第87話 形にする魔法
ミレア湖の別邸へ来てから、一週間ほどが過ぎていた。
朝食を終えたアリアが庭へ出る頃には、湖の上に残っていた薄い靄もすっかり晴れ、朝の光を受けた水面が、遠くまで細かな輝きを散らしていた。
初めてここへ来た日には、目に入るものが何もかも珍しくて、湖へ行きたい、庭を見たい、あのお部屋は何、と一日中気になるものを追いかけていたけれど、今では朝食を終えたあとに何をするのかも、だいたい決まっている。
まずは飛ぶ練習をして、そのあとは魔法の練習。午後になれば文字を習い、時間があれば書庫へ行く。
旅をしていた頃のように、朝になれば荷物をまとめて次の場所へ向かう毎日ではない。今日うまくできなかったことがあっても、明日になれば同じ場所でもう一度試すことができる。
そんなふうに、一つのことへ何日も続けて向き合える毎日は、アリアにとって初めてだった。
「今日は創造魔法をします」
庭の奥にある、人の出入りが少ない芝地まで来たところで、ノルンがそう告げた。
「お花?」
「まずは、それでよいでしょう」
「やった!」
アリアはすぐに両手を胸の前へ出しかけたものの、まだ何をすればいいのか聞いていなかったことに気づき、途中でぴたりと止めた。
「でもノルン、今日は何するの?」
「一つ作って、その形をできるだけ変えずに保ちます」
「ずっと?」
「ずっとは無理です」
「どのくらい?」
「今のアリアが、無理をせず保っていられるところまでです」
言われても、自分がどこまでできるのかはアリアにも分からない。
「……分かんない」
「ですから、それを今日確かめるのです」
「そっか」
分かったような、まだ少し分からないような気持ちのまま、アリアは自分の小さな手のひらを見つめた。
少し離れた芝生では、マルルが長い耳を垂らしたまま前足で顔を洗っている。ルカは木陰へ腰を下ろし、そのそばには、ノルンがここまで両手で運んできた古い木箱が置かれていた。
花なら、これまでにも何度か作ったことがある。
丸い花びらに細い茎、その脇には小さな葉。見ればちゃんと花だと分かるくらいのものなら、もう自分でも作れる。
けれど、出来上がったことが嬉しくなったり、誰かに話しかけられて気持ちがそれたりすると、せっかく作った花はすぐに形を揺らし始めてしまう。
そして最後には。
ぽしゅん。
何もなかったように消えてしまう。
そのことを思い出しながら、アリアは胸元へ下がる白い羽根のネックレスへちらりと目を落とした。
中央にはめ込まれた水色の雫石が、朝の光を受けて淡く透けている。
魔法を使う時、この石がほんのり温かくなることにも、最近ようやく気づき始めていた。
「今日は、ぽしゅんしないようにする」
気合いを入れて両手を握ると、ノルンは静かに首を横へ振った。
「それだけではありません。まず、見てください」
「なにするの?」
「見本です」
ノルンがアリアの隣へ立ち、右手をそっと上へ向けた。
何が始まるのだろうと顔を上げた、その時だった。
ノルンの手のひらの少し上に、小さな白い光が生まれた。
「えっ」
光はゆっくりと膨らみながら輪郭を持ち、その中から細い茎が伸びていく。小さな葉が左右へ開き、その先では白い花びらが一枚ずつ重なりながら、少しずつ一輪の花の姿へ変わっていった。
ほんの少し前まで光しかなかった場所に、気づけば朝露の中で咲いていたものとよく似た、小さな白い花が浮かんでいる。
アリアは口を開けたまま花を見つめ、それからノルンを見た。
もう一度、花を見る。
「ノルン」
「はい」
「魔法、使えるの?」
「使えますよ」
「聞いてない!」
思わず声を上げると、木陰からすぐにルカの声まで飛んできた。
「僕も聞いてない」
「聞かれませんでしたから」
「それで今まで一回も使わなかったの?」
「必要がありませんでした」
「そういうもの?」
「そういうものです」
あまりにもいつもの調子で答えられ、アリアはますます納得できない。
「ノルン、ずるい!」
「何がでしょう」
「こんなに上手なのに、教えてくれなかった!」
「今、教えています」
「そうだけど!」
