第84話 赤い月の報告
翌朝。
湖から吹いてくる風がまだ少しひんやりしているうちから、別邸の庭にはいつもより何人か多くの姿が集まっていた。
昨日までなら、朝の仕事へ向かう途中の使用人たちが足を止めて遠巻きに眺めるくらいだったのだが、今日はその中に、明らかに見物するためだけに来ている者が二人いる。
「ほんとに飛ぶんだ」
庭の上を大きく一周して戻ってきたアリアを見上げながら、リオネルが楽しそうに声を上げた。
昨日の約束どおり、朝早くから別邸へ顔を出したのだ。
その隣には、なぜかエミールまでいる。
少し小さな円を描く練習を終え、芝生へ降りてきたアリアは、ぱたぱたと小さな羽を収めながら首を傾げた。
「エミールも見に来たの?」
「うん」
エミールは少しだけ迷ってから頷いたものの、その目はすぐにアリアから逸れた。
視線の先では、芝の上に座ったマルルが長い耳を風に揺らしながら、こちらを見上げている。
「……マルルもいるから」
「そっちなんだ」
人の姿へ戻ったばかりのルカが笑うと、マルルは何を褒められたのか分からないまま、嬉しそうに胸を張った。
「なの!」
アリアが飛べば、地上では大きなラグドールになったルカがその動きに合わせて走る。
昨日までは見慣れない光景として眺められていた朝の練習も、アリアたちにとってはもう一日の始まりだった。けれど初めて見るリオネルには何もかも珍しいらしく、アリアが降りてくるたびに次は何をするのかと尋ね、エミールは空を見上げたりマルルを見たりと忙しい。
練習が終わる頃には、リオネルはすっかり楽しんでいた。
「また見に来る!」
「いいよ!」
アリアが元気よく答えると、リオネルはそのまま今日の予定まで聞いてきた。
「このあと何するの?」
「教会に行くの!」
「教会?」
「うん。女神さまに報告するの!」
あまりにも普通の予定のように言うので、今度はリオネルが目を丸くした。
「……女神様に?」
「うん!」
「普通に?」
「普通に!」
迷いのない返事だった。
リオネルはしばらくアリアを見つめたあと、どこか納得したような、していないような顔になる。
「……やっぱり普通じゃないね」
「普通だよ?」
「そこは普通って言うんだ」
隣でルカが小さく笑った。
◇
朝食を終えると、アリアたちは教会へ向かう準備を整えた。
玄関へ出たアリアは、門の向こうへ続く道を覗き込みながら、どちらへ行くのだろうときょろきょろしている。
「教会、こっち?」
「歩いて行くには少し遠いですよ」
見送りに出てきたセレフィナが答えた。
今日は別邸の馬車を一台借りることになっている。
「ちゃんと女神様にお話してらっしゃい」
「うん!」
「昨日見つけた古い記録のこともね」
「わかってる!」
返事だけ聞けば、とても頼もしい。
けれど、隣に立っていたノルンは少しだけ考えるようにアリアを見た。
「順番に話せますか?」
「できるよ!」
「では最初は?」
「赤いお月さま!」
「その前があります」
「え?」
「ミレア湖へ無事に着いたことです」
「あ」
「セレフィナ様にお世話になっていることも」
「あ」
「皆既月食のこともあります」
「あ……」
一つ増えるたびに、アリアの顔が少しずつ困っていく。
最後には、さっきまでの自信がどこかへ消えていた。
「……ノルンも一緒に言ってね」
「もちろんです」
どうやらノルンは最初からそのつもりだったらしい。
「マルルもいるなの!」
「僕もいるよ」
ルカまで加わると、アリアの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ大丈夫!」
人数が増えただけなのに、急に何とかなる気がしてきたらしい。
少し離れたところでそのやり取りを見ていたエリオが吹き出した。
「報告するだけで大仕事だな」
「いっぱいあるもん!」
「増やしたのはだいたいお前らだろ」
「わたしたち?」
「他に誰がいるんだよ」
アリアはルカを見る。
ルカもアリアを見る。
二人で少し考えたあと、アリアが恐る恐る答えた。
「……エリオお兄ちゃん?」
「俺を入れるな」
◇
馬車は湖畔の道を離れ、町へ向かってゆっくりと進んでいった。
木々の間からは、昨日まで何度も眺めていたミレア湖が見えたり隠れたりしている。
アリアはそのたびに窓へ顔を寄せ、湖と空を交互に眺めていた。
「今日は普通のお月さまの日だね」
