第83話 おばあさまにご挨拶
翌朝。
ミレア湖から渡ってくる風はまだ涼しく、別邸の庭には夜の名残のような露が残っていた。
庭師たちは植え込みを整え、侍女たちはテラスへ出て朝の支度を始めている。開け放たれた窓の向こうからは食器の触れ合う音も聞こえ、昨日までと変わらない穏やかな朝が始まっていた。
そんな庭へ、アリアたちが出てくる。
「今日はここでやる?」
アリアが広い芝生を見回すと、ルカも周囲を確かめながら頷いた。
「これだけ広ければ大丈夫だと思うよ」
「じゃあ、ここ!」
嬉しそうに空を見上げる。
旅の途中では、馬を休ませる時間や宿へ着いてからのわずかな時間を使って続けてきた練習だった。ミレア湖へ着いたからといって、急にやめる理由はない。
少し離れた場所でノルンとマルルが見守る中、ルカがいつものように姿を変えた。
その瞬間、植え込みへ鋏を入れていた庭師の手が止まった。
つい先ほどまで茶色い髪の少年が立っていた場所に、今は大きなラグドールがいる。ちょうど近くを通りかかった若い侍女も、抱えていた籠を胸元へ寄せたまま足を止めた。
「……あれは」
「ルカ様でしょうね」
隣にいた年嵩の侍女が、妙に落ち着いた声で答える。
「昨日は男の子でしたよね?」
「昨日も男の子でしたよ」
「そういう意味ではなくて……」
若い侍女は言葉に詰まり、もう一度大きな猫を見た。
その間にも、アリアは地面を蹴ってふわりと浮かび上がっている。
昨日まで何度も繰り返してきた旋回の練習だ。
高く上がるのではなく、まずは庭の上を大きく一周する。そこから少しずつ円を小さくしながら、身体の傾きと羽の動きを合わせていく。
以前なら、曲がろうとした途端に身体だけが先へ傾いたり、逆に羽ばかりが大きく動いたりしていた。それが今では、進みたい方向へ顔を向けると、身体も羽も自然についてくるようになっていた。
「今のどう?」
頭上から弾んだ声が降ってくる。
「いいと思う。次はもう少し小さく回れる?」
「やってみる!」
ルカの周りを回るつもりなのか、アリアは少し早めに身体を傾けた。
一周して、もう一周。
先ほどよりずっと小さな円を描いて戻ってくる。
「できた!」
「うん。今のはきれいだった」
その一言だけで、アリアの顔がぱっと明るくなった。
「もう一回!」
すぐに次へ挑戦しようとする姿を、庭師と侍女たちは仕事を忘れたように見上げている。
昨日、湖を初めて見て大はしゃぎしていた小さな女の子と同じ子だった。
けれど今は、ただ楽しそうに飛び回っているわけではない。何度も同じ動きを繰り返し、うまくいかなければやり直し、できた時には身体いっぱいで喜んでいる。
「毎朝されるのでしょうか」
若い侍女が声を潜めると、年嵩の侍女もアリアを見上げたまま答えた。
「旅の間も続けていたそうですよ」
「まだあんなに小さいのに」
「小さいからこそ、少しずつ覚えているのでしょうね」
やがて練習を終えたアリアが芝生へ降りると、ルカも元の少年の姿へ戻った。
ところが、それで終わりではない。
今度はノルンがアリアのそばへ歩み寄った。
「少しだけ、光もやっておきましょうか」
「うん!」
アリアは両手を胸の前へ出し、その間へ意識を集めた。
しばらくすると白い光が生まれ、手のひらから少し離れたところへふわりと浮かぶ。
庭師の手が、また止まった。
「……まだあるのですね」
思わず漏れた声に、若い侍女も無言で頷く。
当のアリアはそんな視線には気づかず、ノルンの言葉を聞きながら光をゆっくり動かしていた。
上へ運び、横へ移し、一度止めてから、また元の位置へ戻す。
途中で光がふるりと揺れると、アリアの眉がきゅっと寄った。
「待って……」
慌てて追いかけるのではなく、その場で呼吸を整えてもう一度集中する。
揺れていた光が、ぴたりと止まった。
