ」


「ほんと?」


「ええ」


「じゃあ、もう一個!」


「そこは変わらないんだね」


「だって、おいしいもん」


 嬉しそうに二つ目へ手を伸ばす。


 それでも今度は、食べ終わるまでナプキンを落とさなかった。


 教えられたことを聞くだけで終わらせず、その場ですぐ自分でもやってみる。


 エレノアは、そんなアリアの様子を何も言わずに見ていた。


     ◇


 少し遅れて、リオネルとエミールも別邸へやって来た。


 テラスにエレノアがいるのを見つけると、リオネルが少しだけ目を丸くした。


「エレノア伯爵夫人」


「こんにちは、リオネル」


「いついらしたんです?」


「今日です」


「急ですね」


「招待されたので」


「誰に?」


 エレノアは答えず、静かにアリアへ目を向けた。


「わたし!」


 アリアが元気よく手を上げる。


「手紙で?」


「遊びに来てって書いた!」


「それで本当に来たんだ」


「お手紙すごいでしょ!」


「使い方によっては、かなりすごそうだね」


 リオネルが笑いながら空いている椅子へ座る。


 一方、エミールはその横を通り過ぎると、迷うことなくマルルのところへ向かった。


「マルル」


「エミールなの」


「今日もいるね」


「マルルはいつもいるなの」


「そっか」


 それだけで納得したらしく、近くへ腰を下ろすと、いつものように長い耳へそっと手を伸ばした。


 ルカが二人を見て笑う。


「そこ、もう普通になったね」


「何が?」


「最初はマルルが喋っただけで固まってたのに」


「……あれは初めてだったから」


「今は?」


 エミールは少し考えたあと、マルルを見た。


「マルルだから」


「なの!」


 マルルが満足そうに胸を張った。


 エレノアは、そんな子どもたちをしばらく眺めていた。


 リオネルも、エミールも、ルカも、ノルンも、マルルも、そしてアリアも、最初から一緒にいたわけではない。


 それぞれ違う場所で暮らし、違う理由で出会ったはずなのに、今では同じ卓を囲んでいることを誰も不思議に思っていなかった。


「すっかり馴染んでいるのね」


「うん!」


 アリアが当然のように答える。


「リオネル、よく来るよ。エミールも」


「僕まで報告されるの?」


 エミールがマルルを撫でる手を止めた。


「エレノアおばあちゃんにも書いたよ」


「何を?」


「遊びに来るって」


「それだけ?」


「マルル撫でてるって」


「……それも?」


「うん!」


 リオネルがとうとう吹き出した。


「気をつけた方がいいよ、エミール」


「何を?」


「アリアの前で変なことすると、どこかへ手紙で送られるよ」


「変なことしない」


「じゃあ僕は?」


 エミールが兄を見る。


 少し考えてから、静かに答えた。


「兄上は、するかも」


「ひどいな」


 アリアが声を上げて笑った。


 その笑顔を眺めていたエレノアが、ふとセレフィナへ顔を向ける。


「セレフィナ様」


「何です?」


「少し、思いついたことがあります」


 その言い方に、少し離れたところにいたルカの猫耳がぴくりと動いた。


「…………」


「ルカ?」


 アリアが見る。


「なんか」


「なんか?」


「嫌な予感がする」


「失礼ですね」


 エレノアが笑う。


「まだ何も言っていませんよ」


「だから余計に」


「ルカ」


 セレフィナが名前を呼んだ。


 けれど、その口元にも少し笑みがある。


 ルカはそれを見逃さなかった。


「セレフィナ様まで」


「わたしは何も言っていませんよ」


「楽しそうです」


「そう見えます?」


「見えます」


 今度はエレノアまで笑った。


 二人の大人が、よく似た顔をしている。


 それだけで、ルカには十分だった。


     ◇


 夕方になり、湖の向こうへ日が傾き始めても、エレノアとセレフィナはそのままテラスで話を続けていた。


 少し離れたところでは、アリアが自分の送った手紙をリオネルへ見せている。


「ここ、わたしって書いてる」


「それは読めるよ」


「じゃあ、ここは?」


「『こんどあそびにきてね』」


「読めた!」


「僕が?」


「うん!」


「僕は前から読めるよ」


「そっか」


「なんで僕の成長みたいになってるの?」


 また笑い声が広がった。


 エレノアはその様子を眺めながら、紅茶を一口飲んだ。


「見ていると、分かりますね」


「何がです?」


 セレフィナが尋ねる。


「素直なのです」


 セレフィナもアリアへ目を向けた。


「ええ」


「何でも言うことを聞く、という意味ではありませんけれど」


「それなら違いますね」


「でしょう?」


 二人で小さく笑う。


「必ず『どうして?』と聞く。でも、理由が分かれば自分でやってみるし、できなければもう一度試してみる」


「文字もそうでした」


「先ほどのお茶も」


 エレノアは、ナプキンを落としたあとのアリアを思い出していた。


 分からなければ、分からないと言う。


 納得できなければ、どうしてと聞く。


 けれど、一度やり方が分かればすぐに自分でも試してみて、少しでもできれば、それが嬉しくてもう一度やってみる。


「案外、向いているかもしれません」


「何に?」


「淑女のたしなみに」


 セレフィナが一度だけ瞬いた。


 それから、ゆっくり笑う。


「まあ。それは面白そうですね」


 その言葉を、少し離れたところにいたルカの猫耳がしっかり拾った。


「今、面白そうって言った?」


 アリアも振り返る。


「なにが?」