「昼だから見えないけどね」
「夜は白い?」
「たぶん」
「赤くない?」
「まだ一か月近く先だよ」
「そっか」
何度聞いても、そこだけはどうしても気になるらしい。
向かいに座ったエリオは、その会話を聞きながら、昨日から何度も耳にした言葉を頭の中で並べていた。
皆既月食。
古い記録。
空の子。
そして、境。
どれも西方騎士団へ報告しておくべき内容だろう。実際、あとで書簡にまとめるつもりでもいる。
けれど今日は、その前にアリアたちが女神へ報告するのだという。
そのことの方が、エリオにはどうにも現実味がなかった。
「エリオお兄ちゃんも、女神さまに聞きたいことある?」
不意にアリアが尋ねた。
「俺が?」
「うん」
「その前に、俺にも会えるのか?」
アリアはきょとんとした。
「……どうだろ」
「知らないのかよ」
「だって、エリオお兄ちゃんと一緒に女神さまとお話したことないもん」
「それもそうか」
横で聞いていたルカが少し考える。
「見えなくても、近くにいるって分かるんじゃない?」
「何で?」
「前に教会で女神様が来た時、ろうそくの火が揺れたり、光が出たりしたから」
「へえ……」
エリオは窓の外へ目を向けた。
女神ルミエラ。
この国で暮らしていれば、幼い頃から誰もがその名を知っている。
教会へ行けば祈りを捧げる。
祭りでは豊穣や無事を感謝し、騎士が任務へ赴く前に守りを願うこともある。
エリオ自身だって、これまで何度祈ったか分からない。
けれど、本当に女神と会った者など、少なくとも彼の周囲には一人もいなかった。
「……本当に普通に話すんだな」
半ば独り言のように呟くと、向かいから迷いのない返事が二つ返ってきた。
「うん!」
「なの!」
エリオは二人を見て、もう何も言わなかった。
◇
町の教会は、ミレア湖を訪れる旅人も多く利用するのだろう。
白い石壁の前を荷物を抱えた人々が行き交い、高い鐘楼からは、ちょうど昼前を知らせる鐘の音が町へ広がっていた。
「教会!」
馬車を降りたアリアは、見慣れた形の建物を見上げた。
「どこでも教会って似てるね」
「同じ女神様を祀っていますから」
ノルンが答える。
けれどアリアはすぐに首を横へ振った。
「でも、ちょっと違う」
「何が?」
ルカに聞かれ、アリアは建物の上を指差した。
「窓」
この教会の窓には、ミレア湖を思わせる深い青や淡い水色のガラスが使われている。
陽の光を受けた色が床へ落ち、白い石の上に水面のような光を作っていた。
「ほんとだ」
「きれいなの!」
マルルまで顔を上げる。
教会の中へ入ると、一人の神父が穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「ようこそ。旅の方ですか?」
「こんにちは!」
アリアは元気よく頭を下げた。
「わたしたち、女神さまにお話しに来ました!」
「……女神様に?」
神父が一度だけ瞬いた。
その後ろで、エリオは思わず額へ手を当てた。
間違ってはいない。
間違ってはいないのだが、もう少し説明の仕方というものがある気がする。
「事情は俺から話します」
前へ出たエリオの装備に目を留め、神父はすぐに表情を改め。
「騎士の方ですね」
「西方騎士団のエリオ・フェルンです」
エリオが簡単に事情を伝えていくと、神父の表情が少しずつ変わった。
そして最後に、改めてアリアへ目を向ける。
「では、あなたがアリアさんですか」
「はい!」
「そうでしたか」
何を聞かされたのかまではアリアには分からなかったけれど、神父はそれ以上尋ねることなく、礼拝堂の方を示した。
「今の時間なら静かです。どうぞお使いください」
「ありがとうございます!」
すぐに歩き出したアリアの後ろへ、ルカ、ノルン、マルルが続く。
エリオも足を踏み出しかけ、一度だけ神父を振り返った。
「俺も入って構いませんか?」
「もちろんです」
神父は少し迷ったあと、自分も一緒に礼拝堂へ向かった。
◇
礼拝堂には、青い窓から柔らかな光が差し込んでいた。
祭壇の前では、いくつもの小さなろうそくが静かに炎を揺らしている。
アリアたちは慣れた様子で祭壇の前へ並んだ。
アリアの隣にルカ。
その横にノルンとマルル。
エリオと神父は、少し離れた後ろへ残る。
「エリオお兄ちゃん、こっち来ないの?」
「俺はここでいい」
「なんで?」
「今日はお前たちが話すんだろ?」
「一緒でもいいよ?」