どうにも言い返しきれずにいるアリアの足元へ、いつの間にかマルルまで近寄ってきていた。
「ノルンのお花、消えないなの」
「そう!」
アリアは勢いよく振り返った。
言われてみれば、そこが一番不思議だった。
ノルンの手の上に浮かぶ花は少しも揺れていない。花びらの大きさも、茎の太さも、二枚の葉の形も、最初に現れた時から何一つ変わっていなかった。
「どうして?」
「必要な分だけ、魔力を流し続けているからです」
「必要な分?」
「アリアは形を作る時に、かなり強く力を使っています。そして出来上がったあとも、そのまま同じだけ力を入れ続けようとしています」
「だめなの?」
「間違いではありません。ただ、それではすぐに疲れてしまいますし、流す力が大きく揺れれば、作ったものの形まで一緒に揺れてしまいます」
ノルンはそう説明しながら、手の上の花をゆっくり前へ送り出した。
「動いた!」
花はアリアの目の前まで来ると、そこでぴたりと止まり、形を崩すことなく、くるりと一回転した。
「うわぁ……」
思わず顔を近づけても、花びらは少しも揺れない。
「触っていい?」
「触れられます。ただし、本物の花ではありませんよ」
アリアは恐る恐る人差し指を伸ばし、白い花びらへ触れてみた。
すると、指先にはほんの少しだけ、柔らかな感触が返ってくる。
「ある」
「魔力で形を作っていますから」
「でも本物じゃない?」
「そうです」
「変なの」
「創造魔法とは、そういうものです」
ノルンが指先を静かに閉じる。
すると花は、いつものアリアの魔法のように突然消えるのではなく、花びらの先から少しずつ細かな光へ変わっていった。
白い光が一枚ずつほどけ、最後に茎まで光へ戻ると、そのまま朝の空気へ溶けるように消えていく。
「ぽしゅんじゃない……」
「自分で終わらせましたから」
「ノルン、もう一回!」
「今度はアリアです」
「えー」
「見本は見せました」
ノルンの口元が、ほんの少しだけ笑っている。
アリアは名残惜しそうに、さっきまで花のあった場所を見つめた。
ノルンが魔法を使えるなんて知らなかった。それも、自分とは比べものにならないくらい上手だった。
どうしてそんなに上手なのかも聞いてみたかったけれど、ノルンはもうアリアの手元を見ている。
「同じお花?」
「同じもので構いません。見たことのあるものを、できるだけよく思い出してください」
「うん」
アリアも両手を胸の前へ出した。
目を閉じ、さっきノルンが作った花ではなく、庭で見た本物の白い花を思い浮かべていく。
丸い花びら。
細い茎。
葉っぱは二枚。
さっき見た形を何となく真似るのではなく、一つずつ頭の中で確かめながら、その花がどんな姿をしていたのか思い出していった。
やがて胸元の雫石が、ほんのりと温かくなる。
以前は魔法を使おうとすると、胸の奥にある力を一気に押し出さなければならないような感覚があった。
けれど、このネックレスをもらってからは少し違う。
勢いよく飛び出そうとする力が胸元を通ると、ほんの少しだけ穏やかになり、自分の手の中へまっすぐ届いてくるような気がする。
この数日、何度も練習を繰り返すうちに、アリア自身もその感覚を少しずつ掴めるようになっていた。
「そのままです」
目を閉じたまま、ノルンの声を聞く。
「強くしなくていいの?」
「はい。もう十分あります」
アリアの手のひらの間に、白い光が灯った。
その中から細い茎が伸び、左右へ小さな葉が開いていく。最後に白い花びらが重なり、一輪の花が形になった。
「できた!」
嬉しくなって、思わず声が弾んだ。
けれど。
花は消れなかった。
「…………!」
アリアは慌てて口を閉じた。
いつもなら、この辺りで嬉しさにつられて花が急に大きくなったり、花びらが増えたりするのに、今日は少し揺れただけで、そのまま残っている。
「ノルン!」
「花を見てください」
「あっ」
すぐに視線を戻す。
「いっぱい力を入れない」
「そうです」
「いる分だけ」
「はい」
雫石はまだ、ほんのりと温かい。
アリアは花を見つめながら、胸の奥から流れてくる力を少しだけ細くしてみた。
途端に、花がぐらりと傾いた。