「できた!」
「はい。昨日より安定しています」
「ほんと?」
「本当ですよ」
また嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
気がつけば庭の端には、仕事の途中で立ち止まった使用人が何人か増えていた。
誰も練習の邪魔をしようとはしない。ただ、どうしても目が向いてしまうらしい。
けれどアリアたちにとっては、旅の途中から何度も繰り返してきた、いつもの朝の時間だった。
飛ぶアリアも、それを見守るルカも、教えるノルンも、芝の上で長い耳を揺らしているマルルも、自分たちがそれほど珍しいことをしているという自覚はない。
だから練習を終えると、四人は何事もなかったように別邸へ戻り始めた。
その後ろ姿を見送りながら、若い侍女がぽつりと言った。
「……普通の子どもに見えますね」
「そうですね。空を飛ばなければ」
「あの男の子も、猫にならなければ」
「魔法も使わなければ」
三人はしばらく黙って、遠ざかっていく背中を見た。
「……やっぱり普通ではありませんね」
「ですね」
ようやく仕事へ戻ろうとした、その時だった。
前を歩いていたマルルがぴたりと足を止める。
「マルルは普通なの!」
三人が同時に振り返った。
「……聞こえていたのですね」
「聞こえたなの!」
ぷりぷりしながら長い耳を揺らすマルルを見て、とうとう庭師まで声を上げて笑った。
◇
朝食を終えたあと、アリアは窓辺の椅子へ座り、朝の光を映しているミレア湖を眺めていた。
昨日までは、ただ大きくてきれいな湖だった。
けれど今は、水面へ目を向けるたびに、ノルンが見つけた古い言葉が頭へ浮かんでくる。
赤き月。
二つの月。
そして、空の子が見るという境。
「次の満月には、赤くなるんだよね」
「月が、ですね」
そばで記録を見ていたノルンが答えた。
「湖も赤くなる?」
「月が映れば、その辺りは赤く見えるかもしれません」
「じゃあ、二つになる?」
「古い記録にある『二つの月』が、空の月と湖に映った月を指しているのであれば、そういうことになります」
アリアは窓の外とノルンの顔を何度か見比べ、それから眉を寄せた。
「……むずかしい」
「つまり、まだ分からないということです」
「あ。それなら分かる」
分からないことが分かっただけで、少し安心したらしい。
何でも今すぐ答えを出さなくていい。
次の満月までは、まだ時間がある。
「今日は赤くない?」
「赤くありません」
「よかった」
ほっとしたアリアへ、ルカが笑いながら尋ねた。
「昨日より怖くなくなった?」
するとアリアは、親指と人差し指の間をほんの少しだけ開いてみせる。
「これくらい」
「ずいぶん小さくなったね」
「うん!」
足元ではマルルまで得意そうに顔を上げた。
「赤くても、お月さまはお月さまなの。なくならないなの」
「うん!」
昨日みんなから教えてもらったことを、今日はマルルに言われた。
そんな話をしているところへ、一人の使用人が部屋へ入ってきた。
「大奥様」
「何です?」
「クラリッサ様より、本日の午前中に皆様でご挨拶に伺いたいとのことです」
「あら、もう来るのね」
セレフィナは手にしていた紅茶の器を置いた。
「アデリーヌも一緒ですか?」
「はい。レオンハルト様がお付き添いになるとのことです」
「無理をして来なくてもよいと言ったのに」
少し呆れたような言い方だったが、その顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「誰が来るの?」
すぐにアリアが尋ねた。
「私の家族ですよ」
「ヴォルターさんも?」
「ヴォルターは昨日会ったでしょう」
「あ、そっか」
セレフィナが笑いながら続ける。
「今日は妻のクラリッサと、孫たちです」
