第82話 古い言葉の中に
皆既月食の話がひと段落すると、応接室には先ほどまでとは少し違う静けさが戻ってきた。
卓の上には、イレーネが持ってきた天文暦がまだ開かれている。月が少しずつ満ち、やがて欠けていく様子と一緒に細かな日付が並んでいて、アリアはその中から、先ほど教えてもらった次の満月のところをもう一度探していた。
月がなくなるわけではない。
地球の影の中へ入って、いつもの白い月が赤く見えるだけで、そのあとにはちゃんと元へ戻る。
そう聞いて安心したはずなのに、空に浮かんでいる大きな月が丸ごと影へ入るというところだけは、まだうまく想像できなかった。
「これが、赤くなるお月さま?」
アリアが天文暦の一つを指すと、イレーネが横から覗き込む。
「正確には、その日の月ですね」
「今は白いの?」
「今夜見れば分かりますよ」
「今日は赤くない?」
「今日は違います」
「そっか」
アリアは納得したように小さく頷いた。
今夜は、いつもの白い月。
それならまず、今日の月をちゃんと見ておこう。次の満月になった時、本当に違って見えるのか比べられるかもしれない。
そんなことを考えているアリアの隣では、ノルンがもう天文暦から目を離していた。
少し前、ヴォルターが話した別邸の書庫のことが、どうやら皆既月食の話をしている間もずっと気になっていたらしい。
「ヴォルター様」
「何だ?」
「先ほどお話にあった書庫ですが、今から見せていただくことはできますか?」
「今から?」
ヴォルターがわずかに目を見開く。
「はい」
ノルンの返事には、ほんの少しの迷いもなかった。
アリアも天文暦から顔を上げ、思わずノルンを見る。
「もう行くの?」
「はい」
「今から?」
「今からです」
そこまでは分かる。
けれどアリアには、もう一つ、とても大切なことがあった。
「おやつは?」
「あとでいただきます」
「…………」
アリアはしばらくノルンの顔を見つめた。
もう少し待てば、たぶんお菓子が出てくる。少なくともアリアなら、それを食べてから本を見に行く。
「ほんとに本好きだね」
「好きですよ」
ノルンは、どうしてそんな当たり前のことを改めて聞くのだろうという顔で答えた。
隣でルカが小さく笑う。
「アリアなら絶対、おやつが先だよね」
「だって、おやつ逃げちゃうかもしれないもん」
「逃げないよ」
「本も逃げませんよ」
ノルンまで加わった。
アリアは二人の顔を順番に見てから、少し考える。
「じゃあ、どっちも逃げないね」
「そうですね」
「ならノルンは本?」
「はい」
「わたしはおやつ」
「そこは迷わないんだ」
ルカが笑った。
少し前まで、皆既月食で月がなくなってしまうのではないかと心配していたアリアの顔は、いつの間にかすっかりいつもの表情へ戻っている。
ヴォルターはそんな三人のやり取りを聞きながら、ほんの少し前まで、自分がこの子どもたちをどんなふうに想像していたのかを思い出していた。
国王から各地へ通達が出される旅人であり、グラナの地下では大地の大精霊の目覚めにまで関わった子どもたち。
報告だけを読めば、どうしても普通の子どもとは違う何かを先に考えてしまう。
けれど、こうして実際に会ってみれば、本を一刻も早く読みたい少女がいて、その隣には、おやつを食べてからでなければ本を見に行く気にならない少女がいる。
「イレーネ」
「はい」
「案内してやってくれ」
「承知しました」
「ありがとうございます」
ノルンがすぐに椅子から立ち上がったところで、アリアが「あっ」と声を上げた。
「ノルン、待って」
肩から下げていた白いポシェットへ手を入れ、中を少し探る。
取り出したのは、旅の途中からずっと一緒にある古い木箱だった。
「これも持っていかないと」
「ああ、そうだね」
ルカもすぐに気づいた。