「消える!」
「慌てないでください。消えそうだからといって、一気に力を足してはいけません」
「でも、消えちゃうよ」
「ほんの少しだけです」
「少し……」
怖くて、ついたくさん力を入れたくなる。
けれどアリアはぐっと我慢し、本当に少しだけ力を足してみた。
すると、傾いていた茎が、ゆっくりと起き上がっていく。
「あ」
「今のくらいです」
「できた……」
アリアは息をすることまで忘れそうになりながら、自分の花を見つめた。
少し待ってみても、まだそこにある。
「ルカ」
「なに?」
「まだある」
「あるね」
「マルル」
「あるなの」
「ノルン」
「あります」
「みんな見えてる?」
「見えていますよ」
何度確かめても、本当に消えない。
そのたび胸の中へ嬉しさが広がっていくけれど、今度はその嬉しさまで一緒に魔力へ流れ込ませないよう、アリアは胸の内側をそっと押さえるような気持ちで花を見続けた。
少しくらい笑っても消えない。
ルカと話しても消えない。
マルルが横から、
「ノルンのお花より、葉っぱがちょっと丸いなの」
と言ってきても。
「マルル!」
思わず振り返りかけ、慌てて花へ視線を戻したけれど、まだちゃんとそこにあった。
「すごい!」
今度はルカが言った。
褒められた途端、アリアの顔がぱっと明るくなり、それにつられるように花がふるりと大きく揺れる。
「わっ」
「戻して」
「うん!」
けれど今度は、ノルンから細かく言われなくても何をすればいいのか少し分かった。
強く押さえ込むのではない。
ほんの少しだけ、流れている力を整える。
そう意識すると、揺れていた花はゆっくり元の形へ戻っていった。
「戻った!」
「はい」
「わたしが戻した?」
「アリアが戻しました」
その言葉が、何より嬉しかった。
ネックレスが力を扱いやすくしてくれている。
ノルンが見本を見せてくれたから、どうすればいいのかも前より分かる。
それでも、今この花を元の形へ戻したのは、自分だった。
そう思った途端、今度はもっと試してみたくなる。
「もう一個作っていい?」
ノルンはすぐには答えず、まだアリアの手の上に残っている花を見た。
「今の花を残したままですか?」
「うん!」
「難しくなりますよ」
「やる!」
「では、試してみましょう」
アリアは一輪目を残したまま、今度はもう一方の手へ意識を移した。
同じ白い花。
同じくらいの大きさ。
葉っぱも二枚。
頭の中では、ちゃんと分かっている。
ところが二つ目の光を作り始めた途端、一輪目の花びらが、ふにゃりと曲がった。
「あっ」
慌てて意識を戻せば一輪目は元へ戻るけれど、その代わりに二輪目になりかけていた光が消えてしまう。
「むずかしい……」
「二つへ同時に魔力を流さなければならないからです」
「ノルンはできる?」
「できます」
「見たい!」
ノルンは何も言わず、両手を前へ出した。
二つの白い光が生まれ、ほとんど同時に茎と葉を作り、その先で二輪の花が開く。
さらに、もう一輪。
「えっ」
そして、もう一輪。
「ノルン!」
五輪目が現れたところで、アリアはとうとう両手を上げた。
「もういい!」
「そうですか?」
「いっぱいすぎる!」
五輪の白い花が、ノルンの周りをゆっくり回っている。どれも大きさが変わらず、葉っぱ一枚すら崩れていない。
しばらく呆然と眺めたあと、アリアは自分の手の上に残っている、たった一輪の花へ視線を戻した。
「……一個からにする」
「それがよいと思います」
「でも、いつか五個できる?」
「練習すれば」
「十個は?」
「まず二個です」
「はぁい」
木陰から、ルカの笑い声が聞こえた。
少し頬を膨らませながらも、アリアはもう一度、自分の一輪へ意識を戻した。
一個なら、まだちゃんとそこにある。
それだけでも、少し前の自分とは違っている。
◇
練習を終える頃には、朝の涼しさもすっかり薄れていた。
最後に自分の意思で花を光へ戻すと、アリアは長く息を吐きながら両手を下ろした。
「つかれたぁ……」
「最初に比べれば、ずいぶん長く保てましたよ」
「ほんと?」
「はい」
