第86話 届けるための文字
翌朝。
朝食を終えたアリアは、昨日自分で書いた紙を両手で大事そうに抱えながら応接室へ入った。
卓の端には、昨日使った地図や本がきれいにまとめられている。アリアはいつもの椅子へ向かう前に、自分の紙をそっと卓へ置くと、そこへ並んでいる文字をもう一度、一つずつ確かめるように眺めた。
つき。
みず。
ふね。
そら。
みち。
かぜ。
大きさはまだ揃っていないし、少し傾いているものもあれば、隣の文字へくっつきそうになっているところもある。それでも、昨日の朝までは自分の手では書けなかった言葉が、今はちゃんと紙の上に残っていた。
「今日は何書くの?」
そう尋ねながら自分から椅子へ座り、アリアは卓の上に鉛筆がないか探した。
昨日なら、地図や本が並んでいるのを見つけた途端、最初に気にしたのはおやつだった。それなのに今日は、それを尋ねるより先に鉛筆へ手を伸ばしている。
セレフィナはその小さな変化に気づいていたけれど、あえて何も言わず、アリアの前へ一枚の紙を置いた。
「今日は、昨日とは少し違うことをしてみましょうか」
「違うの?」
「ええ。同じ文字を何度も練習するのではなくて、覚えた文字を使いながら、誰かに読んでもらうものを書いてみるのです」
「誰かに?」
アリアは首を傾げた。
紙へ文字を書く。
その文字を、自分ではない誰かが読む。
昨日は、書けたことそのものが嬉しかったけれど、今日はどうやら少し違うらしい。
しばらく考えているうちに、思い当たるものを見つけたアリアの顔がぱっと明るくなった。
「お手紙?」
「そうですね」
「お手紙書く!」
言うなり椅子を降り、壁際へ置いていた白いポシェットのところまで駆けていく。
中へ両手を入れてごそごそと探し、やがて取り出したのは、小さな花の刺繍が入った布のカバー付きのノートだった。
旅の初めにシスターからもらった、大切なノート。
もらったばかりの頃より布はほんの少し柔らかくなり、何度も開いて、閉じて、持ち歩いてきたせいか、今ではもうアリアの小さな手によく馴染んでいる。
「これに書く」
卓へ戻ると、アリアはノートをそっと自分の前へ置いた。
「そのノートにするの?」
ルカが尋ねると、アリアは迷うことなく頷いた。
「うん。わたしのだから」
そして、何を書くのかと聞かれるより早く続ける。
「お父さんとお母さんに書く」
さっきまで弾んでいた声が、そこだけほんの少し静かになった。
今すぐ届けることはできない。
村がどこへ流されてしまったのかも、まだ分からない。それでも、いつか会えた時には渡せるかもしれないし、その時までに書いたものを全部見せれば、自分がどこを歩いて、誰と出会い、どんなものを見てきたのかも、一つずつ話してあげられる。
そう思いながらノートを開くと、まだ何も書かれていない真っ白な頁が目の前に現れた。
書きたいことなら、いくらでもあるはずだった。
けれど、いざ鉛筆を持って白い頁と向き合うと、そのどれを最初に書けばいいのか分からない。
「……最初、何書く?」
「アリアが一番伝えたいことからでいいのですよ」
「一番……」
鉛筆を握ったまま、アリアは考えた。
もし今、お父さんとお母さんが自分のことを考えているなら、何を一番知りたいだろう。
ちゃんとご飯を食べていること。
怪我をしていないこと。
ルカたちと一緒にいること。
いくつも浮かんだけれど、その全部より先に、まず伝えておきたい言葉が一つだけ残った。
「げんきだよ」
小さく口にすると、セレフィナが頷いた。
「いいですね」
「それ書く」
見本を書いてもらい、アリアは一文字ずつ確かめながら鉛筆を動かし始めた。
昨日覚えた言葉よりもずっと長いので、一文字書いては見本へ戻り、次へ進んではまた確かめる。途中で何度も手が止まったけれど、それでも急がず、最後まで書き終えた。
「できた」
アリアはすぐにノートの向きを変え、ルカへ差し出した。
「読める?」
「読めるよ」
「なんて?」
「『げんきだよ』」
その瞬間、アリアの顔がぱっと明るくなる。
「読めた!」
「僕が?」
「わたしの字!」
「ああ、そっち」
ルカが笑った。
昨日も文字を書いた。
セレフィナに褒められれば嬉しかったし、さっきより上手に書ければ、もう一度やってみたくなった。
けれど今の嬉しさは、それとは少し違う。
