第81話 辺境伯の見た少女
「こんにちは!」
アリアが元気よく頭を下げると、ヴォルター・グランヴェルは目の前の少女を見たまま、すぐには返事をしなかった。
王都から届いた通達には、すでに目を通している。
六歳ほどの天使の少女。髪は淡い水色で、背中には小さな羽があり、数名の同行者と共に国内を旅している。
旅を妨げないこと。
保護を理由に本人たちの意思に反して留め置かず、必要な場合には宿や道、治安について支援すること。
そして、鍵の欠片や使命について、むやみに聞き出さないこと。
国王の名が入った通達としては、ずいぶん細かなところまで念を押した内容だった。
それだけではない。
グラナで起きた異変についての報告も、すでにヴォルターのもとへ届いていた。
古井戸の下で眠り続けていた大地の大精霊。街へ少しずつ広がっていた異変。そして、街の者たちが力を合わせ、大精霊の目覚めを助けたこと。
その中には、アリアたちの名前も何度も出てきた。
書面を読んだ時、ヴォルターは同じところを何度か読み返していた。内容を疑ったわけではない。ただ、そこに記された出来事から頭の中へ浮かんだ人物と、今、目の前で元気よく挨拶をしている少女とが、どうにも結びつかなかったのだ。
ヴォルターの視線が、淡い水色の髪から小さな肩へ下りる。
思っていた以上に小さい。
その背中には、通達に記されていた通り、小さな白い羽があった。
「…………」
返事がないので、アリアがそっと頭を上げた。
ヴォルターと目が合う。
少し待つ。
それでも何も言わない。
アリアの首が、こてんと傾いた。
「こんにちは?」
二回目だった。
隣にいるルカの猫耳が、ぴくりと動く。
少し離れたところでは、セレフィナが小さく息を吐いた。
「ヴォルター」
「……失礼」
母に呼ばれ、ようやく我に返ったヴォルターが軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「うん!」
返事さえもらえれば、それでよかったらしい。
アリアはすぐににっこり笑った。
その笑顔を見て、ヴォルターの眉がほんのわずかに動く。
「この子が、アリアか」
「ええ」
セレフィナが答えた。
「こちらがルカ。ノルン。そしてマルルです」
「マルルなの!」
足元から声がした。
ヴォルターの視線が、ゆっくり下へ落ちる。
白いロップイヤーが、当たり前のようにこちらを見上げていた。
「…………」
「こんにちはなの!」
「……こんにちは」
今度の間は、先ほどよりずっと短かった。
マルルの長い耳が嬉しそうに揺れる。
その隣では、ルカがきちんと姿勢を正して頭を下げた。
「ルカです。よろしくお願いします」
「ヴォルター・グランヴェルだ」
「はい」
ノルンも続いて穏やかに挨拶をする。
そして少し後ろには、旅装のエリオが立っていた。
ヴォルターはそちらへも視線を向ける。
「西方騎士団の方ですね」
「はい。エリオ・フェルンです」
「ご苦労」
「ありがとうございます」
それだけで、ヴォルターはそれ以上尋ねなかった。
エリオがこの子どもたちと一緒にいる以上、何らかの任務を負っていることは想像できる。だが、今ここで詳しい事情まで聞く必要はないだろう。
それよりも、どうしても気になることがあった。
ヴォルターの目が、もう一度アリアへ戻る。
「グラナでの件についても、報告を受けている」
「グラナ?」
その名前を聞いた途端、アリアの顔が明るくなった。
「コルたち元気?」
「……コル?」
「お友達!」
予想していなかった名前が返ってきて、ヴォルターは思わずセレフィナを見る。
「グラナで知り合った子ですよ」
「そうか」
「右の足、もうよくなったかな」
アリアはさっきまでの笑顔を少しだけ引っ込め、心配そうに呟いた。
「怪我をしていたのか?」
「うん。右の足に添え木してたの」
「そうか」
ヴォルターはそこで、聞こうとしていた言葉を一度飲み込んだ。
彼が知りたかったのは、グラナの地下で何があったのかだった。
報告書に記されていた出来事を、この小さな少女がどうやって経験し、その中で何をしたのか。
ところがアリアが真っ先に気にしたのは、自分がしたことでも、大精霊を目覚めさせた出来事でもなかった。
怪我をしていた友人の足だった。