その一言だけで、疲れていたはずの顔へ少し元気が戻った。
木陰から立ち上がったルカもこちらへ歩いてきて、その後ろをマルルがぴょこぴょこと追いかけてくる。
「戻りましょうか」
「うん!」
ノルンは頷くと、木陰に置いてあった木箱のところまで歩いていき、いつものように両手で抱え上げた。
その姿を見たところで、アリアの足が止まった。
「ノルン」
「はい?」
「それ、ずっと持ってるの?」
ノルンは腕の中の木箱を見る。
「移動する時はそうですね」
「重くない?」
「持てないほどではありません」
「でも両手、使えないよ?」
言われてみれば、その通りだった。
書庫へ行く時も、庭へ来る時も、ノルンが自分で箱を運ぶなら、どうしても両手がふさがってしまう。
これまではアリアが白いポシェットへ入れて運ぶことも多かったので、あまり気にしたことがなかった。
けれど、そこまで考えたところで、アリアは急に別のことを思い出した。
「わたしが急に走った時は?」
「アリア」
ルカがすぐに反応する。
「思い当たること、いっぱいあるでしょ」
「……湖の時とか?」
「湖だけじゃないよ」
「ちょっといっぱいある」
「ちょっとなの?」
マルルまで首を傾げた。
ノルンは木箱を抱えたまま、少しだけ困ったように笑う。
「アリアが箱を持っている時に急に走ってしまうと、少し困ります」
「やっぱり!」
途端に、アリアの顔が真剣になった。
「どのくらい困る?」
「ある程度離れると、それ以上ついていけませんから」
「それは困る!」
「だから急に走らなければいいんだけどね」
ルカの言うことは、もっともだった。
もっともだったけれど、アリアの視線はもう木箱から離れなくなっている。
どうすれば、ノルンが自分で持てるのだろう。
両手を使わずに、箱も一緒に動かせるようにするには。
考えているうちに、さっきまで作っていた白い花のことが頭に浮かんだ。
まず、欲しい形を思い浮かべる。
それから、どうすればその形になるのかを考える。
花とはまるで違うのに、今していることは少し似ている気がした。
「ノルン」
「はい」
「その箱、背中にできない?」
「背中?」
ノルンが珍しく聞き返した。
「うん。こう……」
アリアは自分の背中へ両手を回そうとしてみたものの、当然届かない。
「後ろに箱があって、ここに紐があって」
今度は両肩を指差す。
「しょったら、手あくでしょ?」
ルカもノルンの腕の中にある木箱を見る。
「背負うってこと?」
「そう!」
「でも、この箱に紐を付けるところないよ」
「つける?」
「箱に金具を打ったりとか」
「駄目です」
それまで静かに聞いていたノルンが、そこだけは迷わず即答した。
「穴は開けないでください」
「開けない!」
アリアもすぐに答える。
それなら、別の方法を考えなくてはいけない。
壊してはいけない。
穴も開けてはいけない。
けれど、背中へ乗せたい。
木箱をじっと見ているうちに、アリアは少しずつ両手を動かし始めた。
「下から、ぎゅってしたら?」
「下から?」
「箱を紐で抱っこするの」
ルカが少し考え、木箱の底へ目を向けた。
「ああ。箱そのものに付けるんじゃなくて、外側から包むのか」
「そう!」
自分でも今ようやく形が見えたらしく、アリアが嬉しそうに頷いた。
「太い革を下に通して、横も押さえれば落ちないかも」
「ルカ、それ!」
「胸のところにも留めるのがあった方がいいね。走ったら揺れるし」
「走れますか?」
ノルンが聞く。
「そこ?」
「必要です」
「アリアと一緒にいるなら必要かもね」
「ルカ!」
「本当でしょ」
少し頬を膨らませたものの、その次の瞬間には、もう別のことを思いついていた。
「描く!」
「今?」
「忘れちゃうもん!」
その場で芝生へ座り込み、練習の時にも使っている小さなノートを取り出した。
まず箱を描き、その下へ太い紐を通す。肩から前へ来る二本の紐も付けてみる。
するとルカから「それだと横から落ちる」と言われ、今度は横にも一本付け足した。
ノルンから「蓋を開けられるようにしてください」と言われれば、上の部分を描き直す。
