第88話 言葉の旅
いつものノートをそばへ置き、ノルンから渡された真っ白な便箋の一番上へ、
『シスターへ』
と書いたところで、アリアの鉛筆はぴたりと止まった。
少し前までは、書きたいことならいくらでもあると思っていた。
グラナへ行ったことも、大地の精霊に会ったことも、エッダたちと一緒に乗った大きな馬車のことも書きたい。今いるミレア湖がどれほど大きくてきれいなのかも、セレフィナおばあちゃんのことも、次の満月には月が赤くなるらしいことも、それから今朝、魔法で作った花を初めて長い間消さずに残しておけたことだって、シスターへ教えてあげたかった。
頭の中には、旅へ出てからの出来事が次々に浮かんでくる。
それなのに、目の前へ真っ白な便箋を置き、いざ書こうとしてみると、その中のどれを最初に選べばいいのか分からなかった。
書きたいことは、こんなにたくさんある。
けれど鉛筆の先からは、一つも出てこない。
「……ノルン」
「はい」
「いっぱいある」
「そうですね」
「どれから書くの?」
ノルンはすぐには答えず、アリアが持っている鉛筆と真っ白な便箋、その隣に置かれた花の刺繍のノートへ順番に目を向けた。
「アリアは、シスターへ一番最初に何を伝えたいですか?」
「いちばん?」
「はい」
言われて、アリアは鉛筆を握ったまま考えた。
グラナの大きな町も、大地の精霊も、初めて見たミレア湖も、きっとシスターは驚くだろうし、話せば喜んで聞いてくれると思う。
けれど、もし自分がシスターだったら。
遠くへ旅立った誰かから、久しぶりに手紙が届いたとしたら、何を一番最初に知りたいだろう。
そう考えた時、頭の中へ西の教会で過ごした日のことが浮かんだ。
今も大切に使っている花の刺繍のノート、その一番最初の頁。
まだ自分の名前しか書けなかった頃、シスターに一文字ずつ教えてもらった。線が曲がっては消し、形を間違えてはもう一度書き直し、それでも最後まで「アリア」と書けた時には、シスターが自分のことのように嬉しそうに笑ってくれた。
『文字を覚えたら、お手紙を書いてくださいね』
あの時の声まで、今もちゃんと覚えている。
「……元気だよって」
ようやく出てきた言葉に、ノルンが頷いた。
「それなら、そこから書きましょう」
「うん」
今度は迷わなかった。
アリアは鉛筆を持ち直すと、便箋へ最初の文字をゆっくり書いていった。
『おげんきですか』
一文字書いては、次の形を思い出す。
すぐに浮かばなければノートへ目を戻し、分からない時にはノルンへ聞きながら、少しずつ鉛筆を進めていく。
最後まで書き終えると、アリアは小さく息を吐いた。
「書けた」
「まだ最初の一行ですよ」
「でも書けたよ」
「はい」
ノルンが頷く。
その返事に少しだけ笑ったアリアは、すぐにその下へ鉛筆を置いた。
『アリアはげんきです』
今度は、さっきより少し早く書くことができた。
最後まで終えると、自分で確かめるように一行目からゆっくり読んでみる。
「おげんきですか。アリアはげんきです」
ちゃんと読めた。
自分で書いたのだから当たり前なのかもしれない。それでもアリアには、紙の上に並んだ文字が本当に自分の言葉になっていることが、少し不思議に思えた。
話した言葉なら、口から出たあとにはどこにも残らない。
けれど文字にすれば、紙の上へ残る。
今日だけではなく、明日になっても、その先になっても、この便箋がなくならない限り、今ここで書いた「アリアはげんきです」は消えない。
そして、この紙が西の教会まで届けば、遠く離れたところにいるシスターが、今ミレア湖にいるアリアの言葉を読むことができる。
アリアは、書いたばかりの二行へそっと指を置いた。
「これ、シスターが読むんだよね」
「届けば、そうですね」
「アリアの声じゃないのに?」
「文字を読めば、きっとアリアの声で聞こえると思いますよ」
「ほんと?」
「わたしなら、そうだと思います」
アリアはもう一度、自分の文字を見た。
紙の向こうにいるシスターの顔を思い浮かべてみる。
今ここにいるわけではないし、声も聞こえない。
それでも、自分がここへ書けば届く。
そう思った途端、さっきまでただ何も書かれていないだけだった白い便箋が、少し違うものに見えてきた。
「次、何書こう」
「今度はアリアが決めてください」
「うーん……」
今度は、最初ほど長く迷わなかった。