「アリアの話ですよ」


 エレノアが答える。


「わたし?」


「ええ」


「なにするの?」


 さっそく手紙を置き、こちらへやって来る。


 エレノアは隣の椅子を軽く叩いた。


「こちらへ」


「うん」


 アリアが座ると、エレノアは少しだけ身体を向けた。


「アリアは、次の満月までここにいるのでしょう?」


「うん!」


「なら、その間に少し新しいことを覚えてみませんか?」


「なに?」


「例えば、お茶の飲み方」


「今日飲んだよ?」


「もう少し、きれいに」


「途中はできたよ?」


「ええ。途中からは」


「最初は?」


「とても楽しそうでした」


「おいしかったもん」


「それは、よく分かりました」


 リオネルが横で肩を震わせている。


 けれど、エレノアが話しているのはお茶だけではなかった。


「歩き方や座り方、挨拶の仕方。人と話す時のことや、簡単な食事の作法もあります」


「いっぱい!」


「いっぱいあります」


「お勉強?」


「お勉強にしてしまったら、つまらないでしょう?」


「うん」


 返事は驚くほど早かった。


「ですから」


 エレノアの目が少し楽しそうに輝く。


「遊びながらやってみましょう」


「遊び?」


 その言葉に、今度はアリアの目が輝いた。


 そこへセレフィナまで加わる。


「ドレスも着ますか?」


「着る!」


「お茶会も?」


「する!」


「お菓子も?」


「食べる!」


「そこだけ一番返事が早いね」


 ルカが呆れたように言う。


「大事だもん!」


 ノルンの口元も、ほんの少し緩んだ。


 アリアは何をするのか、まだ半分も分かっていない。


 けれど、新しいことを覚えるらしい。


 ドレスも着るし、お茶会もする。それに、お菓子もある。


 それだけ分かれば、今のところ十分だった。


「じゃあやる!」


 一人だけ警戒を解いていないルカが、エレノアを見る。


「何をする計画なんですか?」


「そうですね」


 エレノアは少し考え、それから目の前に座るアリアを見た。


 淡い水色の髪に、背中の小さな白い羽。椅子へ座れば、まだ足が床へ届かないこともある六歳の小さな少女。


 きちんと座ってみましょうと言えば、まず「どうして?」と聞く。


 理由を説明すれば自分で試し、少しできれば嬉しくなって、もう一度やる。


 それでも目の前にお菓子があればすぐそちらへ身を乗り出し、伯爵夫人へ手紙を書けば、「遊びに来て」と便箋二枚いっぱいに書いて、本当に本人を呼び寄せてしまう。


 できないのではない。


 まだ、知らないだけだ。


 そして、知らないことを教えれば、この子はきっと面白がる。


「名付けるなら」


 エレノアの口元が、ゆっくり上がった。


「アリア・レディー化計画、でしょうか」


「れでぃー?」


 アリアが首を傾げる。


「お嬢様らしく振る舞う練習です」


「わたし、お嬢様になるの?」


「少しだけ」


「少しだけならやる!」


「そこは少しだけでいいんだ」


 ルカが笑った。


 アリアはすぐにそちらを見る。


「ルカもする?」


「しない」


「なんで?」


「僕はレディーじゃないから」


「じゃあ、何になるの?」


「何にもならないよ」


「一緒にやろうよ」


「やらない」


「ルカも一緒なら楽しいよ?」


「……見てるだけ」


「じゃあ見てて!」


「それなら」


 ルカがようやく頷いた。


 けれど、その返事を聞いた瞬間、エレノアとセレフィナがほんの短く顔を見合わせた。


「…………」


 ルカは、それを見逃さなかった。


挿絵(By みてみん)


 たぶん。


 本当に始まる。


 しかも、自分が思っているより、ずっと本格的に。


「明日からにしましょうか」


 エレノアが言った。


「明日!」


 アリアの両手が上がる。


「何する?」


「まずは、お茶会の準備から」


「お菓子?」


「そこから離れませんね」


「だって大事だもん!」


「ええ」


 エレノアは笑った。


「それも含めて、明日からです」


 湖の向こうでは、夕日がゆっくりと山の端へ近づいていた。


 次の満月までは、まだ時間がある。


 アリアはこの湖へ来てから魔法の練習を続け、文字を覚え、本を一冊自分で読めるようになり、初めての手紙まで書いた。


 その手紙は、本当に遠くへ届いた。


 けれど、届いただけではない。


 そこへ書いた言葉を読んだ人が予定を変え、自分に会うため、こうして目の前までやって来た。


 アリアにとって、文字はもう紙の上に並んでいるだけのものではなかった。


 人へ届き、その人を動かし、時には新しい出来事まで連れてくる。


 そして、その新しい出来事が明日から始まることを、アリアはまだ深く考えてはいなかった。


「レディーって、どんなのかな」


 椅子の上で足を揺らしながら、楽しそうに呟いている。


 明日になれば、また知らなかったことを一つ知ることができる。


 今のアリアにとっては、それだけで十分楽しみなのだろう。


 そんな横顔を見ながら、ルカはそっと息を吐いた。


 便箋二枚に誘われて、本当に三日後にやって来た伯爵夫人は、どうやら数日泊まって帰るだけでは終わらせてくれそうになかった。

★お読みいただき、ありがとうございます★


エレノア襲来の動画はこちら

↓↓↓

https://www.instagram.com/reel/Dc2alPuJAeq/?igsi=MW1oOTFtMjg5cnJhcg==

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