最初に頭へ浮かんだ時には、ただ「背中に箱がある」くらいしか見えていなかったものが、話しながら少しずつ形を増やしていく。
そうして出来上がった絵を、三人で覗き込んだ。
「……箱?」
ルカが言った。
「箱だよ!」
「四角い何かに見える」
「箱!」
「分かりましたから」
ノルンが助けるように言った。
「でも、言いたいことは分かります」
「ほんと?」
「はい」
アリアは嬉しそうに、自分で描いた少し歪んだ箱を見た。
頭の中にしかなかったものが、紙の上へ出てきている。
朝の魔法とは全然違う。
これは触っても消えないし、このままではまだ本物の道具にもならない。
それでも、誰かへ見せれば、自分が何を作りたいのか伝えることはできる。
「これ、作れるかな」
「革を扱う人なら作れるんじゃない?」
ルカが答えた。
「聞いてみる!」
アリアは勢いよく立ち上がりかける。
「アリア」
「なあに?」
「今度は箱を置いて走らないでね」
ルカに言われて、ぴたりと止まった。
ノルンを見る。
その腕には、まだ木箱がある。
「……一緒に行こう」
「はい」
ノルンの返事に、アリアは少し照れたように笑った。
◇
屋敷へ戻ったあと、アリアたちは廊下で見つけたイレーネへ、さっそくノートを見せた。
最初は何が描かれているのか分からなかったらしいイレーネも、アリアとルカが二人がかりで説明するうちに、ようやく木箱を背負うための道具なのだと理解したようだった。
「箱そのものには傷をつけたくないのですね」
「うん!」
「蓋も開けたいです」
ノルンが付け加える。
「それから落ちないように」
「走っても?」
「できれば」
イレーネの目が、ゆっくりアリアへ向いた。
「……なるほど」
「なんでわたし見るの?」
「何でもありません」
そう答えながら、口元だけが少し笑っている。
もう一度ノートへ目を落としたイレーネは、アリアたちの説明を頭の中で実際の形へ置き換えるようにしばらく眺めてから、ようやく頷いた。
「馬具を扱っている職人なら、こういうものは得意でしょう。幅のある革で箱を下から支え、背負い帯を付ければできると思います」
「作れる?」
「ええ。別邸へ出入りしている職人に頼んでみましょう」
「やった!」
アリアが喜ぶ横で、ノルンは腕の中の木箱へ一度目を落とした。
「ありがとうございます」
「完成するまで、少し日数をいただきますよ」
「大丈夫!」
答えたのはアリアだった。
イレーネが少し眉を上げる。
「ノルンの物ですが」
「あ」
そこで初めて気づき、アリアはノルンを見る。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「よかった!」
確認が取れれば、それだけですぐに笑顔へ戻る。
そんなアリアを見て、ノルンもほんの少しだけ口元を緩めた。
これまで木箱は、アリアが持ってくれるものだった。
あるいは、自分が両手で抱えて運ぶもの。
けれど背負えるようになれば、書庫へ行く時も庭へ出る時も、自分の手を空けたまま、箱と一緒に歩くことができる。
ほんの小さな違いに見えるかもしれない。
それでもノルンにとっては、自分が行きたい場所へ、自分の意思で、この箱と一緒に行けるようになるということだった。
もちろん、アリアがそこまで考えていたわけではない。
「これでわたしが走っても大丈夫だね!」
「できれば急に走らないでください」
「でも前より大丈夫?」
「……前よりは」
「やった!」
「そこを喜ぶところではないと思うよ」
ルカの声に、イレーネまで小さく笑った。
◇
昼食を終えると、アリアはいつものノートと鉛筆を持って、別邸の書庫へ向かった。
古い記録が並ぶ大きな棚とは別に、窓辺の低い棚には、子どもでも読める本が何冊も置かれている。
最初にここへ来た頃、アリアは本を開いても絵ばかり眺めていた。
文字の方は、知っているものを探すだけだった。自分の名前に入っている文字を一つ見つければ、それだけで嬉しかった。
けれど毎日少しずつ文字を習い、一週間ほど経った今では、一つ一つの音を表す文字なら、ずいぶん読めるものが増えている。
