第85話 知っていて損はありません
教会から戻った、その日の午後。
別邸の応接室へ入ったアリアは、いつものように卓へ近づきかけて、途中でぴたりと足を止めた。
昨日までなら、そこには紅茶や果実水があり、小さな焼き菓子の皿が置かれていることも多かった。だから今日も何となく同じものを期待していたのだけれど、目の前に広がっていたのは、どう見てもお茶の時間とは違う光景だった。
卓の真ん中には大きな地図が広げられ、その周りを何枚もの紙や鉛筆、厚さの違う本が囲んでいる。アリアは卓の端から端までゆっくり眺めたあと、もしかしたら紙の向こうへ隠れているのではないかと思ったのか、少し身体を傾けてもう一度確かめた。
「……おやつは?」
「ありますよ」
向かいに座っていたセレフィナの返事に、アリアの顔がぱっと明るくなる。
「あとで」
「…………」
せっかく輝いた顔が、その一言ですぐに元へ戻った。
「あと?」
「ええ」
「どのくらいあと?」
「今日することが終わったらですね」
アリアはもう一度、卓の上を見る。
紙もある。鉛筆もある。本は一冊どころではないし、そのうえ大きな地図まで広がっている。
「いっぱいあるよ?」
「ありますね」
「これ、全部するの?」
「全部ではありませんよ」
「よかったぁ……」
心から安心したように息を吐いたアリアを見て、隣にいたルカが小さく笑った。
「何で笑うの?」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
「……ちょっとだけ」
頬をぷくっと膨らませるアリアを楽しそうに眺めながら、セレフィナは卓の上から一枚の紙を取り出し、その前へそっと置いた。
次の満月までは、まだ一か月近くある。
皆既月食の夜、ミレア湖に何が起こるのか。書庫で見つけた古い言葉が何を意味しているのか。そして、湖の中央を指し続けるマルルのコンパクトの先に、本当に鍵の欠片があるのか。
今すぐ湖へ出たところで、その答えが見つかるわけではない。
それなら、ただその日を待つのではなく、今のうちにできることを少しずつ増やしておけばいい。セレフィナが卓いっぱいに紙や本を用意していたのは、そのためだった。
「アリア」
「なあに?」
「昨日、書庫で見つけた言葉を覚えていますか?」
「覚えてるよ!」
「では、何がありました?」
聞かれた途端、アリアは嬉しそうに指を一本立てた。
「赤いお月さま!」
「それもありましたね」
続いて、もう一本。
「二つのお月さま!」
「ええ」
けれど、その次がなかなか出てこない。アリアは少し上を向き、昨日ノルンが読んでくれた言葉を頭の中から探していたが、やがて何かを見つけたように顔を戻した。
「あ! 空の子!」
「よく覚えていましたね」
「うん!」
褒められた途端、座っている背中まで少し伸びる。
セレフィナは何も言わず、今度はアリアの前へ鉛筆を一本置いた。
「では、今日はその中から一つ覚えてみましょうか」
「どれ?」
「『つき』です」
「……つき?」
「ええ」
アリアは鉛筆を見て、その次に紙を見たあと、もう一度鉛筆へ視線を戻した。
「書いたことない」
「なら、今日覚えればいいでしょう」
「むずかしい?」
「どうでしょうね」
「どのくらい?」
難しさにも大きさがあると思っているらしい。
セレフィナは少し考えるふりをしてから、穏やかに答えた。
「アリアなら、すぐ覚えられるかもしれませんね」
「…………」
その言葉を聞いた途端、小さな手がするりと鉛筆へ伸びる。
「できるよ」
あまりにも早い変化に、隣でルカが吹き出した。
「早いね」
「何が?」
「なんでもない」
セレフィナも笑いをこらえるようにしながら、アリアの前へ真っ白な紙をもう一枚置いた。
◇
最初に書いた「つ」は、少しだけ曲がっていた。
アリアは書き終えるなり、自分の文字をじっと見つめ、それから見本へ目を移した。何度か二つを見比べるうちに、どうやら自分でも違いが分かってきたらしい。
「……ちがう」
「少しだけですね」
「へた?」
「初めから上手に書ける人はいませんよ」
その返事に、アリアがすぐ顔を上げる。
「セレフィナおばあちゃんも?」
「もちろんです」
「へたなの書いた?」
「書きましたよ」
「見たい」
「もう残っていませんね」
「捨てたの?」
「ずいぶん昔のことですから」
「そっか」
少し残念そうではあったけれど、自分だけができないわけではないと分かったからか、アリアはすぐに鉛筆を握り直した。