自分が紙の上へ書いたものを、ルカが読んだ。
ただ線を並べただけではない。自分の中にあった「元気だよ」という言葉が文字になり、それを見たルカへ、ちゃんと同じ意味で届いた。
それが分かると、アリアはすぐにノートを自分の方へ戻し、もう次の行へ鉛筆を置いた。
「次はね」
「まだ書くの?」
「うん。『つぎの ばしょに ついたよ』」
「急に長くなったね」
「書けるもん」
知らない文字はセレフィナへ聞き、さっき書いたばかりのものなら自分で思い出しながら、一文字ずつ進んでいく。
文字と文字の間が広くなりすぎたり、反対に詰まってしまったりもした。
途中で一文字間違えた時には、鉛筆が止まり、アリアの眉が少し寄った。
「あ」
いつもの練習なら、その横へ書き直して終わりだったかもしれない。
けれど今日は、間違えた文字をしばらく見つめてから、もう一度見本を確かめた。それから隣へ鉛筆を置き、さっきよりゆっくりと、読める形になるように線を引いていく。
お父さんとお母さんが読むものだから。
少しでも、ちゃんと読める字にしたかった。
最後まで書き終えると、またノートをルカへ向ける。
「これは?」
ルカが一文字ずつ目で追った。
「『つぎの ばしょに ついたよ』」
「全部読めた?」
「全部」
「よし!」
そこまで書けると、今度は何を書けばいいのか迷うこともなくなった。
伝えたいことが、次々に浮かんでくる。
ルカも元気。
ノルンも元気。
マルルも元気。
「マルルもいっぱい元気なの!」
足元から、すぐに声が上がった。
「いっぱいも書く?」
「書くなの!」
アリアは少し考えた。
「それはあと」
「なの……」
期待していた長い耳が、分かりやすくしゅんと下がる。
ルカがノートを覗き込みながら笑った。
「なんか、みんなが元気ですっていう報告になってきたね」
「だって心配するでしょ?」
アリアは顔も上げず、ごく当たり前のことのように答えた。
その返事に、ルカは一瞬何も言えなくなった。
旅へ出てから、アリアは毎日のように新しいものを見つけて喜んでいる。知らない町を歩けば目を輝かせ、初めて見るものがあれば、すぐ近くまで行って確かめたがる。
楽しいことは、ずいぶん増えた。
できることも、少しずつ増えている。
けれど、それでこの旅を始めた理由が変わったわけではない。
お父さんとお母さんに会いたい。
村のみんなのところへ帰りたい。
そのために、今も鍵の欠片を探している。
どれほど旅の途中に楽しいものが増えていっても、アリアの進んでいる道のずっと先には、最初から変わらず二人がいるのだろう。
「……そうだね」
ルカが答えると、アリアは安心したように頷き、またノートへ向かった。
「みずうみも書く」
「何て?」
「おっきいよ。きれいだよ」
「それなら、お父さんとお母さんにもどんなところか分かるね」
「うん!」
また鉛筆が動き始める。
その横顔を、セレフィナは何も言わず見守っていた。
昨日のアリアは、一つ書けるたびに褒められることが嬉しくて、もう一度、もう一度と鉛筆を動かしていた。
けれど今日は違う。
褒められるのを待つより先に、次に伝えたいことを考えている。間違えれば自分から見本へ戻り、少し読みにくいと思えば書き直そうとする。
文字を覚えることそのものが目的なのではない。
その文字の向こうに、お父さんとお母さんがいる。
それだけで、アリアの鉛筆の動きまで昨日とは違って見えた。
ならば、この子に必要なのは、ただたくさん覚えなさいと繰り返すことではないのかもしれない。
何のために覚えるのか。
覚えたものの先に何があるのか。
それが見えれば、アリアは自分から手を伸ばす。
セレフィナはそれ以上口を挟まず、次の一文字をアリアが自分で書き終えるまで、静かに待っていた。
◇
同じ卓の少し離れた場所では、ノルンが朝から古い記録を読み続けていた。
昨日までに目を通したものとは別に、書庫から何冊か新しい資料を運んでもらっている。
湖の水位や漁の時期、舟の事故、天候、湖畔で行われていた祭り、過去に行われた修繕の記録。
今回調べていることとはほとんど関係がなさそうな頁も多かったけれど、ノルンは簡単には読み飛ばさなかった。
一見すると何でもない一行が、別の記録と結びつくことがある。
あの古い言葉を見つけた時も、そうだった。