アリアは低い棚から、何度か絵だけを眺めたことのある薄い本を一冊抜き取った。
表紙には大きな木と、その下へ集まっている小さな動物たちが描かれている。
「それ読むの?」
隣の椅子へ腰を下ろしたルカが尋ねた。
「うん」
「前にも見てたよね」
「前は絵だけ」
「今日は?」
「読む!」
胸を張って答えると、アリアはさっそく最初の頁を開いた。
ノルンは向かいの席へ座り、持ってきた木箱を足元へ置くと、こちらから何かを教えようとはせず静かに待っている。
読めないところが出てくるまでは、自分で読ませてくれるつもりなのだろう。
アリアも最初の一行へ指を置いた。
「お、おおきな……き、の、したに」
一度止まり、次の文字へ指を動かす。
「ちいさな……とり、が……いました」
最後までたどり着いたところで、思わず顔が上がった。
「読めた」
「読めましたね」
「次!」
すぐに頁へ視線を戻す。
最初のうちは一文字ずつ指で追っていたけれど、何行か進む頃には、少しずつ指より目の方が先へ行くようになっていた。
分からない言葉が出てくれば、その時だけ止まる。
「これ、なに?」
「『木陰』」
ルカが横から答えた。
「こかげ?」
「木の下の、日が当たらないところ」
「ああ!」
意味まで分かれば、今度はばらばらの文字ではなく、一つの言葉として読める。
途中で似た文字を一度間違えてノルンに直され、長い言葉は二度読み直した。それでも頁は一枚ずつ、確実に進んでいった。
絵だけを眺めていた頃には、どうして鳥が困った顔をしているのか分からなかった。
けれど今日は、文字を読めば、その理由まで分かる。
鳥は、巣から落ちた木の実を探していたのだ。
「だから最初の絵で、ずっと下見てたんだ!」
アリアは慌てて前の頁まで戻った。
「ほんとだ。ここに一個ない!」
「絵だけ見ていた時は分からなかった?」
「うん。おなかすいてるのかと思ってた」
「アリアらしいね」
「なんで?」
「なんとなく」
少し納得できなかったけれど、それより続きの方が気になって、アリアはまた本へ顔を戻した。
鳥はやがて木の実を見つけた。
けれど最後の一個を自分で食べるのではなく、別の小さな動物へ分けてあげる。
最後の頁には、大きな木の下で、みんな一緒に食べている絵が描かれていた。
その下にある短い一文へ指を置き、アリアはゆっくりと読んでいく。
「みんなで、たべると……もっと、おいしい」
そこで言葉が終わった。
アリアはまだ続きがあると思ったのか、次の頁を探すように指を動かしてから、ようやくそこが裏表紙だと気づいた。
「おわり?」
「おしまいだね」
ルカが答える。
けれどアリアは、すぐには本を閉じなかった。
最後の絵を見たまま、少しの間じっとしている。
「ノルン」
「はい」
「わたし、全部読んだ?」
「途中で何度か手伝いましたが、ほとんどアリアが読みました」
「最初から?」
「最初から」
「最後まで?」
「最後までです」
その答えを聞いても、まだ信じ切れないように、アリアはもう一度最初の頁を開いた。
そこには、さっき自分が読んだ文字が並んでいる。
少し前までは、目には見えていても何が書かれているのか分からず、その向こうに何があるのかも知らなかったもの。
けれど今は、その文字の先に一つのお話があることを知っている。
「本って」
「はい?」
「絵のほかにも、お話入ってたんだね」
ルカが小さく笑った。
「最初から入ってたよ」
「でも、前は見えなかったもん」
読めない時には、そこへ書いてあっても、自分には見えていないのと同じだった。
まだ知らない言葉はいくつもあるし、長い文章なら途中で止まることもある。
それでも今日は、自分の力で最初の頁から最後の頁まで、一つのお話をたどり着くことができた。
そう思うと、本そのものまで昨日とは少し違って見えた。
アリアは大事そうに本を胸へ抱えた。
「もう一冊読む!」
「その前に」
ノルンが、机の上へ置かれているノートを指した。
「今日の文字の練習をしておきましょう」
「はぁい」
少しだけ残念そうに返事をしながら、アリアはノートを引き寄せた。
これまで何枚も使った頁をめくっていく。