今度はさっきよりゆっくり、見本の線を目で追いながら、自分の紙へ同じ形を作っていく。途中で一度手を止めて見比べ、それから残りを書き終えると、最初よりずっと形の整った「つ」が紙の上へ残った。
「……できた」
「さっきより、きれいですよ」
「ほんと!?」
「ええ」
アリアは紙へ顔を近づけ、最初の文字と今の文字を何度も見比べた。どこがどう違うのかを誰かに説明できるほどではなくても、自分で見れば、今書いた方がずっと上手だということは分かる。
「こっちの方が上手」
「そうですね」
「もう一回書く!」
「では今度は、見本を見ないで書いてみましょう」
「できる!」
少し前まで、おやつがいつ出てくるのかばかり気にしていたことなど、もうすっかり忘れてしまったようだった。
アリアは紙へ顔を向けたまま、さっき見た線の形を頭の中から探している。
セレフィナは急かさず、その様子をただ見守っていた。
アリアは、長い時間じっと座っていることが得意な子ではない。窓の外で鳥が飛べば目で追うし、マルルが何か言えばすぐにそちらへ振り向く。面白そうなものを見つければ、気持ちはあっという間に別のところへ飛んでいってしまう。
けれど、一度「できそう」と思った時だけは違った。
さっきより少し上手にできたのなら、もう一度試してみたい。次もできたなら、その次はもっときれいにできるかもしれない。誰かに言われたからではなく、自分からもう一度やってみたくなって、自然と先へ手が伸びていく。
「……簡単だなあ」
隣から聞こえたルカの小さな声に、アリアの鉛筆がぴたりと止まった。
「何が?」
「何でもない」
「言った」
「気のせい」
「言ったよ」
ルカが知らないふりをして地図へ目を向けたところで、今度はセレフィナの視線がそちらへ動いた。
「では、ルカ」
「はい?」
返事をした瞬間、猫耳がほんの少しだけ後ろへ向く。
その目の前へ、卓いっぱいに広げられていた地図がするりと移動してきた。
「こちらへ」
「……やっぱり」
「何がです?」
「いえ」
ルカは小さく息を吐いたものの、逃げることはせず、自分から椅子を地図の方へ寄せた。
◇
卓いっぱいに広げられていたのは、ミレア湖とその周辺を描いた地図だった。
大きく広がる湖を囲むように街道が走り、そこから村や森へいくつもの細い道が分かれている。湖へ流れ込む川や、いくつかの舟着き場まで小さな印で記されており、先日自分たちが船を出した場所も、その中にちゃんと見つけることができた。
「先日、船ではこの辺りまで出ましたね」
セレフィナの指が湖岸から水面へ進み、中央へ近づいたところで止まる。
「はい」
「マルルのコンパクトは、どこを示していました?」
「湖の真ん中の方」
「そうですね。では、次の満月の夜、この辺りへ行くとしたら何が必要でしょう?」
ルカは聞かれて、まず頭に浮かんだものから答えた。
「船」
「ええ」
「船を動かす人。それから灯り」
「灯りは、どうして?」
「夜だから」
「それだけですか?」
「…………」
そこで初めて、セレフィナが欲しいのは思いついたものを次々と並べることではなく、実際にその夜の湖へ出たつもりになって考えることなのだと気づいた。
ルカは地図へ目を落とし、湖岸から中央までの距離を目で追いながら、先日船へ乗った時のことを思い出していった。
岸に近いうちは、別邸も木々も大きく見えていた。けれど船が進むにつれてそれらは少しずつ小さくなり、湖の中央へ近づく頃には、意識して振り返らなければ、どちらから来たのかさえ分かりにくくなっていた。
「……岸から遠くなったら、帰る場所が分からなくなるかもしれない」
「そうですね」
「じゃあ、目印もいる」
「どんなものが使えそうです?」
「舟着き場の灯りとか」
「湖の中央から見えなければ?」
また、ルカの指が止まった。
セレフィナは答えを教えない。
けれどルカも、もうすぐに聞こうとはしなかった。
夜の湖へ出て、岸が遠くなり、別邸の灯りも見えなくなった時。それでも戻らなければならないのなら、目に見えるものだけに頼るわけにはいかない。
「方角が分かるもの」
やがて、そう答えた。
「例えば?」
「羅針盤」
その言葉に、少し離れたところで丸くなっていたマルルの長い耳がぴくりと動いた。
「マルルも分かるなの!」
「あ」
ルカが振り返る。
「尻尾があった」
「あるなの!」
「いや、そういう意味じゃなくて」