「アリア」
「なあに?」
「グラナで、何をした?」
その問いに、アリアは少しだけ目を丸くした。
「何を?」
「地下で大地の大精霊を目覚めさせるため、街の者たちと力を合わせたと報告にはあった」
「ああ!」
ようやく何を聞かれているのか分かったらしい。
「みんなで魔力集めたの!」
「そこへ行くまでには、何があった?」
「えっとね」
アリアは思い出すように指を一本立てた。
「最初にガンツさんに地下を案内してもらって、大精霊さんのいる古井戸まで行ったの」
「古井戸?」
「うん。それでね、そこに大きいトカゲさんがいたの」
「トカゲ?」
「トカゲじゃないけど」
「…………」
「大地の精霊です」
横からルカがすかさず補足した。
「なるほど」
「でも最初、トカゲさんだと思ったの」
「まだ言ってる」
「だって似てたもん」
「本人に言うと怒るよ」
「もう怒られたよ?」
「だからだよ」
ルカが小さく息を吐く。
ヴォルターは黙って二人を見ていた。
報告書で読んだ時には、地下深くで大地の精霊と出会ったというだけでも十分に重大な出来事だった。
それがアリアの口から出てくると、なぜか「トカゲさんに怒られた話」まで一緒についてくる。
「それで、大精霊は?」
「古井戸のずっと下で眠ってたの。でも、なかなか起きなかった」
「それで?」
「どうしたら起きるかなって、いっぱい考えたんだけど、一人の魔力じゃ足りなかったの」
アリアは少しずつ、あの時のことを思い出しているらしい。
「だから、みんなに少しずつ魔力を分けてもらったの。ルカも、ノルンも、シリルおじちゃんもいたし、グラナのみんなも手伝ってくれたよ」
「それを、アリアたちが大精霊へ届けたのか?」
「うん!」
「誰がその方法を考えた?」
「みんな」
返事には、少しも迷いがなかった。
ヴォルターは一度だけ瞬いた。
「アリア一人で考えたわけではないのか?」
「わたしも考えたよ?」
「ああ。それは分かっている」
「でも、わたし一人じゃできないよ?」
何を不思議なことを聞くのだろうという顔だった。
「街のみんなが魔力くれたし、ルカもノルンもいたし、大地の精霊さんもいたし」
「今度はちゃんと言えたね」
「覚えてるもん!」
ルカに言い返してから、アリアはさらに指を折る。
「ガンツさんもいたし、コルも手伝ってくれたし、シリルおじちゃんもいたし。だから、みんななの」
「シリルおじちゃん……」
ヴォルターが小さく繰り返した。
「西方騎士団長、シリル・ローウェルのことか?」
「うん!」
ずいぶん親しみやすい呼び方をされている西方騎士団長を想像し、ヴォルターは一瞬だけ言葉を失った。
だが、それ以上に気になったのは別のことだった。
報告書には、当然ながら結果が記されている。
地下で何が起き、誰がそこへ向かい、どのような方法で大地の大精霊を目覚めさせたのか。事実を追えば、そこにはアリアたちが果たした役割もきちんと記録されていた。
その中で何度もアリアの名前を目にしたため、ヴォルターはいつの間にか、この少女が何か特別な力で皆を導いたのだろうと考えていたのかもしれない。
けれど、実際に本人へ尋ねてみれば、何か一つ聞くたびに別の誰かの名前が増えていく。
自分が何をしたかを大きく語るより先に、誰が一緒にいたのかを話す。
それは謙遜しているようにも見えなかった。
アリアにとって、本当に「みんなでやったこと」なのだろう。
ヴォルターは、目の前の少女を少し違う目で見た。
「……本当に六歳なのか?」
考えるより先に、口から出た。
「六歳だよ?」
アリアがきょとんとする。
それから、なぜかルカを見る。
「ね?」
「僕に確認しないでよ」
「六歳だよね?」
「六歳」
「ほら!」
「疑ってないから」
セレフィナが口元へ手を添えた。
笑っている。
「ヴォルター」
「何です、母上」
「だから言ったでしょう?」
「何をです?」
「会えば分かると」
ヴォルターは母を見る。
「母上は、ずいぶん楽しそうですね」
「あら」
「予定より三日も遅れるほど」
「それとこれとは別の話です」
「そうでしょうか」
「寄り道いっぱいしたよ!」
突然アリアが口を挟んだ。
助け船なのか、追撃なのか分からない。
ヴォルターの視線が、ゆっくり母へ戻る。
「……だそうですが」