しばらく応接室には、アリアが新しい文字を書く鉛筆の音と、ノルンが古い紙をめくる音が一緒に続いていた。
「ノルン」
「はい」
「『きれい』ってどう書くの?」
呼ばれて本から顔を上げたノルンは、小さな紙を一枚取り、見本を書いてアリアへ渡した。
「こうです」
アリアは紙を見るなり、少し眉を寄せた。
「……一個多い」
「何がです?」
「文字」
「さっきの言葉より一文字多いだけですよ」
「一文字も多いよ?」
ノルンは一瞬だけアリアを見た。
それから、ごく穏やかな顔で答える。
「でも、アリアなら書けるかもしれませんね」
「…………」
アリアがノルンを見る。
次に、セレフィナを見る。
二人とも、まるで何でもないことを言ったような顔をしていた。
「……書く」
アリアは鉛筆を握り直した。
その様子を見ていたルカが吹き出す。
「ノルンまでやり方覚えた」
「何のことでしょう?」
「何でもない」
アリアだけが何の話か分からないまま、「きれい」の文字と格闘し始める。
ノルンはほんの少しだけ口元を緩めると、再び本へ視線を戻した。
何枚か頁をめくる。
その途中で、指が止まった。
「…………」
それまで読んでいた記録より、紙そのものが古い。
文字の形にも、少し違いがある。
ノルンは一度文章を最後まで追ったあと、途中の一行へ戻り、もう一度ゆっくり読み直した。
「何かありました?」
その様子に気づいたセレフィナが尋ねる。
ノルンはすぐには答えず、前後の記述まで確かめてから顔を上げた。
「少し、気になる記録があります」
その声に、地図を見ていたルカも顔を上げた。
アリアの鉛筆まで止まる。
「赤いお月さま?」
「それとは、まだ分かりません」
ノルンは本を少し動かし、皆から見える向きへ置いた。
「満月の夜に、湖の中央へ舟を出した者について書かれています」
ルカがすぐに椅子を寄せた。
「どの辺り?」
「場所は詳しくありません。『湖心』とだけ」
湖心。
その言葉なら、アリアにもすぐ分かった。
湖の真ん中。
マルルのコンパクトが向いていたところ。
船がどちらを向いても、青い光が進む先を指し続けた場所だ。
「その人、着いた?」
アリアが尋ねると、ノルンは古い文字を目で追いながら、ゆっくり首を横へ振った。
「『満月の夜、湖心へ舟を進めるも、求めし場所には至らず』とあります」
ルカの表情が少し変わる。
「……着かなかったんだ」
「そう読めます」
アリアの頭にも、先日の湖が戻ってきた。
船が右へ向いても、左へ向いても、来た方へ戻ろうとしても。
コンパクトの青い光は、いつもその時の船の進む先へ伸びていた。
そこへ行こうとしているのに、進めば進むほど、その先へ逃げてしまうような不思議な光。
「わたしたちと同じ?」
「似てはいます」
ノルンはすぐに同じだとは決めつけなかった。
「ただ、この一文だけで、同じことが起きたとは言えません」
「そっか」
それなら、もう少し読めば何か分かるかもしれない。
アリアも黙って本を見る。
ノルンは続きを読み進め、少し先まで行ったところで、再び指を止めた。
「それと……もう一つ、気になる記述があります」
「なに?」
前後をもう一度確認してから、ノルンはゆっくりと読み下した。
「『水鏡の月、空の月と重なりし時、湖心に異なる景を見たとの古言を記す』」
応接室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
アリアの中に、これまで聞いてきた言葉が次々と戻ってくる。
書庫でノルンが読んだ三行。
赤き月、水鏡に沈みし夜。
二つの月、重なりし時。
空の子は、境を見る。
それより前には、エレノアから聞いた古い歌もあった。
月影の浮かぶ水鏡。
求むる者は辿り着けず。
忘れられし空の子のみ。
その門を見る。
船長からは、昔の船乗りたちが、満月の夜には湖の中央へ近づくなと言っていたことも聞いている。
どれも、まったく同じ話ではない。
残された時代も、使われている言葉も、誰が伝えたものなのかも違う。
それなのに、こうして別々に見つけた話の中から、満月、湖の中央、そして辿り着けない場所という同じものが、少しずつ姿を見せ始めている。
別々だったものが、同じ場所の周りへ集まってきているようだった。
「昔の人も、ここまで行ったんだね」
アリアは古い本を見ながら呟いた。