マルルは慌てたようにくるりと後ろを向き、自分の丸い尻尾を確かめる。
「ちゃんとあるなの」
「見えてるよ」
アリアが声を上げて笑った。
「なくなってないよ」
「そうなの」
どうやら安心したらしいマルルを見て、セレフィナも笑いながら地図へ視線を戻した。
「では、ほかには?」
今度のルカは、先ほどより少し考え方が分かっていた。
夜の湖へ出るなら、行き先だけではなく、そこへ向かう間に何が起こるのかも考えなければならない。
「天気。それから、風も」
「そうですね」
「雨も」
「それも大切です」
ルカはそこで一度、地図から顔を上げた。
「……まだあります?」
「ありますよ」
「いっぱいですね」
「ええ」
セレフィナは地図の上へそっと手を置いた。
「知っていて損はありませんから」
その言葉に、紙へ向かっていたアリアまで顔を上げる。
「今すぐ使わないことでも?」
「ええ」
セレフィナの指が、湖へ流れ込む川から森へ動き、そこから街道を通って、もう一度湖へ戻ってきた。
「今は必要ないと思っていたことが、いつ、どこで役に立つかは分かりません」
ルカは黙って、その指先を見ていた。
旅へ出る前には、知らなかったことがたくさんあった。
一日歩き続ければ、疲れてから休むのでは遅いこと。飲み水は、なくなってから探すのではなく、補給できる場所で少しずつ足しておいた方がいいこと。知らない道では目印を覚え、人がいないからといって危ない場所へ勝手に入ってはいけないこと。そして、自分たちの事情を誰にでもそのまま話してよいわけではないこと。
最初から全部知っていたわけではない。
困ったこともあったし、失敗したこともある。そのたび誰かに教えてもらい、次に同じことが起きた時になって、ようやく前より少しだけ上手にできるようになった。
そう考えると、今セレフィナから教えてもらっていることも同じなのかもしれない。
次の満月の夜に本当に必要になるかどうかは、その時になってみなければ分からない。
それでも、知っていれば選べることが一つ増える。
「……覚えます」
ルカが言った。
「ええ」
セレフィナが穏やかに頷く。
すると、その横から小さな手が元気よく上がった。
「わたしも!」
「何をです?」
「知識!」
「何の知識を?」
「いっぱい!」
「アリア」
ルカが横から口を挟む。
「今、何も決めてないよ」
「でも、いっぱい覚える!」
「その前に『つき』を書き終わらせてね」
「あ!」
アリアの顔が慌てて紙へ戻り、セレフィナはまた少しだけ笑った。
◇
それからしばらくすると。
「できた!」
アリアが両手で紙を持ち上げた。
そこには、大きさも形もまだ少しずつ違うけれど、今日覚えたばかりの言葉がいくつも並んでいる。
つき。
みず。
ふね。
そら。
みち。
「全部、一人で書いたのですか?」
「うん!」
「よくできましたね」
「ほんと?」
「ええ」
「ぜんぶ?」
「全部ですよ」
アリアの目がぱっと輝き、紙を置くより早く、もう次の白い紙へ手が伸びた。
「じゃあ次もできる!」
「まだやるの?」
地図から顔を上げたルカが尋ねる。
「やる!」
「おやつは?」
「…………」
鉛筆を持った手が止まった。
あれほど楽しみにしていたものを、今の今まで本当に忘れていたらしい。アリアの顔からさっと何かが抜けたように見えて、セレフィナは笑いそうになるのを隠すように紅茶の器を口元へ運んだ。
「忘れていました?」
「忘れてないよ」
「今、顔がそう言ってた」
「言ってない」
「言ってた」
「ルカも地図やって!」
「やってるよ!」
「二人とも」
少し離れたところから静かな声が飛んできた。
「本が読みにくいです」
「はぁい」
「ごめん」
二人の声が同時に小さくなる。
その向こうでは、ノルンが最初からほとんど姿勢を変えず、一冊の厚い本を読み続けていた。
騒がしくなれば顔を上げることはあっても、またすぐに同じ頁へ戻り、気になるところを見つければ指を止めて別の本と見比べ、必要なら紙へ書き留める。
アリアは何かを見つけると、そこへ真っすぐ飛び込んでいく。
ルカは分からないことにぶつかれば、一度立ち止まり、自分で考えてから進もうとする。
ノルンは、すぐに答えが見つからなくても、そこにあるものを一つずつ拾いながら静かに奥へ進んでいく。
やり方はまるで違う。
それでも旅を続けるうちに、誰かが見つけたものを別の誰かが考え、さらにもう一人が確かめるような形が、いつの間にか三人の間にできていた。