「お孫さん!」
アリアの声が弾んだ。
「昨日言ってた?」
「ええ」
「何人?」
「三人」
「三人!」
「昨日も同じところで驚きましたよ」
「そうだっけ?」
「そうです」
少し考えたあと、アリアは指を折るような仕草をしながら尋ねた。
「おばあちゃんの子どもの、子ども?」
「そうですよ」
「みんな辺境伯さん?」
「違います」
「そっか」
何がどう違うのかまでは、まだ分かっていないらしい。
けれど、セレフィナの家族に会えるということだけは理解できたようで、アリアは楽しそうに窓の外へ目を向けた。
◇
それからしばらくすると、別邸の外から馬の蹄と車輪の音が聞こえてきた。
「馬車!」
真っ先に窓へ駆け寄ったアリアの声に、ルカも椅子から顔を上げる。
「来たんじゃない?」
「お孫さん?」
「たぶん」
窓の外では、一台の馬車が車寄せへ向かってくるところだった。
「行っていい?」
振り返ったアリアへ、セレフィナも立ち上がりながら頷く。
「もちろん。一緒に迎えましょう」
「うん!」
玄関広間へ降りた頃には、馬車もちょうど正面へ到着したところだった。
馬が止まり、御者が扉を開く。
最初に降りてきたのは、金色の髪をきれいにまとめた女性だった。
淡い青灰色のドレスを身につけ、落ち着いた仕草で裾を整えると、玄関先に立つセレフィナを見てやわらかく微笑む。
「お義母様」
「クラリッサ」
「長旅、お疲れではありませんか?」
「このくらいで疲れていたら、あなたたちに笑われてしまうでしょう?」
「誰も笑いませんよ」
「ヴォルターは笑うかもしれませんね」
「主人なら、その前に座れと言うと思います」
「それもそうね」
親しげに笑い合う二人を見ながら、アリアは隣にいるルカの袖をそっと引いた。
「奥さん?」
「たぶん」
「ヴォルターさんの?」
「うん」
「きれいだね」
「聞こえるよ」
「聞こえていいよ?」
「……まあ、それはそうだけど」
ルカが少し困ったように答えている間に、次の人物が馬車から降りてきた。
背の高い青年だった。
濃い赤褐色の髪に、きちんと整えられた太い眉。ヴォルターほど大柄ではないものの、肩幅があり、まっすぐ立つ姿にはどこか父親と似たものがある。
けれど青年は地面へ降りても玄関へは向かわず、すぐに馬車へ振り返って中へ手を差し出した。
「ゆっくりでいい」
「分かっています」
若い女性の声が返ってくる。
「段差がある」
「昨日もありました」
「昨日と今日は違う」
「どこが?」
「今日はここだ」
一瞬、沈黙が落ちた。
「……レオンハルト」
「何だ?」
「心配しすぎです」
「していない」
「しています」
そのやり取りの後ろから、明るい金髪の青年がひょいと顔を出した。
「兄上、朝からずっとそれ言ってるよ」
「お前は黙っていろ」
「はいはい」
どうやら、いつものことらしい。
やがてレオンハルトに手を支えられながら、一人の若い女性がゆっくり馬車から姿を現した。
淡い栗色の髪に、大きな菫色の瞳。小柄で、顔立ちにはまだ少女のようなかわいらしさが残っている。
アリアはその女性を上から下へ見ていき、途中でぴたりと視線を止めた。
お腹が、とても大きかった。
女性はレオンハルトの手を借り、一段ずつ慎重に馬車を降りる。
「ほら、大丈夫でしょう?」
「まだ降りただけだ」
「では次は玄関まで?」
「ああ」
「十歩くらいですよ?」
「十二歩ある」
「数えたのですか?」
「見れば分かる」
隣でルカが小さく吹き出した。
「すごいね」
「なにが?」
「すごく心配してる」
言われて、アリアも改めてレオンハルトを見る。
確かに、若い女性が一歩進むたびに、ずっと隣へついている。
「けがしてるのかな」
「え?」
「だって、ずっと手を持ってる」
ルカも女性の大きなお腹へ目を向け、何かに気づいたように「あ」と小さく声を漏らした。