「そうかもしれません」
「それでも、着かなかったんだ」
「この記録では、そう読めます」
アリアはしばらく、開かれた頁を見つめていた。
そこには、自分では読めない文字がびっしりと並んでいる。
ノルンには読める。
ずっと昔の誰かが見たことや、聞いたこと。
その人が文字へ残してくれたからこそ、今ここにいる自分たちまで、その出来事を知ることができる。
ほんの少し前、自分で書いた「げんきだよ」をルカが読んでくれた時、アリアは嬉しくて仕方がなかった。
自分の文字が、誰かへ届いた。
けれど今、目の前にあるのは、その反対だった。
ずっと昔の誰かが残した言葉が、何年も何十年も、もしかするともっと長い時間を越えて、自分たちのところまで届いている。
ちゃんとここまで来ているのに。
自分一人では、まだ受け取れない。
「……わたしも読めたらいいのに」
思っていたことが、そのまま小さな声になった。
セレフィナがアリアを見る。
「読みたいと思いますか?」
「うん」
アリアは自分のノートへ視線を落とした。
今日書けた文字。
昨日覚えた文字。
そして、まだ知らない文字。
知っているものを数えるより、知らないものを数える方がずっと大変なくらい、まだ読めない文字はたくさんある。
「全部覚えたら、こういう本も読める?」
「今使われている文字なら、ずいぶん読めるようになりますよ」
「古いのも?」
「それには、もっと勉強が必要ですね」
「もっと?」
「もっとです」
アリアは少しだけ口を尖らせた。
けれど、嫌だとは言わなかった。
もう一度、古い本を見る。
読めない文字の向こうには、自分がまだ知らないことがある。
ミレア湖のこと。
湖心に現れるという「異なる景」のこと。
鍵の欠片へ近づくために必要なこと。
そして、その先には、お父さんとお母さんへ会うための道が続いているかもしれない。
「じゃあ、もっとやる」
今度は誰かに勧められたからではなかった。
アリア自身が、読みたいと思った。
セレフィナはそれが分かったのか、ただ微笑むだけで、もう何も付け加えなかった。
◇
昼を過ぎる頃には、花の刺繍が入ったノートの一頁が、ほとんど文字で埋まっていた。
最初の方は大きかった文字も、下へ進むにつれて少しずつ小さくなっている。行はまっすぐではなく、途中で上へ上がったり下へ下がったりしていて、決してきれいに揃っているとは言えない。
それでも、アリアが伝えたかったことは、ちゃんと文章になってそこへ残っていた。
ノートを自分の前へ置き直すと、アリアは指で最初の行をたどる。
「げんきだよ」
そこはもう、ほとんど迷わず読めた。
次の行では、ところどころ止まりながら文字を追う。
「つぎの ばしょに ついたよ」
その下には。
ルカも元気。
ノルンも元気。
マルルも元気。
「なの!」
自分の名前を聞いたマルルの長い耳が、嬉しそうに揺れた。
アリアは笑いながら、さらに指を下へ動かす。
「みずうみは……おっきいよ。きれいだよ」
最後まで読み終えても、すぐには顔を上げなかった。
文字しか書かれていない頁なのに、見ていると、ミレア湖を初めて見た時のことが浮かんでくる。
丘を越えた瞬間、どこまで続いているのか分からないほど広がっていた青い水面。
船の上で頬へ当たった風。
水の中のお魚ばかり気にしていたマルル。
書けていないことの方が、まだずっと多い。
それでも、この頁を見せれば、自分が元気だったことも、誰と一緒にいるのかも、どんな場所へ来たのかも少しは伝わる。
「これ、お父さんとお母さん、読めるかな」
「読めますよ」
セレフィナが答えた。
「アリアが元気なことも、誰と一緒にいるのかも、ミレア湖が大きくてきれいだったことも分かります」
アリアはもう一度、頁を見る。
絵は一つも描いていない。
けれど、そこにはルカもいる。
ノルンも。
マルルも。
そして今ここで旅をしている自分も、ちゃんといるような気がした。
「また書いていい?」
「もちろん」
「次の場所に着いた時も?」
「ええ」
嬉しくなって、アリアは残りの頁をぱらぱらとめくった。
まだ何も書かれていない白い頁が、たくさん残っている。
「いっぱい書いたら、わたしたちがどこ行ったか全部分かる?」
「いつ書いたのかも残しておけば、もっと分かりやすいですよ」
古い本から顔を上げたノルンが言った。
「いつ?」