ノルンは木箱からあまり遠く離れることができない。書庫が別邸の奥にあるのなら、ここへ置いたまま行くことはできなかった。
アリアは両手で木箱を抱えると、そのままノルンへ差し出す。
「はい」
「ありがとうございます」
ノルンが大切そうに受け取る。
「これで大丈夫です」
「うん!」
忘れずに思い出せたことが嬉しかったのか、アリアは満足そうに笑った。
ノルンが木箱を両手に抱え、イレーネと一緒に扉へ向かう。
その後ろ姿を見ているうちに、アリアも一度だけ椅子から腰を浮かせた。
書庫という場所も少し気になるし、古い本だって見てみたい。
けれど窓の外には、まだ何度見ても飽きないほど大きなミレア湖がある。向かいには、今日初めて会ったばかりのヴォルターもいて、それに何より、たぶんもうすぐおやつが来る。
扉のところまで行ったノルンが振り返った。
「行きますか?」
「うーん……」
アリアは扉を見て、窓の向こうの湖を見て、最後にヴォルターへ目を向けた。
「あとで行く!」
「分かりました」
「面白いのあったら教えてね」
「もちろんです」
ノルンはそう答えると、イレーネと一緒に部屋を出ていった。
◇
扉が閉じたあと、アリアはしばらくその向こうを見ていた。
やがてゆっくり顔を戻すと、ちょうどヴォルターと目が合った。
「…………」
「…………」
しばらく互いに見ていたものの、先に耐えきれなくなったのはヴォルターだった。
「何だ?」
「なんでもない」
「そうか」
「うん」
それで終わるかと思ったが、アリアの視線はまだ離れない。
目の前にいるのが「辺境伯」という人だと聞いてから、ずっと気になっていたことがいくつもあるらしい。
「……お仕事いっぱい?」
「何の話だ?」
「辺境伯さんのお仕事」
「まあ、多いな」
「大変?」
「それなりに」
その答えを聞いた途端、アリアの目が少し大きくなった。
「イレーネお姉さんと同じこと言った」
「イレーネが?」
「うん。お仕事いっぱいで、それなりに大変って」
ヴォルターは一度、イレーネたちが出ていった扉へ目を向けた。
「そうか」
「二人でやってるの?」
「二人だけではない。騎士もいるし、役人もいる。それぞれの村や町を預かる者たちもいる」
「いっぱいだね」
アリアは聞いた人を数えるように、膝の上で指を一つずつ動かした。
ヴォルターとイレーネ。
それから騎士に、役人。
村や町を預かる人たちまでいるなら、聞いただけでも片手ではとても足りそうにない。
「じゃあ、一人じゃできないね」
ごく何気なく口にした一言だった。
けれど、ヴォルターの視線がそこで止まった。
「……そうだな」
「グラナと一緒」
「グラナ?」
「うん。一人じゃできないから、みんなでやるの」
アリアはそれだけ言うと、自分の中で話がつながったらしく、納得したように頷いた。
先ほどグラナの出来事を話した時もそうだった。
自分一人ではできなかったことを、そこにいたみんなでやった。
アリアにとってそれは、人へ聞かせるために覚えた立派な言葉でも、特別な考え方でもない。
できないことがあれば、できる人と一緒にする。
旅へ出てから何度もそうしてきたから、それがいつの間にか当たり前になっているだけなのだろう。
ヴォルターは何も言わず、少しだけ背もたれへ身体を預けた。
報告書に書かれていた少女と、今こうして目の前で話している六歳のアリアが、ようやく少しずつ同じ人物になってきたような気がしていた。
「旅は疲れないのか?」
今度はヴォルターの方から尋ねる。
「疲れるよ」
アリアはあっさり答えた。
「疲れるのか」
「うん」
「それでも続ける?」
「うん」
「どうして?」
そこでは、ほんの少しだけ考えた。
けれど答えを探していたわけではない。アリアの中では、最初から決まっている。
「お父さんとお母さんに会いたいから」
それまでより、声がほんの少し静かになった。
「家族を探しているのか」
「うん」