「今日は見てる」
「そっか」
納得すると、アリアはもう気にしなかった。
祭壇へ向き直り、胸の前で小さな手を組む。
何から言うのだったか、一度だけ考えて。
「女神さま」
アリアの声が、静かな礼拝堂へ響いた。
「ミレア湖に着いたよ」
隣でルカが少し笑う。
今回は、ちゃんと最初から言えた。
「途中でセレフィナおばあちゃんに会ってね、馬車に乗せてもらったの。それで今は、おばあちゃんのお家に泊まってるよ」
「別邸です」
ノルンが小さく補足する。
「別邸!」
アリアはすぐに言い直した。
「すっごく大きいの!」
「そこは報告しなくていいんじゃない?」
「だって大きいもん」
「女神様も困るよ」
「困らないなの」
「何でマルルが決めるの」
後ろで聞いていたエリオの口元が自然と緩む。
神父はというと、祭壇へ向かって普通の会話を始めた子どもたちを、少し不思議そうに、けれど黙って見守っていた。
「それでね」
ようやく本題を思い出したアリアが続ける。
「湖のこと、いろいろ分かってきたよ」
ここからはノルンの方が詳しい。
ノルンが一歩前へ出た。
「ミレア湖について書かれた古い記録を見つけました。次の満月には、皆既月食が起こります」
「お月さまが赤くなるの!」
横からアリアが付け足す。
「はい」
ノルンは小さく頷き、昨日読んだ古い言葉を思い出すように目を閉じた。
「その記録には、月食と思われる夜について、こう書かれていました」
礼拝堂が、先ほどまでよりほんの少し静かになったように感じられた。
「赤き月、水鏡に沈みし夜」
その瞬間、祭壇のろうそくがふっと揺れた。
アリアが目を開ける。
けれど、まだ何も見えない。
「二つの月、重なりし時」
ノルンが続けると、
ちりん。
澄んだ小さな音がした。
マルルがすぐに顔を上げる。
「コンパクトなの」
首元についた小さなコンパクトがひとりでに開き、中に収まった二つの欠片が淡い青い光を宿していた。
アリアも息を詰めるように、その光を見つめる。
そして。
「空の子は、境を見る」
最後の言葉が礼拝堂へ響いた瞬間、祭壇の前から柔らかな光が広がった。
◇
エリオは、思わず背筋を伸ばした。
最初は何が起きたのか分からなかった。
ただ、祭壇の前が突然明るくなったのだ。
青い窓から差し込んでいた昼の光とは明らかに違う。
水色と金色が重なり合った、眩しいのに目を逸らしたくならない不思議な光だった。
「……これは」
隣で神父が小さく息を呑む。
祭壇のろうそくが、一斉に同じ方向へ傾いていた。
風など吹いていない。
それなのに、礼拝堂の空気だけがゆっくりと動き、光の中へ吸い寄せられていくように感じられる。
エリオは祭壇を見つめた。
そこに誰かの姿があるようには見えない。
少なくとも、自分の目には。
「女神さま!」
けれどアリアは、迷いなく声を上げた。
何もないはずの場所を、確かに見上げている。
ルカも。
ノルンも。
マルルも。
全員が同じところを見ていた。
「先生!」
今度はアリアが、その少し横へ駆け寄ろうとする。
「アリア」
ルカがすぐに服を掴んだ。
「ここ教会だから」
「あ」
アリアの足が止まる。
そして、慌ててその場でぺこりと頭を下げた。
「こんにちは!」
その様子を見ながら、エリオはもう一度祭壇へ目を凝らした。
やはり何も見えない。
声も聞こえない。
けれど、何もいないとはどうしても思えなかった。
胸の奥へ、ゆっくりと暖かなものが触れてくる。
春の日なたへ足を踏み入れた時のような、身体の力が自然に抜けていくような、不思議な気配だった。
「……本当にいるのか」
気づけば、言葉が漏れていた。
神父が祭壇から目を離さないまま、ゆっくり頷く。
「お姿は、私にも見えません」
「神父様も?」
「はい。ですが、この光は……」
胸元へ手を添えた神父が、静かに息を吐く。
「長くここで祈りを捧げてきましたが、いつもの礼拝で見たことのあるものではありません」
エリオは、もう一度アリアへ目を向けた。
昨日まで、セレフィナに服を選ばれていた。
船へ乗れば子どものようにはしゃぎ、食べ物を見つければ目を輝かせ、ルカに叱られれば頬を膨らませる。
どこから見ても、六歳の小さな女の子だ。
けれど今、その少女は、自分には見えない存在を当たり前のように見上げていた。
その二つが同時に本当なのだということを、エリオは初めて身体で感じていた。
◇