「日付です」
「ひづけ?」
ノルンは紙の端へ今日の日付を書き、アリアにも見えるように差し出した。
「こうしておけば、あとから見た時に、この手紙を書いた日が分かります」
アリアは見本をじっと見てから、自分のノートにも同じように書き始めた。
途中で一度、形を間違えた。
「あ」
前なら、そこで少し残念そうな顔をしていたかもしれない。
けれど今日は、その横へすぐ鉛筆を置き、今度はさっきよりゆっくりと線を引いていった。
「これで今日?」
「はい」
「明日は?」
「一つ変わります」
「じゃあ明日も書く!」
「毎日?」
ルカが笑う。
「うん!」
「お父さんとお母さん、読むの大変になりそう」
「読むもん」
「読むと思うけど」
「全部読んでもらうの」
アリアは迷わなかった。
ルカも、それ以上は何も言わずに笑った。
◇
夕方になり、そろそろ応接室を出ようという頃。
アリアはノートを閉じかけて、途中で手を止めた。
何かを思い出したようにもう一度最後の頁を開き、鉛筆を持つ。
「どうしました?」
セレフィナが尋ねる。
「もう一個だけ書く」
「何を?」
「最後に」
アリアは今日覚えた文字を一つずつ思い出しながら、ゆっくり鉛筆を動かした。
今度は途中で見本を確かめることもない。
一文字ずつ、自分の中から探して書いていく。
そして最後まで終えると、満足そうに鉛筆を置いた。
また かくね。
最後の「ね」だけが、ほかより少し大きくなっている。
「できた」
アリアは一度声に出して読み返し、今度こそノートを閉じた。
花の刺繍が入った表紙を、両手でそっと撫でる。
この手紙をいつ渡せるのかは、まだ分からない。
旅へ出たばかりの頃は、お父さんとお母さんへ会えるまでどれくらいかかるのかさえ分からなかった。
今は少しだけ知っている。
八つに分かれた鍵の欠片を探さなくてはいけない。
ミレア湖では、次の満月まで待たなければ見えないものがあるのかもしれない。
きっと、会えるまでにはまだ時間がかかる。
けれど、その間に過ぎていくものまで、なくなってしまうわけではない。
自分がどこへ行ったのか。
誰と出会ったのか。
何を見て、何を覚え、何を楽しいと思ったのか。
会えない時間が長くなっても、こうして書いておけば、その時間まで全部持って帰ることができる。
そう思うと、シスターからもらったノートが、朝ここへ持ってきた時よりも、もう少しだけ大切なものになったような気がした。
白いポシェットへしまおうとして、ふと隣を見る。
ノルンの前には、さっきの古い本がまだ開かれていた。
何十年も前なのか。
それとも、もっと昔なのか。
今では名前も分からない誰かが書いた文字が、そこに残っている。
「ノルン」
「はい」
「それ書いた人、誰に書いたの?」
「この記録を残した人ですか?」
「うん」
ノルンは少し考え、開かれた頁へ視線を落とした。
「誰か一人に宛てて書いたものではないと思います」
「じゃあ、誰に?」
「あとから読む人に、でしょうか」
「あとから……」
アリアは古い文字を見つめた。
これを書いた人は、ずっと先の時代に、アリアたちが自分の言葉を読むことなど知らなかっただろう。
それでも、書かれた文字はなくならずに残った。
そして今日、ノルンがそれを読んだことで、ずっと昔の誰かが知っていたことを、自分たちも知ることができた。
「それも、お手紙みたいだね」
ノルンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「そうかもしれませんね」
アリアは、自分のノートと古い本を見比べた。
自分が今日書いたものは、いつかお父さんとお母さんへ届けるための文字。
目の前にある古い記録は、いつか誰かが読む日のために残された文字。
書いた時には、いつ誰へ届くのか分からなかったのかもしれない。
それでも、今こうして届いている。
ならば。
書かなければ、届くこともない。
「わたし、いっぱい書く」
朝にも似たようなことを言った。
けれど今は、その言葉の中にあるものが少しだけ違っていた。
上手に文字を書けるようになるためだけではない。
今の自分を、離れている人へ。
まだ会えない人へ。
いつか、ちゃんと届けるために。
アリアは花の刺繍が入った大切なノートを、白いポシェットの中へそっとしまった。