「どこにいるかは?」
「まだ分からない」
「それでも探す?」
「鍵の欠片を全部集めたら、きっと会えるから」
そこまで言ったところで、アリアの口が止まった。
ヴォルターを見て、それから隣のルカを見る。
今、自分がどこまで話したのかを確かめているらしい。
ルカが小さく頷くと、それを見たアリアの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「前より、ちゃんと考えるようになったね」
ルカが言った。
「前も考えてたよ?」
「考える前に喋ってたでしょ」
「…………」
「思い当たるんだ」
「ちょっとだけ」
照れたように笑うアリアを見て、ヴォルターの口元もほんの少し緩んだ。
「では、旅で一番大変だったのは何だ?」
「山道」
今度は、考える間もなかった。
「……山道?」
「うん!」
「グラナの地下ではなく?」
「地下も大変だったけど、山道はずっと歩くもん」
「大地の精霊と会ったことでもなく?」
「トカゲさん?」
「大地の精霊」
すぐにルカから訂正が入る。
「そうだった」
「また忘れてる」
「忘れてないって!」
アリアは頬を膨らませた。
その隣で、ヴォルターは少し違うことを考えていた。
報告書を読めば、グラナの地下で起きた出来事の方が遥かに大きく扱われている。
大地の精霊。
古井戸。
大精霊の目覚め。
国へ報告するのなら、当然そちらが重要になる。
けれど六歳のアリアに「一番大変だったこと」を聞けば、返ってきたのは、長い山道を自分の足で歩き続けたことだった。
どうやらこの子の話を聞く時には、報告書に書かれている順番で物事を考えない方がいいらしい。
◇
「君は」
ヴォルターの視線が、今度はルカへ向いた。
「はい?」
「いつもアリアと一緒なのか」
「だいたい」
「だいたい?」
「寝る時も同じ部屋のことが多いし、旅に出てからはずっと一緒です」
「君が見ているのか?」
「見てるっていうか……」
ルカは少し困ったように猫耳を動かした。
「一緒にいるだけです」
「でもルカ、いつも見てるよ!」
横からアリアがすぐに口を挟む。
「言い方!」
「だって、危ないとすぐ言うもん」
「それはアリアが危ないことするからでしょ」
「そんなにしてないよ?」
言い切ったアリアへ、ルカがすぐに指を一本立てた。
「崩れた道の向こうへ一人で飛んでいったの、誰?」
「…………」
もう一本。
「古井戸の方へ先に行こうとしたのは?」
「…………」
「ほら」
とうとう返事がなくなった。
アリアは少し考えてから、ゆっくりヴォルターへ顔を向ける。
「ルカ、いっぱい見てた」
「だから言い方!」
ヴォルターが小さく息を吐いた。
「ずいぶん忙しそうだな」
「分かってくれます?」
思わずルカが少し身を乗り出す。
「何となく」
「辺境伯さんまで!」
アリアが頬を膨らませる。
けれどヴォルターは笑いながらも、もう少しだけルカを見ていた。
「慣れたのか?」
「まあ……はい」
「そうか」
その視線がアリアからセレフィナへ移り、さらに少し離れて座るエリオへ向かう。
「もっとも、君だけで見ているわけでもなさそうだが」
ルカもつられるように周囲を見た。
今は書庫へ行っているノルンも、普段ならすぐそばにいる。
エリオもいる。
セレフィナもいる。
そして旅の途中では、その土地で出会った何人もの人に助けてもらってきた。
自分がアリアを見ていると思っていたけれど、振り返ってみれば、自分たち三人もずっと誰かに見てもらいながらここまで来たのだ。
「……そうですね」
ルカは少しだけ肩の力を抜き、静かに頷いた。
◇
その視線の先では、エリオが果実水を飲んでいた。
「エリオ殿」
「はい」
名前を呼ばれ、エリオが器を置く。
「ずいぶん子どもの扱いに慣れているようだ」
「…………」
一瞬、返事が止まった。