「なに?」
「いや」
「なに?」
「あとで分かるよ」
「教えてくれないの?」
「たぶん、すぐ分かるから」
アリアには何のことか、さっぱり分からなかった。
その後ろから、先ほど馬車の中から顔を出していた金髪の青年が軽い足取りで降りてくる。
「おばあさま!」
セレフィナを見つけるなり、大きく手を振った。
「リオネル」
「お久しぶりです!」
「元気そうね」
「もちろん!」
兄よりずっと表情が賑やかで、声まで明るい。
最後に降りてきたのは、赤茶色の髪をした十四歳の少年だった。
兄たちよりずっと若いとはいえ、六歳のアリアから見れば十分に大きなお兄さんだ。
「おばあさま。お久しぶりです」
「エミールも元気そうね」
「はい」
きちんと答えたあと、エミールの視線がセレフィナの横へ動いた。
アリアを見て、ルカを見て、ノルンを見て。
最後にマルルのところで止まった。
「…………」
「なの?」
マルルが首を傾げる。
エミールが瞬いた。
「……しゃべった」
「しゃべるなの」
もう一度瞬く。
さっきまで少し緊張していた十四歳の少年の顔から、ほんの少しだけ力が抜けた。
◇
応接室へ移ると、改めて紹介が始まった。
「クラリッサです。ヴォルターの妻よ」
クラリッサはアリアたちを順番に見て、やわらかく微笑んだ。
「やっと会えたわね。お義母様からのお手紙で、あなたたちのお話はずっと聞いていたの」
「ほんと?」
「ええ。旅の途中で、とても賑やかでかわいいお友達ができたって」
「お友達!」
アリアはすぐにセレフィナを振り返った。
「そうですよ」
「わたしたち、お友達?」
「あら。違うと思っていたの?」
「ううん。お友達だと思ってた!」
「なら、聞かなくてもいいでしょう」
「でも聞きたかったの」
「そういうもの?」
「うん!」
あまりにも迷いのない返事に、クラリッサが声を立てずに笑った。
「お義母様から聞いていた通りね」
「なにが?」
「とても元気な女の子だということ」
「元気だよ!」
「それも聞いているわ」
それなら間違っていないと、アリアは満足そうに頷いた。
続いて、赤褐色の髪の青年が前へ出る。
「レオンハルトだ。よろしくな」
「よろしく!」
「祖母がずいぶん世話になったそうだな。ありがとう」
「お世話?」
アリアは不思議そうにセレフィナを見る。
「わたしたち、何かした?」
「馬車の御者を助けてくれたでしょう」
「あ!」
「忘れていたのか」
ルカが横から言う。
「忘れてないよ。ちょっと奥にあっただけ」
「何が?」
「思い出すところ」
「便利だね、それ」
レオンハルトの太い眉がわずかに動いた。どうやら、笑うのを堪えたらしい。
その隣へ、先ほどの小柄な女性が並ぶ。
「妻のアデリーヌだ」
「はじめまして。アデリーヌよ」
明るく微笑みながら軽く頭を下げようとした、その時だった。
「あ」
手にしていた小さな扇が指先から滑り、ぱたんと床へ落ちた。
アデリーヌが扇を見る。
レオンハルトも見る。
「拾います」
「私が」
「いいですって」
アデリーヌが身体を屈めようとした途端、レオンハルトの手が先に伸びた。
「待て」
「もう」
「俺が拾う」
「そのくらいできます」
「知っている」
「じゃあ」
「俺が拾う」
結局、先に拾われてしまった。
受け取った扇を見ながら、アデリーヌは少し頬を膨らませる。
「……こういう人なのよ」
「心配性?」
アリアが尋ねる。
「そうなの」
「違う」
二人の声が、ぴたりと重なった。
横ではリオネルが顔を逸らし、肩を揺らしている。
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑っている」
「ちょっとだけ」
クラリッサはすっかり慣れているのか何も言わず、セレフィナも孫たちのやり取りを楽しそうに眺めていた。