シスターの顔を思い浮かべると、話したいことが自然に一つ浮かんでくる。
『グラナにいきました』
その下へ、
『おおきなまちでした』
と書いたところで、アリアは何かを思い出したように顔を上げた。
「大きなトカゲさんのことも書く」
隣で本を読んでいたルカが、すぐに顔を上げる。
「トカゲじゃないよ」
「あ」
「大地の精霊」
「そうだった」
アリアは便箋へ目を戻し、少し考えながら続きを書いた。
『おおきなだいちのせいれいにあいました』
最後まで書いてから、満足そうに鉛筆を上げる。
「できた」
「『トカゲさんに会いました』って書かなくてよかったね」
「でも最初はトカゲさんだと思ったよ」
「それも書くの?」
「書こうかな」
「長くなるよ」
「いいの」
アリアは迷わなかった。
シスターへ話すなら、そこも大事なところだった。
『さいしょはトカゲさんだとおもいました』
書き終えると、自分でもあの時のことを思い出して少し笑った。
崩れた道の向こうで初めて見た、あの大きな姿。
どうして地面からあんなものが現れたのかも分からず、口まで大きかったから、最初は少し怖いと思った。
けれど、話してみれば違った。
見た目だけでは分からないことがあるのだと、今ならもう知っている。
シスターがこの一行を読んだら、どんな顔をするだろう。
驚くだろうか。
それとも、自分と同じように笑うだろうか。
そんなことを考え始めると、不思議なことに、さっきまで何を書けばいいのか分からなかったのが嘘のように、次の言葉が次々と浮かんできた。
エッダたちの大きな馬車で旅をしたことや、山を越えたこと。今は、とても大きな湖のそばにいること。文字を習っていること。それから今日、初めて一冊のお話を、自分で最初から最後まで読むことができたこと。
一つ書けば、その時一緒にあった別のことを思い出す。
それを書けば、また次の出来事が浮かんでくる。
紙の上へ言葉が増えていくにつれて、自分がここまで歩いてきた道まで、少しずつ便箋の上へ並んでいくようだった。
ところが途中で、鉛筆がぴたりと止まった。
「…………」
「どうしたの?」
ルカが尋ねる。
「間違えた」
アリアが指した先には、『みずうみ』と書くつもりだったところへ、余計な文字が一つ入っていた。
「どうしよう」
「間違えたところに線を引いて、その隣へ書き直せばいいよ」
「でも、きれいじゃなくなる」
「手紙なんだから、それくらいいいでしょ」
「きれいに書きたい」
せっかくシスターへ送るのだから。
自分の名前しか書けなかった頃から、ずっと待っていてくれた最初の手紙なのだから、できることなら、きれいなものを届けたかった。
アリアは少し眉を下げたまま、間違えた文字を見つめていた。
「読めますよ」
ノルンが静かに言った。
「でも、きれいじゃない」
「シスターは、きれいな紙を待っているのでしょうか」
「え?」
「それとも、アリアからの手紙を待っているのでしょうか」
アリアはすぐには答えず、もう一度便箋へ目を落とした。
間違えたところには細い線が一本入り、その隣には書き直した文字がある。ほかにも少し曲がっているものがあれば、大きさの揃っていないところもあり、あとから付け足したせいで文字同士が窮屈になっているところもあった。
きれいに整った手紙とは言えないのかもしれない。
けれど、その一つ一つに書かれているのは、全部アリアがシスターへ話したいと思ったことだった。
「……アリアの手紙」
「そうです」
「じゃあ、このままでいい?」
「アリアがよいと思うなら」
しばらく便箋を見つめたあと、アリアは小さく頷いた。
「うん」
もう一度鉛筆を握る。
今度は少しくらい文字が曲がっても、さっきほど気にならなかった。
きれいな紙を作ることが、一番大切なのではない。
自分が伝えたいことを、最後までシスターのところへ届けるために、この手紙を書いている。
そう思えば、間違えて引いた一本の線も、途中から少し小さくなってしまった文字も、全部ここで自分が一生懸命書いた跡なのだと思えた。
◇
「おばあさまー!」
しばらくして、廊下の向こうから聞き慣れた明るい声が響いた。
アリアが顔を上げる。
「リオネル!」
「今日も来たね」
ルカはもう、驚きもしなかった。
別邸へ来たばかりの頃なら、辺境伯家の息子たちが訪ねてくると聞くだけで少し身構えていたものの、この一週間で、リオネルやエミールが別邸へ顔を出すことはすっかり珍しいことではなくなっている。