それより先に、アリアが振り返る。
「エリオお兄ちゃん、前より上手だよ!」
「何が?」
「いっぱい」
「何だよそれ」
ヴォルターが少し眉を上げた。
「最初は違ったのか?」
「そりゃ……まあ」
エリオは言葉に詰まった。
姿を見せず。
手を貸さず。
見失わず。
最初は、その三つだけ守ればよかったはずだった。
遠くから見守り、何事もなければそれで終わる。まさか途中から普通に話をするようになり、一緒に食事をし、馬車へ乗り、子どもたちの妙な相談にまで巻き込まれることになるとは、あの頃の自分なら考えもしなかった。
「……慣れました」
結局、そう答えるしかなかった。
「そうか」
「はい」
セレフィナが紅茶へ口をつけながら、何でもないことのように言う。
「ずいぶん助かっていますよ」
「それはどうも」
「特にルカの相手が」
「僕ですか!?」
「何で僕なんですか!」
ルカとエリオの声が、ほとんど同時に重なった。
一拍遅れて、アリアが声を上げて笑う。
「一緒!」
「何が!」
今度も、ぴたりと重なった。
それがおかしくて、アリアはますます笑い、つられたエリオもとうとう肩を揺らした。
◇
「それにしても」
ひとしきり笑い声が収まったところで、ヴォルターが母へ顔を向けた。
「母上」
「何です?」
「ずいぶん旅を楽しんでおられるようですね」
「あら」
「イレーネから聞いています。町へ寄れば市場を歩き、予定になかった場所へも立ち寄り、旅程まで何度か変えたと」
「旅は楽しむものですよ」
「それだけではないでしょう」
その瞬間、ルカの猫耳がぴくりと動いた。
アリアも何かを思い出したようにヴォルターを見る。
「お洋服のこと?」
「アリア」
ルカが止めた。
けれど、もう遅い。
「お洋服?」
ヴォルターの視線が母へ向く。
「何の話です?」
「大したことではありません」
「毎朝選んでくれるよ!」
「アリア!」
「いっぱい!」
「アリア!」
「今日は船のお洋服だった!」
「全部言うなって!」
セレフィナは騒ぐ二人をよそに、静かに紅茶の器を置いた。
「似合うのですから、仕方ないでしょう」
「母上」
「何です?」
「一か月あります」
「そうですね」
「ほどほどに」
「あなたまで何を言うのです」
「僕もそれ言った!」
ルカが思わず声を上げる。
「ほら!」
「何が『ほら』なのです?」
「みんな思ってる!」
「アリアは楽しんでいますよ」
「うん!」
「アリア!」
そこで、ヴォルターが初めてはっきり笑った。
大きな声ではなかったけれど、玄関で会った時にはほとんど動かなかった表情が、今は確かに柔らかくなっている。
アリアはすぐにそれに気づいた。
「笑った」
「……笑うこともある」
「よかった」
「何が?」
「怖くなかった」
今度はヴォルターが瞬いた。
「怖いと思っていたのか」
「ちょっと」
「母上」
「私のせいではありませんよ」
「辺境伯って聞いたから!」
「それは私のせいではないな」
「うん!」
あまりに素直に納得され、ヴォルターはもう一度、小さく笑った。
アリアの中でもどうやら、「辺境伯」という大きくて少し怖そうだった言葉と、目の前にいるヴォルターという人が、ようやく一つにつながったらしい。
◇
その頃、別邸の奥にある書庫では、ノルンが古い本の前へ座っていた。
天井近くまで続く棚には、新しい本に混じって、紐で束ねられた記録や箱へ納められた紙束まで並んでいる。年代ごとに整理されている場所もあれば、いつ誰が置いたのかさえ分からないものもあり、老齢の管理人ですら、中身のすべてを把握しているわけではなかった。
「こちらから先は、かなり古いものになります」
管理人が棚の一角を示した。
「はい」
「文字も、今使われているものとは違います。私どもでは内容まで分からないものが多くて」
そう言いながら、棚から一冊を取り出す。