「昔からこうだったの?」
アリアが尋ねる。
「昔?」
「レオンハルトお兄ちゃん」
「……お兄ちゃん?」
突然呼び方まで決まったらしい。
レオンハルトが一瞬止まったが、アリアはまったく気にしていない。
「昔から、いっぱい心配する人だった?」
「そうねえ」
セレフィナが孫の顔を見ながら少し考える。
「小さい頃から、自分より弟たちのことを先に気にする子でしたね」
「おばあさま」
「あら。本当のことでしょう?」
「今は義姉上が一番だけどね」
リオネルがすぐに付け足した。
「リオネル」
「はい」
怒られそうになっても、返事だけはとてもよかった。
◇
そんな家族のやり取りを聞きながらも、アリアにはずっと気になっていることがあった。
アデリーヌのお腹だ。
気になって、一度見る。
目が合いそうになると、そっと逸らす。
けれど少し経つと、また見てしまう。
どうしてあんなに丸いのだろう。
しかもレオンハルトは、馬車を降りる時からずっとアデリーヌを気にしている。
とうとう、その視線にアデリーヌ本人が気づいた。
「どうしました?」
「…………」
「アリア?」
ルカにも呼ばれ、アリアは少し迷った。
聞いていいことなのか分からない。
でも、どうしても気になる。
「お腹、いたいの?」
「え?」
「さっきからレオンハルトお兄ちゃんが、ずっと助けてるから」
一瞬だけ部屋が静かになったあと、アデリーヌがくすっと笑った。
「痛くありませんよ」
「ほんと?」
「ええ」
それなら、ますます分からない。
アリアはもう一度丸いお腹を見た。
「じゃあ、どうして大きいの?」
「アリア」
ルカが止めようとしたが、アデリーヌは気にした様子もなく、自分のお腹へそっと手を添えた。
「ここに、赤ちゃんがいるからよ」
アリアの目が、ゆっくり大きくなる。
「赤ちゃん?」
「はい」
「ここに?」
「ここに」
「今?」
「今もいますよ」
アリアは思わず椅子から降り、さっきまで遠くから眺めていたお腹へ、そろそろと近づいていった。
「ほんとに?」
「本当よ」
「見えないよ?」
「まだお腹の中にいますからね」
「いつ出てくるの?」
「もう少し先ね。もうすぐ九か月になりますから」
「九か月……」
アリアは指を折り始めた。
一つ、二つ、三つ。
けれど両手まで行く前に諦める。
「いっぱい」
「そうですね」
「ずっとここにいたの?」
「最初はもっと小さくて、それから少しずつ大きくなったのよ」
アリアはますます不思議そうにお腹を見つめた。
「ごはん食べる?」
「わたしが食べたものから、ちゃんともらっているのよ」
「パンも?」
「パンも」
「お肉も?」
「お肉も」
「おやつも?」
アデリーヌは少し考えてから、笑って頷いた。
「それも、たぶん」
「いいなあ」
「何が?」
ルカが聞くと、アリアは羨ましそうにお腹を見る。
「ずっとおやつも一緒」
「そこ?」
とうとうアデリーヌが声を上げて笑った。
見た目はかわいらしい人なのに、笑う声は思っていたよりずっと明るい。
その笑顔につられるように、アリアの緊張も少しずつほどけていった。
「さわってもいい?」
「もちろん」
アデリーヌは、アリアが触りやすいように身体を少し向ける。
「やさしくね」
「うん」
アリアは両手を出しかけたものの、本当にこの中に赤ちゃんがいるのだと思った途端、その動きが止まった。
強く触ったら痛くないだろうか。
少し考えてから、片方の手だけをそっと丸いお腹へ置く。
服の上からでも、温かかった。
「……いる?」
「いるわよ」
もちろん返事は聞こえないし、まだ何も動かない。
それでも、自分の手のすぐ向こう側に、まだ一度も会ったことのない誰かがいる。
そう思うと、とても不思議だった。
アリアはお腹を見つめたまま、小さな声で言った。