最初の頃は、一文字だけだった。
その次は短い言葉。
最近の頁には、自分で考えた短い文まで並ぶようになっている。
そして、一番初めの頁まで戻ったところで、アリアの手が止まった。
そこには、今見ると少し曲がっていて、大きさもばらばらな文字で、一つの言葉が書かれている。
アリア。
ベルナ村の教会でシスターに教えてもらいながら、初めて自分で書いた名前だった。
その時に、このノートももらった。
頁へ指を置いた瞬間、あの日のシスターの声まで一緒に蘇ってくる。
『文字を覚えたら、お手紙を書いてくださいね』
「あ」
顔を上げたアリアの中で、その言葉と今の自分がつながった。
「ああっ!」
「どうしたの?」
ルカが驚いて振り向く。
「シスター!」
「シスター?」
「お手紙!」
アリアはノートを両手で持ち上げた。
「お手紙書くって約束した!」
「ああ」
ルカも思い出したらしい。
「最初に書くって言ってたね」
「忘れてた!」
「今思い出したならいいんじゃない?」
「でも、もう書ける!」
アリアはノートの最初に書かれた「アリア」と、たった今、自分で読み終えた本を交互に見た。
名前だけを書くのが精いっぱいだったあの時とは違う。
今なら、元気だということも、グラナへ行ったことも、湖のそばにいることも、自分の文字にできる。
「ノルン」
「はい」
「わたし、お手紙書ける?」
「書けますよ」
「ほんと?」
「今日、一冊読んだでしょう」
「うん!」
「読むことに比べれば、書く方はもう少し練習が必要ですが、短い文章なら自分で書けます」
「じゃあ書く!」
すぐに鉛筆を握った。
けれど、いざ真っ白な頁を前にすると、今度は手が止まる。
「……いっぱいある」
「何が?」
「シスターに書きたいこと」
グラナの町のこと。
大地の精霊のこと。
エッダたちと乗った大きな馬車のこと。
ミレア湖のこと。
セレフィナのこと。
これから赤くなるという月のこと。
それから、今日初めて長い時間残しておけた魔法の花。
一つ思い出すと、その向こうからまた別の出来事が出てきて、どれを最初に書けばいいのか分からなくなる。
そして今日の出来事なら、もう一つあった。
「ノルンの箱のことも書く!」
「まだ出来ていませんよ」
「でも考えた!」
「それを書くの?」
ルカが笑う。
「うん。出来たら、また書く!」
「手紙が続き物になりそうだね」
「いいの!」
アリアは真っ白な頁を見つめた。
「ノート、足りるかな」
「全部書くつもり?」
「うん」
「手紙だよ?」
「うん!」
「シスター、大変だね」
「だいじょうぶだよ」
「どうして?」
「シスター、字いっぱい読めるもん!」
何の問題もないという顔で言い切られ、ルカが吹き出した。
向かいでは、ノルンも小さく口元を緩めている。
アリアはもう一度、最初の頁に書かれている自分の名前を見た。
あの時は、この一つを書くことにも一生懸命だった。
けれど今なら、もっとたくさんのことを、自分の文字で離れた誰かへ届けられる。
朝には、頭の中に思い浮かべた花を、前よりずっと長く形にしておくことができた。
そのあとには、ノルンが困らないようにする道具を考え、下手でも自分なりに絵へして、ほかの人へ伝えることができた。
そして午後には、本の中に書かれていたお話を、自分の力で最初から最後まで読むことができた。
一週間前にはできなかったことが、少しずつできるようになっている。
魔法でも。
絵でも。
文字でも。
頭の中にしかなかったものを、自分の外へ出して、誰かにも分かる形へ変えられることが少しずつ増えているのだ。
アリアは新しい頁を開き、真っ白な紙の上へ鉛筆の先を置いた。
「最初は……」
少し考えてから、一文字ずつ、ゆっくり書いていく。
「シスターへ」
そこまで書き終えると、アリアは自分の文字を見て、嬉しそうに笑った。
その先には、まだ何も書かれていない。
けれど今度の白い頁は、何を書けばいいのか分からないから白いのではなかった。
伝えたいことが、たくさんある。
たくさんありすぎて、どこから始めればいいのか迷ってしまう。
そんな白さだった。