◇
ノルンが読んでいたのは、ミレア湖周辺に残された古い記録だった。
漁を始める時期や季節ごとの水位、湖へ吹く風の向き。湖上で起きた事故や、今では行われなくなった祭り、使われなくなった舟着き場について書かれた頁まであり、その中に時折、月についての記述が混じっている。
部屋が少し静かになると、頁をめくる音だけが小さく響いた。
「ノルン」
今度は邪魔にならないよう、アリアが小さな声で呼ぶ。
「はい」
「面白い?」
「面白いですよ」
「今日も全部?」
「今日は全部ではありません」
アリアが思いきり驚いた。
「ノルンでも?」
「面白くない本もありますよ」
「あるんだ……」
どうやらノルンは、どんな本でも楽しく読めるものだと思っていたらしい。
「でも、必要なら読みます」
「面白くないのに?」
「知りたいことが書いてあるかもしれませんから」
その答えを聞いたアリアは、自分の前に置かれた紙へ目を落とした。
つき。
みず。
ふね。
少し前まで、自分では書けなかった文字が、今はちゃんと紙の上に残っている。
「ノルンも、知識?」
「そうですね」
「いっぱい持ってるね」
「まだまだです」
「もっと?」
「もっとです」
アリアは少し考え込んだ。
「頭、いっぱいにならない?」
「なりません」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん!」
さっきまで何でも迷わず答えていたノルンから思いがけない言葉が返ってきて、アリアが笑った。
ノルンもほんの少しだけ口元を緩め、また頁へ視線を戻す。
知らないことはいくらでもある。
けれど、知らないことそのものが困るわけではない。分からないと気づいた時に、知ろうとすればいい。
アリアはもう一度、自分の文字を見た。
ほんの少し前まで書けなかった「つき」が、ちゃんとそこにある。
今日一つ知ったのなら、明日は今日よりもう少しだけ知っている自分になれるのかもしれなかった。
◇
夕方が近づく頃には、卓の上は始めた時とはずいぶん違う姿になっていた。
アリアが何度も文字を書いた紙が重なり、ルカの前に広げられた地図には、最初にはなかった小さな印や書き込みが増えている。ノルンの周りには何冊もの本が開かれ、その間には、気になった箇所を書き留めた紙まで挟まっていた。
そして卓の端では、マルルが丸くなって眠っている。
「マルル、何もしてない」
アリアが言うと。
「してたなの」
目を閉じたまま返事が来た。
「何してたの?」
「聞いてたなの」
「寝てたよ?」
「聞きながら寝てたなの」
「できるの?」
「できるなの」
「すごい」
「信じるんだ」
ルカが呆れたように言った、その時だった。
扉が軽く叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのはイレーネだった。
手には何枚かの紙があり、応接室へ入るなりセレフィナのそばまで歩いてくる。
「大奥様」
「何か分かりました?」
「湖の中央へ向かう場合について、船長と確認してきました」
最初に顔を上げたのはルカだった。
ノルンも読みかけの頁へ印を挟んで本を閉じ、アリアまで鉛筆を置く。それまで三人ともまったく違うことをしていたのに、「湖」という言葉一つで、視線が同じ場所へ集まった。
「満月の夜でも、天候に問題がなければ出航は可能です」
「ほんと?」
アリアが身を乗り出す。
「ただし、夜間ですので、昼間と同じようにはいきません。湖の上では岸辺より強く風が吹くことがありますし、雲が出れば月そのものが見えなくなる可能性もあります。それに今のところ、目的地は湖の中央付近としか分かっていません」
「コンパクトが教えてくれるよ」
「そうですね」
「マルルもいるなの!」
さっきまで眠っていたはずのマルルが、むくりと顔を上げた。
「尻尾が方角を示すことも聞いています」
「なの!」
胸を張る。
やはり、自分に関係するところだけはしっかり聞いていたらしい。
「ですが、一つの方法だけに頼らず、いくつか帰る手段を用意しておいた方が安全でしょう」
その言葉にセレフィナが頷き、ルカへ視線を向けた。
「今聞いたことを、地図へ足せますか?」
「え」
ルカの目が、地図とイレーネの間を一度行き来した。
少し前までなら、まだ増えるのかと思ったかもしれない。
けれど今は違った。