「こんにちは」
「お腹に話しかけるの?」
ルカが尋ねる。
「だって、いるもん」
「まあ……そうだけど」
「わたし、アリアだよ」
当然、返事はない。
それでもアリアは、少しの間じっと待っていた。
その時だった。
「あ」
アデリーヌが小さく声を上げる。
「なに?」
「今、動いたわ」
「えっ」
アリアの身体が固まった。
「どこ!?」
「今ここ」
アデリーヌがアリアの手を少し横へずらす。
言われた場所へそっと手を置いたまま待っていると、ほんのわずかに、手のひらの下から内側を押すような感触が返ってきた。
「…………!」
「うごいた!」
「ええ」
「ルカ!」
「聞こえてるよ」
「赤ちゃん動いた!」
嬉しくて、誰かに言わずにはいられなかった。
その時。
「……なの?」
マルルの声がした。
アリアが振り返ると、さっきまで足元にいたマルルが、アデリーヌのお腹をじっと見つめていた。
長い耳はぴんと立ち、その額にある青い宝石が、ごく淡い光を帯びている。
「マルル?」
返事がない。
「どうしたの?」
マルルは何かを聞き取ろうとするように、しばらく動かなかった。
やがて、ぽつりと言う。
「うれしいなの」
「え?」
「赤ちゃん、うれしいなの」
アリアの目がまた丸くなる。
「分かるの?」
「言葉じゃないなの」
マルル自身も説明の仕方が分からないらしく、長い耳を揺らしながら首を傾げた。
「でも、うれしいって来るなの」
「来る?」
「なの」
額の石が、もう一度淡く光る。
「たのしいもあるなの」
「楽しい?」
「みんながいっぱいお話してるから、うれしいみたいなの。アリアも来たなの」
アリアはもう一度、自分の手の向こうにいる赤ちゃんへ目を向けた。
「ほんと?」
「なの」
その直後。
ぽこん。
また、手のひらの下が動いた。
「動いた!」
「なの!」
今度は疑う余地もなかった。
アリアの顔が一気に明るくなる。
「じゃあ、聞こえてる?」
「たぶん聞こえてるなの」
それなら、もう一度言わなければならない。
「こんにちは!」
「さっきも言ったでしょ」
ルカが笑う。
「もう一回!」
アリアはお腹へ少しだけ顔を近づけた。
「わたし、アリアだよ!」
アデリーヌが笑った。
クラリッサも、セレフィナも。
少し離れていたレオンハルトまで、妻とアリアを見ながら口元を緩めている。
しばらくお腹を見つめていたアリアは、ふと思いついたように顔を上げた。
「じゃあ、生まれたら、もう一回ちゃんと言うね」
今はまだ顔も見えない。
声も聞けない。
けれど生まれてきたら、今度はちゃんと顔を見て言える。
アデリーヌはお腹へ手を添えたまま、やわらかく微笑んだ。
「ええ。ぜひ」
その横で、ノルンだけはマルルの額に残っている淡い光をしばらく静かに見つめていた。
けれど今は、何も言わなかった。
◇
赤ちゃんの話がひと段落してからも、エミールは何度もマルルを見ていた。
玄関で最初に見つけた時から、どうやらずっと気になっていたらしい。
「なの?」
とうとうマルルの方から首を傾げる。
「……触ってもいい?」
「いいなの」
許可をもらうと、エミールは床へ膝をつき、白い頭へそっと手を置いた。
「やわらかい」
「ふわふわなの」
「耳も?」
「やさしくなの」
「うん」
長い耳へ慎重に指先を触れると、それまで少し緊張していたエミールの顔に、初めてはっきりとした笑みが浮かんだ。
「動物好きなの?」
ルカが尋ねる。
「うん。馬と犬は家にもいる」
「兎は?」
エミールはマルルを見ながら、少し考えた。
「でも、しゃべる兎はいない」
「マルルはマルルなの!」
「え?」
「マルルなの!」
どうやらそこは大事らしい。
エミールはもう一度、撫でている白い頭を見る。
「……マルル」
「なの!」