乗馬の帰りに立ち寄ることもあれば、セレフィナへ挨拶をしに来たついでに庭や書庫まで顔を出すこともあり、そして大抵、最後にはアリアたちのいる場所へやって来た。
書庫の扉から顔を覗かせたリオネルは、机へ向かっているアリアを見つけると、そのまま近づいてきた。
「アリア、今日は何してる?」
「お手紙!」
「手紙?」
「シスターに書いてるの」
「見せて」
「まだだめ!」
アリアは慌てて、書きかけの便箋へ両腕を載せる。
「なんで?」
「まだ途中だから!」
「別に途中でもいいじゃない」
「だめなの!」
「分かった、分かった」
リオネルは笑いながら両手を上げ、それ以上覗き込むのをやめた。
その後ろから入ってきたエミールは、一度だけアリアの方へ目を向けたものの、すぐに書庫の中を見回した。
「マルルは?」
「ここなの」
椅子の下から、白い顔がひょこりと出る。
それを見つけた瞬間、エミールの表情がほんの少し明るくなった。
「いた」
「いたなの」
エミールはすぐにその場へしゃがみ込み、長い耳をそっと撫で始める。
マルルの方もすっかり慣れたもので、逃げるどころか、自分から少し頭を寄せていた。
「またそこ?」
リオネルが笑う。
「別にいいだろ」
「来るたびマルルじゃない?」
「マルルは人気者なの」
「本人が言ってるよ」
アリアはそんなやり取りを聞きながら、また便箋へ顔を戻した。
最初に会った時、エミールはマルルが喋っただけで固まっていた。
今では普通に名前を呼び、耳を撫で、マルルも当たり前のようにそのそばへ寄っていく。
リオネルだって、最初に会った時には辺境伯家の息子というだけで、自分たちとはずいぶん遠いところにいる人のように感じていた。
けれど今では。
「アリア、まだ?」
「まだ!」
「長いね」
「いっぱい書くことあるんだもん」
そんなやり取りをする相手になっている。
アリアは小さく笑ってから、また鉛筆を動かした。
ここへ来るまでは知らなかった人たちが、一人ずつ自分の毎日の中へ入ってきている。
その一方で、自分は今、遠く離れたシスターへ、その毎日のことを書いている。
旅を始めなければ出会わなかった人たちがいて、旅へ出たから離れてしまった人もいる。
アリアは今、その二つの間にいる。
知らなかった誰かと出会いながら、離れた誰かへ、今の自分の言葉を届けようとしている。
そう考えると、こうして手紙を書くこともまた、旅の続きのように思えた。
◇
それからしばらくして。
「できた!」
アリアが声を上げると、書庫にいた皆が一斉に振り返った。
「終わった?」
ルカが尋ねる。
「うん!」
「全部?」
「たぶん!」
「たぶんなの?」
今度はマルルが言った。
「書きたいことは全部書いたもん」
アリアは便箋を机へ置き直し、最初から一行ずつ読み返していった。
ところどころ文字は曲がっているし、間違えて線を引き、その横へ書き直したところもある。少し大きすぎる文字もあれば、あとから言葉を付け足したせいで、隣との間がぎゅっと狭くなっている場所もあった。
それでも、最初から最後まで、自分で読めた。
最後の方には、
『アリアはげんきです
ルカもマルルもノルンもげんきです
またあいたいです』
と書いてある。
そこまで読んだところで、アリアの指が止まった。
「ノルン」
「はい」
「最後、どうするの?」
「自分の名前を書けばよいですよ」
「そっか」
その答えを聞いた途端、アリアは少し嬉しくなった。
自分の名前。
一番最初に書けるようになった言葉だ。
西の教会でシスターに教えてもらった時には、「アリア」と書くだけで何度も鉛筆を止めた。あの頃は、それしか書けなかった。
けれど今は、こんなにたくさんの言葉を書いた手紙の、一番最後へ名前を書く。
アリアは少し姿勢を正し、鉛筆をゆっくり動かした。
『アリア』
一文字ずつ丁寧に書いて、最後まで終える。
それからしばらく、自分の名前を見つめた。
ノートの一番最初の頁に残っているものより少し小さく、文字の大きさもずっと揃っている。
それでも、あの時と同じ、自分の名前だった。
「できた」
今度の声は、先ほどより少し小さかった。
最後まで書けたことは、もちろん嬉しい。
けれど胸の中に広がっているものは、それだけではなかった。