「ちゃんと来られましたね」
女神様が柔らかく微笑んだ。
「うん!」
アリアも嬉しそうに笑う。
「ミレア湖、すっごくきれいだよ! お魚もいるし、船にも乗ったの!」
「そうですか。楽しんでいるようですね」
「うん!」
「アリア」
横から先生が呼ぶ。
「遊びの報告になっていますよ」
「あ」
アリアは慌てて口を閉じた。
「赤いお月さま!」
「今度はそこからですか」
先生の声に、少しだけ笑いが混じった。
結局、ノルンが古い記録について最初から説明し直すことになった。
次の満月に起こる皆既月食。
湖へ映る赤い月。
そして最後に、
「空の子は、境を見る」
ノルンがその言葉を口にした時だった。
先生の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
ほかの誰かなら気づかなかったかもしれない。
けれどアリアは、いつも自分を見てくれていた先生の顔をよく知っている。
「先生?」
「…………」
「どうしたの?」
先生はすぐには答えなかった。
女神様も静かに先生を見る。
「エルシア」
「はい」
短く返事をしてから、先生はアリアへ目を戻した。
「その記録には、それ以上のことは書かれていなかったのですか?」
「今のところ、見つかっていません」
ノルンが答える。
「ただ、『門』や『境』に近い意味を持つ古い言葉も使われていました」
「門……」
先生が小さく繰り返した。
アリアはすぐに聞く。
「知ってるの?」
「言葉は知っています」
「じゃあ、何の門?」
「それは分かりません」
「先生でも?」
「先生にも分からないことはありますよ」
「そっか」
アリアは思ったよりあっさり頷いた。
けれど少しして、また先生を見る。
「でも、さっき変な顔したよ?」
「…………」
「アリア」
ルカが小さく呼んだ。
「だって、したもん」
先生はしばらくアリアを見つめていた。
その背中には、いつもの小さな白い羽がある。
「昔のことを、少し思い出しただけですよ」
「昔?」
「あなたが、もっと小さかった頃のことです」
「四歳?」
「そうですね」
途端にアリアの目が輝いた。
「わたし、何した?」
「それは今度にしましょう」
「えー!」
すぐに不満の声が上がる。
けれど先生は、それ以上教えてくれなかった。
代わりに女神様がアリアの前へしゃがみ、同じ高さから目を合わせる。
「アリア」
「なあに?」
「その言葉が、あなたを指しているとは、まだ決まっていません」
「うん」
「ですが、気になるのなら、今はよく見て、よく調べてください」
女神様の視線がマルルのコンパクトへ向く。
二つの欠片は、まだ淡い光を宿したままだった。
「月が赤くなるまで?」
「ええ」
「あと一か月」
「そうですね」
「長いね」
「長いなの」
マルルまで頷く。
けれど、すぐに何かを思い出したように耳を揺らした。
「でも、おばあちゃんのお家にいられるなの。お魚もあるなの!」
「またそこ?」
ルカが笑う。
女神様まで小さく笑った。
「急ぐ必要はありませんよ」
その言葉に、アリアは少しだけ真面目な顔になる。
「欠片、早く集めなくていいの?」
「立ち止まることも、旅の一つです」
「立ち止まるのも?」
「ええ」
アリアはしばらく考えた。
これまでは、次に行く場所が分かれば、そこへ向かった。
歩いて。
馬車に乗って。
欠片を探した。
けれど今回は、どれだけ急いでも次の満月そのものを早くすることはできない。
今ここにいなければ見つけられないものがあるのなら、待つことも必要なのかもしれない。
「じゃあ、待つ」
「はい」
「でも練習はするよ!」
「それは続けてください」
「今日もした!」
「そうですか」
「ちゃんと飛べたよ!」
「それはよかったですね」
そこでアリアは少し期待するように女神様を見た。
「見てた?」
「どうでしょう」
「女神さまー!」
答えは、楽しそうな笑顔だけだった。
◇
「先生」
今度はルカが口を開いた。
「境って、危ないものなんですか?」
アリアもノルンも、先生を見る。
先生は少し考えてから答えた。
「境そのものが危険なのではありません」
「じゃあ大丈夫?」
アリアがすぐ聞くと、先生は首を横へ振った。
「そういう意味でもありません」
「むずかしい」
「では、もっと簡単に言いましょう」
先生はアリアへ視線を向けた。