それで正解だったようで、マルルの耳が嬉しそうに揺れた。
「かわいい」
「なの!」
「すごく気に入られてるね」
ルカが笑う。
「マルルは人気者なの」
「自分で言うんだ」
◇
一方、リオネルの興味はアリアへ向いていた。
椅子へ座ったまま、小さな白い羽を珍しそうに眺めている。
「ほんとに天使なんだ」
「うん!」
「飛べる?」
「飛べるよ!」
「どのくらい?」
「いっぱい!」
「いっぱいって?」
「いっぱいはいっぱい!」
「なるほど」
「分かったの?」
「分からない」
「えー!」
からかわれたことに気づき、アリアが頬を膨らませる。
リオネルは楽しそうに笑った。
「今度見せてよ」
「いいよ!」
「今朝も飛んでいましたよ」
クラリッサが何気なく言うと、今度はリオネルが母親へ顔を向けた。
「え?」
「使用人たちが話していました。庭で小さな天使が飛んでいたと」
「見られてた!」
驚いたアリアがルカを見る。
「そりゃ見られるよ。あんな広い庭の真ん中でやってたんだから」
「ちゃんとできたところも見てたかな」
「失敗したところもでしょうね」
ノルンが静かに答えた。
「えー!」
アリアが両手で頬を押さえ、その様子を見てリオネルがまた笑う。
「明日もやる?」
「やる!」
「じゃあ僕も見に来ようかな」
「いいよ!」
「湖の上は駄目だよ」
すぐにルカが割って入った。
リオネルが瞬く。
「まだ何も言ってないよ?」
「言う前に言いました」
「ルカ、兄上みたいだね」
「え?」
リオネルが視線を向けた先では、レオンハルトがアデリーヌの背中へもう一つクッションを入れようとしていた。
「いりません」
「背中に入れる」
「もう一つあります」
「少ない」
「十分です」
しばらくその二人とルカを見比べたリオネルが、納得したように頷いた。
「……似てるかも」
「似てない!」
ルカが即答した。
「似てるよ!」
今度はアリアまで加わる。
「アリア!」
「だって、いっぱい心配するもん」
「ほら」
リオネルが楽しそうに兄を見る。
「仲間がいたね、兄上」
「勝手に仲間にするな」
「僕もそう思います」
ルカまで真顔で答えた。
レオンハルトとルカの視線が合う。
どちらも少しだけ相手を見たあと、先に口を開いたのはレオンハルトだった。
「大変だな」
「分かってくれます?」
「何となく」
「昨日も同じこと言われた!」
アリアの声が部屋へ響いた。
今度は誰からともなく笑い声が上がり、アリアも何がおかしいのかよく分からないまま、一緒になって笑っていた。
◇
窓の外では、朝の光がミレア湖の上いっぱいに広がっていた。
昨日見つけた古い言葉も、赤い月も、空の子が見るという境も、まだ分からないことばかりだ。
次の満月までは、もう少し時間がある。
けれどアリアにとって、この朝には昨日まで知らなかったことがもう一つ増えていた。
「ねえ、アデリーヌお姉ちゃん」
「はい?」
「赤ちゃん、生まれたら見てもいい?」
「もちろんです」
「抱っこも?」
「少し大きくなってからね」
「わかった!」
また一つ、楽しみな約束が増えた。
アリアはもう一度、アデリーヌの丸いお腹を見る。
今はまだ顔も知らないし、名前も知らない。
それでも、さっき自分の手のひらへ返ってきた小さな動きだけは、ちゃんと覚えていた。
隣ではマルルも、もう一度アデリーヌのお腹を見ている。
「赤ちゃん、まだうれしいなの」
「そう?」
「なの」
アデリーヌは少し照れたように笑いながら、自分のお腹をそっと撫でた。
その姿を見て、アリアもつられるように笑う。
いつか、この中から赤ちゃんが出てきたら。
その時には、もう一度。
今度はちゃんと顔を見ながら、「こんにちは」と言おう。
昨日までは知らなかったグランヴェル家の人たちの声が重なり、応接室は朝よりもずっと賑やかになっていた。