この手紙が届けば、シスターは自分がここまで旅をしてきたことを知る。
元気にしていることも、文字が読めるようになったことも、とうとう一人でこんなに長い手紙を書けるようになったことも、離れていても全部伝えることができる。
「これ、ほんとに届く?」
「町へ出る便に乗せれば、西まで届けてもらえますよ」
答えたのは、いつの間にか書庫へ入ってきていたセレフィナだった。
「何人かの手を渡りますから、少し時間はかかりますけれどね」
「人から人に?」
「そうです」
その言葉を聞いて、アリアはグラナへ向かう途中の旅を思い出した。
エッダたちの大きな馬車には、塩や薬、布や日用品が積まれていた。村へ着くたび、人々が嬉しそうに集まってきて、ずっと待っていたものを受け取るように荷物を見ていた。
あの時、アリアは、商隊はみんなの「待ってた」を運んでいるのだと思った。
ならば、この手紙も同じように誰かの手から次の誰かへ渡され、町から町へ運ばれていくのだろう。
「このお手紙も旅するの?」
「ええ」
「馬車に乗る?」
「何度か乗るでしょうね」
「町も通る?」
「いくつも通ると思いますよ」
聞くたびに、アリアの顔が少しずつ明るくなっていった。
自分はまだ、西の教会へ戻ることができない。
お父さんとお母さんを探す旅の途中にいるから、今すぐシスターへ会いに行くこともできない。
けれど、この手紙なら行ける。
自分より先に、自分たちが歩いてきた道のどこかを通り、いくつもの町を越えて、あの教会まで戻ることができる。
「シスターに会えるんだ」
「手紙が?」
ルカが尋ねる。
「うん」
アリアは書き終えた便箋を、両手でそっと持ち上げた。
「アリアは行けないけど、これなら行けるもん」
ルカは少しだけ目を大きくし、それからゆっくり笑った。
「そうだね」
「いっぱい旅するね」
「なくさないようにしないとね」
「なくならないよ!」
「だから封筒に入れるんだよ」
「あ、そっか!」
アリアは慌てて机の上の封筒を探し始めた。
その様子を見ていたリオネルが笑う。
「手紙まで冒険するんだね」
「アリアのお手紙だから!」
「それは大冒険になりそうだ」
「どういう意味?」
「なんでもない」
「リオネル!」
書庫に笑い声が広がった。
◇
封を終えた手紙を両手に持ち、アリアは窓辺へ立った。
午後のミレア湖には長い光が伸び、遠くの水面まで細かな輝きが揺れている。
西の教会は、ここからは見えない。
どれほど遠く離れているのかも、アリアにはまだ正確には分からなかった。
けれど、自分たちがここまで歩いてきたように、その間にも道はずっと続いている。
馬車が走り、町と町をつなぎ、荷物や手紙が誰かの手から次の誰かの手へ渡されていく道だ。
そして今、自分が書いた言葉にも、その道を通って遠く離れたシスターのところまで行く方法ができた。
アリアは胸の前で封筒を大切に抱えた。
「行ってらっしゃい」
小さく呟く。
「誰に言ったの?」
ルカが尋ねた。
「お手紙」
「まだ出してないよ」
「これから行くからいいの」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
アリアが胸を張る。
自分の名前しか書けなかった一冊のノートから始まった文字が、今日は一通の手紙になった。
少し曲がった文字もあれば、間違えて線を引いたところもある。書きたいことが多すぎて、途中から行がぎゅっと詰まってしまったところだって残っている。
それでも、そこへ書かれているものは全部、アリアがここまで歩いてきた町や、そこで出会った人たち、驚いたことや嬉しかったことの中から、自分で選んだ言葉だった。
元気に旅をしていること。
大切な人たちと一緒にいること。
少しずつ、できることが増えていること。
今の自分を、紙の中へちゃんと残すことができた。
あとは、この手紙がアリアの代わりに旅をしてくれる。
シスターが封筒を開く日は、まだ少し先になるだろう。
それまで小さな手紙は、いくつもの町を通り、何人もの手へ渡されながら、西の教会を目指して進んでいく。
アリアは窓の向こうへ続いているはずの道を思い浮かべながら、胸の前の封筒をもう一度そっと抱き直した。
まだ、この手の中にある。
それなのに。
そう考えると、その小さな手紙はもうアリアの言葉を抱えたまま、遠い西へ向かう最初の一歩を踏み出しているような気がした。