先ほど自分で考えた「天気」や「風」が、ただの問題の答えではなく、本当に必要なものとして目の前へ戻ってきたからだ。
「……やります」
そう答えると、自分から地図を引き寄せる。
「では、風から書いておきましょうか」
「はい」
セレフィナは、それ以上何も言わなかった。
少し前には問題を一つ出されるたび、まだあるのかという顔をしていたルカが、今は自分から鉛筆を持っている。
その姿を見届けると、セレフィナはそっと紅茶へ手を伸ばした。
◇
日が傾き始める頃には、アリアの紙にも、もう一つ新しい言葉が増えていた。
「かぜ……」
見本を確かめて一文字書き、少し考えてから次へ進む。最後の線まで書き終えると、アリアは満足そうに紙を持ち上げた。
「かぜ!」
「書けましたね」
「うん!」
最初に覚えた「つき」の下には、今日一日で覚えた言葉がいくつも並んでいる。
つき。
みず。
ふね。
そら。
みち。
そして、かぜ。
朝までなら、どれも自分では書けなかった言葉だ。
「今日はたくさん覚えましたね」
「うん!」
「では、明日も」
「やる!」
返事は、セレフィナが言い終えるより早かった。
ルカが地図から顔を上げる。
「アリア」
「なに?」
「おやつ忘れてるよ」
「…………」
アリアの青い目が、これ以上ないほど大きく開いた。
「おやつ!」
セレフィナがとうとう声を上げて笑った。
「ちゃんと用意してありますよ」
「やった!」
勢いよく椅子から降りようとして、途中でぴたりと止まる。
ルカが不思議そうに見ると、アリアは卓の上に残された紙へ目を向けていた。
今日書いたものを一枚手に取り、その下にある紙も重ね、ばらばらにならないよう端を揃えていく。
「どうしたの?」
「明日も使うから」
「持っていくの?」
「うん」
「全部?」
「全部!」
自分で書いた紙を大事そうに胸へ抱え、それからようやく、今度こそ椅子を降りた。
セレフィナは何も言わず、その小さな背中を見送った。
この部屋へ入ってきた時、アリアが最初に探したのはおやつだった。
それは今も変わっていない。
けれど、そのおやつへ向かう前に、忘れず持っていこうと思えるものが一つ増えた。
今日は、それで十分だった。
◇
夜。
寝る支度を終えたアリアは、今日持ち帰った紙を小さな机の上へ一枚ずつ並べていた。
一番上に置いた紙には、今日最初に覚えた「つき」の文字がある。
まだ同じ大きさには揃っていないし、少し曲がったものもある。それでも、どれも自分の手で書いた文字だった。
窓の向こうには、満月を少し過ぎた月が浮かんでいる。
アリアは紙に書いた「つき」と、本物の月を交互に見た。
次に丸い月が戻ってくるまで、まだ一か月近くある。
その日までに、湖について何が分かるのか。古い言葉の意味へどこまで近づけるのか。そして、自分はあとどれくらいの言葉を書けるようになるのか。
今はまだ、何一つ分からない。
「アリア」
隣の寝台からルカに呼ばれ、紙から顔を上げる。
「なあに?」
「明日も勉強するの?」
「するよ!」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「おやつが先じゃなくて?」
「おやつも食べるよ?」
「そこは両方なんだ」
「うん!」
何を当たり前のことを聞いているのだろうという顔で答え、アリアはもう一度、自分の書いた「つき」へ目を落とした。
しばらく見つめてから、小さく口を開く。
「だって」
「うん?」
「いっぱい知ってたら、役に立つかもしれないもん」
昼間、セレフィナから聞いた言葉が、ちゃんとアリアの中へ残っていた。
ルカも、自分が書き込みを増やした地図のことを思い出す。
風のことも、夜の湖のことも、帰るための目印のことも、今日までは知らなかった。
けれど、今日知った。
明日になれば、また何か一つ増えるのかもしれない。
「そうだね」
ルカが少しだけ笑った。
「ルカもやるんでしょ?」
「……やるよ」
「いっぱい?」
「いっぱいは嫌だけど」
「いっぱいだよ!」
「何でアリアが決めるの」
二人の笑い声が、静かな部屋へ小さく広がった。
窓の向こうでは、ミレア湖が月の光を淡く映している。
次の満月まで、まだ一か月近くある。
けれど、その時間はもう、ただ何かが起きるのを待つためだけのものではなかった。
★お読みいただき、ありがとうございます★
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