「知らない場所へ行く時と同じです。何があるのか分からないところへ、一人で飛び込んではいけません」
「…………」
アリアの目が、分かりやすく横へ泳いだ。
ルカはそれを見逃さなかった。
「聞いた?」
「聞いたよ」
「ちゃんと?」
「聞いた!」
「崩れた道の向こうへ一人で飛んでいった人」
「今はその話じゃないもん!」
先生の眉が、わずかに動いた。
「崩れた道?」
「あ」
今度はルカが止まった。
アリアも止まる。
ノルンだけが、何も言わず静かに目を閉じた。
「……その話は、また改めて」
「してくださいね」
先生の声がほんの少し低くなる。
「はぁい……」
アリアの返事も小さくなった。
女神様は口元へ手を添え、楽しそうに笑っていた。
◇
話を終える頃には、祭壇を包んでいた光が少しずつ薄くなり始めていた。
「また来るね!」
アリアが大きく手を振る。
「はい」
「次は赤いお月さまのあと?」
「何かあれば、その前でも構いませんよ」
「わかった!」
「先生もいる?」
「必要なら来ますよ」
「ほんと?」
「大きな声で呼ばなくても、祈れば届きます」
「はぁい」
女神様の姿が、柔らかな光へ溶けていく。
先生も最後までアリアを見ていた。
そして、二人の姿が消えるのと一緒に、祭壇を満たしていた光もゆっくり薄れていった。
◇
エリオには、最初から最後まで誰の姿も見えなかった。
声も一度として聞こえていない。
それなのに光が消えた瞬間、礼拝堂が急に広くなったように感じられた。
さっきまで胸の奥にあった暖かな気配も、ゆっくりと遠ざかっていく。
「終わったのか?」
思わず尋ねると、アリアがすぐに振り返った。
「うん! 女神さまと先生に、ちゃんと報告できたよ!」
「……そうか」
「エリオお兄ちゃん、見えた?」
「いや」
「ぜんぜん?」
少し残念そうな顔をされ、エリオは祭壇へ目を向けた。
「姿はな」
「声は?」
「聞こえなかった」
「そっか……」
「でも」
アリアが顔を上げる。
「光は見えた」
「ほんと?」
「ああ。それに……」
エリオは、さっきまで光が満ちていた場所を見た。
「何かいるっていうのも、分かった気がする」
「ほんとに?」
「ああ」
途端にアリアの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ会えたね!」
「……会えたことになるのか?」
「なるよ!」
「そうか」
勢いに押されるように答えながら、エリオは笑った。
その隣では、神父も祭壇の前まで進み、静かに一礼している。
「私も、お姿を見ることはできませんでした」
「神父さんも?」
「ええ」
アリアは少しだけ首を傾げたあと、続きを待つように見上げた。
「でも?」
神父はもう一度祭壇を見た。
「とても温かな光でした」
「女神さま、やさしいもん!」
「そうなのでしょうね」
その横顔には、長いあいだこの教会で祈りを捧げてきた人だけが持つ、静かなものが浮かんでいた。
「今日のことは、大切に覚えておきます」
「うん!」
◇
教会を出ると、昼の光が町いっぱいに降りていた。
アリアは階段を下りながら、何となく空を見上げる。
青い空と白い雲。
月はまだ見えない。
「先生、知ってるのかな」
ぽつりと呟くと、隣を歩いていたルカが振り返った。
「何を?」
「境のこと」
「何か知ってそうだったね」
「うん」
ノルンも一度だけ空を見上げた。
「ですが、今は話しませんでした」
「うん」
「なら、今は待ちましょう」
「月まで?」
「月までです」
アリアは少し考え、それから大きく頷いた。
「じゃあ、それまでいっぱい調べる!」
「本も読みますか?」
「…………」
「アリア?」
「ノルンが読む!」
「私だけですか?」
「わたしも……ちょっと読む!」
「ちょっとなんだ」
ルカが笑う。
「マルルも読むなの!」
「マルル、字読める?」
「…………」
「読めないよね」
「ノルンに読んでもらうなの!」
「結局ノルンじゃん」
笑い声を交わしながら、四人は待たせてある馬車へ向かって歩いていった。
その少し後ろをついていたエリオは、途中で一度だけ足を止めた。
振り返る。
白い教会。
閉じられた扉。
もう、あの光は見えない。
けれど、つい先ほどまで祭壇の前に何かがいた。
自分には姿も見えず、声も聞こえなかったのに。
その感覚だけは、見えたものよりもずっと確かなもののように、胸の奥へ残っていた。