黒ずんだ革の表紙は角が擦れ、長い年月を何人もの手の中で過ごしてきたことが分かる。
ノルンは木箱を傍らへ置き、受け取った本を両手で慎重に開いた。
黄ばんだ紙の上に、細い文字がびっしりと並んでいる。
今使われている文字とは形が違い、同じ形であっても時代によって意味が変わっているものがある。
ノルンは最初の一行へ目を走らせた。
「……これは」
「やはり難しいでしょう?」
「いいえ」
管理人が顔を上げる。
「読めます」
「…………」
今度は管理人の方が言葉を失った。
「読めるのですか?」
「はい。少し古い書き方ですが」
「少し……」
どう見ても「少し」で済むようなものではなかったが、ノルンはもう管理人の表情を見ていなかった。
その意識は、すっかり頁へ残された文字の中へ入っている。
最初に続いていたのは、湖の水位や漁についての記録だった。
水が増えた年や大きな嵐が来た年、岸辺が崩れた場所、舟の数が増えた時期。
誰かに楽しんでもらうために書かれた物語ではなく、その年に何があったのかを、忘れないよう後へ残すための淡々とした記録だった。
ノルンは一行ずつ意味を確かめながら、ゆっくり頁をめくっていく。
何枚目かを開いたところで、その指が止まった。
「…………」
「どうされました?」
管理人の声が聞こえても、すぐには答えられなかった。
ほんの少し前、応接室で聞いたばかりの話と、目の前の古い文字が重なっていた。
「ここに……月のことが書かれています」
「月?」
ノルンはまず一度最後まで読み、間違いがないか確かめるように、もう一度最初へ戻った。
「『赤き月、水鏡に沈みし夜』」
「赤い月……」
管理人も本へ顔を寄せる。
文字そのものは見える。
けれど、それが何を意味しているのかまでは分からない。
ノルンは次の行へ進んだ。
「『二つの月、重なりし時』」
そこで、視線が止まった。
空にある月。
湖面へ映る月。
その二つが重なる時。
まだ、偶然かもしれない。
昔の記録の中に、たまたま月のことが書かれていただけなのかもしれない。
けれど次の満月が皆既月食になると知った直後では、ただの古い言葉として読み流すことができなかった。
ノルンはその次の行へ目を移した。
「……これは」
「読めないのですか?」
「いいえ。読めます。ただ、この言葉は今の言葉へそのまま置き換えるのが少し難しいです」
「どういう意味でしょう?」
ノルンは古い文字を見つめながら、その語が使われていたいくつかの意味を記憶の中から拾っていった。
「『門』に近い言葉です」
「門?」
「はい。ただ、建物へ入るための門だけを指していたわけではありません。この時代には、二つの場所を分ける『境』という意味でも使われています」
「境……」
管理人が小さく繰り返す。
ノルンは最後の一行を、今度は最初からゆっくり読み直した。
そして、その意味が自分の中で一つにつながった瞬間。
今度こそ、はっきりと表情を変えた。
◇
応接室では、アリアがヴォルターへマルルのことを説明していた。
「それでね、マルルのしっぽが、行く方を教えてくれるの」
「しっぽが?」
「うん!」
「なの!」
足元のマルルが誇らしそうに胸を張る。
「方角が分かるのか?」
「そうなの!」
「便利だな」
「すごいでしょ?」
「なの!」
褒められたことが嬉しいらしく、長い耳までぴんと持ち上がる。
「でも、お魚の方も分かるなの」
「それは違うでしょ」
ルカがすぐに言った。
「分かるなの」
「それは匂いじゃない?」
「しっぽも分かるなの」
「初めて聞いたよ」
そのまま二人の言い合いが始まりそうになった時、扉が開いた。
皆の視線が、一斉にそちらへ向く。
「ノルン!」
アリアがすぐに椅子から立ち上がった。
扉のところにはノルンが立っている。その後ろにはイレーネと、書庫を案内していた老齢の管理人もいた。
「もう終わった?」
「いいえ」
「じゃあどうしたの?」
ノルンはすぐには答えなかった。
その手には、一枚の紙がある。
「少し、気になるものを見つけました」
いつものノルンなら、分かったことがあればもっとすぐに話す。
そのノルンが、言葉を選ぶようにほんの少し間を置いた。
それだけで、アリアも自然と笑うのをやめた。
ヴォルターも背もたれから身体を起こす。
「何があった?」
「湖について残された古い記録です」
ノルンは卓のところまで来ると、手にしていた紙を静かに置いた。
「古語で書かれていました」
「読めたのですか?」
イレーネが尋ねる。
「はい」
「……普通に?」
「はい」
イレーネは何か言いかけたものの、その前にアリアが嬉しそうに胸を張った。
「ノルンすごいでしょ!」
「アリアが威張るの?」
ルカが言う。
「仲間だから!」
「そういうもの?」
「うん!」
迷いのない返事に、ノルンの口元がほんの少し緩んだ。
けれど、その笑みもすぐに消える。
卓へ置いた紙へ目を戻すと、ノルンは静かに口を開いた。
「そこには、こう書かれていました」
部屋の中が静かになった。
アリアも椅子へ座り直し、ノルンを見る。
ノルンの指が、最初の行へ触れた。
「赤き月、水鏡に沈みし夜」
アリアの青い目が少し大きくなる。
「赤いお月さま……」
「はい」
つい先ほどまで話していたばかりだった。
次の満月に起こる皆既月食。
その時に赤く見える月。
ノルンはそのまま次の行へ指を移した。
「二つの月、重なりし時」
ルカがゆっくり窓の方を見る。
午後の空には、まだ月は見えない。
その下には、青い空をそのまま映したミレア湖が広がっている。
満月の夜になれば、空には丸い月が浮かび、その下の湖にも同じ月が映る。
「二つ……」
アリアも窓へ目を向けた。
丘の上から初めて湖を見た時、ノルンが言っていた。
空が二つあるように見える、と。
空にある月と、水の中の月。
もし、その二つが重なるのだとしたら。
「そして」
ノルンの声に呼ばれ、アリアはもう一度振り返った。
ノルンの指が、最後の行で止まっている。
「この言葉は、今の言葉へ完全に同じ意味では移せません」
「どういうこと?」
「昔は『門』という意味にも、『境』という意味にも使われていた言葉です」
「門……?」
その言葉を聞いた瞬間、アリアの中にエレノアの声が蘇った。
月影の浮かぶ水鏡。
求むる者は辿り着けず。
忘れられし空の子のみ。
その門を見る。
「……エレノアおばあちゃんの歌」
小さな声だった。
けれどルカもすぐに気づき、アリアを見る。
「あ……」
ノルンが最後の一行を読んだ。
「『空の子は、境を見る』」
アリアは、すぐには何も言えなかった。
歌では「門」と伝わっていた。
古い記録を今の言葉へ移すなら、「境」に近い。
けれど元になった古い言葉そのものが、どちらの意味にも使われていたのなら、二つをまったく別の話だとはもう思えない。
アリアはゆっくり窓の向こうへ目を向けた。
そこには昨日から何度も眺めてきたミレア湖が広がっている。
青い空を映し、風が吹けば細かく揺れ、光を受ければ遠くまできらきらと輝く大きな湖。
今は、いつもと何も変わらない。
けれど次の満月には、その水面へ赤い月が映る。
空の月と、湖の月。
二つが重なる夜。
そして、その時に境を見るという、空の子。
アリアの指が、無意識に胸元へ触れた。
それが自分のことなのかは、まだ分からない。
湖で何が起こるのかも、古い言葉が本当に何を示しているのかも分からない。
それでも、エレノアから古い歌を聞いた夜に胸へ残った何かが、今度は書庫に眠っていた言葉とつながり、少しだけ形を持ち始めたような気がした。
アリアは窓の向こうの湖を見つめたまま、しばらく動かなかった。
その背中で、小さな白い羽が。
風もないのに、ほんの少しだけ揺れた。