「アリア」
「なあに?」
「今は少し黙っていましょうか」
「はぁい」
とても素直だった。
隣ではルカが顔を背けている。
肩が小さく揺れていた。
◇
その後、一行は応接室へ場所を移した。
大きな窓の向こうには午後のミレア湖が広がっていて、アリアは椅子へ座ってからも、何度かそちらへ目を向けている。
ほどなく、冷たい果実水が運ばれてきた。
「また出てきた」
アリアが小さく呟いた。
「何が?」
「飲みもの」
ルカが笑う。
「さっきも飲んでたね」
「ここ、すぐ出てくるね」
「聞こえていますよ」
向かいに座ったセレフィナが言うと、アリアは慌てるでもなく振り返った。
「悪いって言ってないよ?」
「そうですか」
「うん。すごいなって」
両手で器を持ち、ひと口飲む。
冷たい果実水がおいしかったのか、少しだけ目を細めた。
ヴォルターは、その様子を黙って見ていた。
やはり、どう見ても六歳の子どもだった。
少し前までは、グラナから届いた報告書と目の前の少女が結びつかないことを不思議に感じていた。
けれど今は、少し違う。
報告書に書かれた出来事の中に、この子が「六歳のまま」いたのだということが、ようやく分かり始めたような気がする。
怖がらなかったわけではないのだろう。
一人で何でもできたわけでもない。
だから誰かと一緒に考えて、助けてもらいながら、自分にもできることをした。
その積み重ねの結果が、報告書に書かれていた出来事なのだ。
「それで」
ヴォルターが器を置いた。
「母上から、しばらくここに滞在すると聞いた」
「うん。一か月!」
アリアが答える。
「……一か月?」
ヴォルターの目が母へ向いた。
「私が決めたわけではありません」
「昨日、満月だったの」
アリアが説明する。
「次の満月まで待つの」
「なぜ満月を?」
その問いには、アリアはすぐに答えなかった。
さっきまでなら何でも思いついたまま話していたのに、今度はルカを見て、ノルンを見て、それからセレフィナへ目を向ける。
旅を始めた頃には、聞かれたことをそのまま全部話してしまうこともあった。
けれど、いろいろな町を通り、いろいろな人と出会ううちに、アリアも少しずつ覚えてきた。
自分たちの旅には、誰にでも話していいことばかりがあるわけではない。
セレフィナが、ほんのわずかに頷いた。
「湖について、調べたいことがあるの」
それを見てから、アリアが答えた。
「満月の夜に?」
「うん」
「何を調べる?」
「それは……」
アリアは少し困り、今度はルカを見る。
「今はまだ、僕たちにも分かっていないんです」
ルカが代わりに答えた。
「だから、まず調べています」
ヴォルターは二人を見た。
通達には、鍵の欠片や使命についてむやみに聞き出さないよう記されている。
それに、今の二人の様子を見れば、それ以上踏み込む必要もない。
「分かった」
「いいの?」
「何が?」
「もっと聞かないの?」
「聞いてほしいのか?」
「ううん」
「なら聞かない」
「そっか!」
また、すぐに納得した。
ヴォルターは思わず母を見る。
「……いつもこうなのですか」
「だいたい」
「だいたいなの!」
「アリア」
「はぁい」
今度はそれ以上付け足さず、アリアは素直に口を閉じた。
◇
「湖について調べているのなら、別邸にも古い記録が残っている」
ヴォルターがそう言うと、それまで静かに話を聞いていたノルンが顔を上げた。
「どのような記録でしょうか」
「グランヴェル家がこの地を管理するようになる以前のものも含め、湖について記された資料を保管している書庫がある。きちんと整理されているものばかりではないが」
「見せていただいてもよろしいのですか?」
「構わない」
ノルンの表情が、ほんの少しだけ明るくなる。
その変化に、アリアはすぐ気づいた。
「ノルン、嬉しい?」
「はい」
「本いっぱい?」
「おそらく」
「よかったね!」
「ありがとうございます」
自分が読むわけでもないのに、アリアまで嬉しそうだった。
「ただ、かなり古い資料もある。中には、今では使われていない文字で書かれたものもあるはずだ」
「それも見たいです」
返事が早かった。
「……そうか」
ヴォルターは今度はノルンを少し長く見た。
この子も、この子でずいぶん興味深いらしい。
「それから、満月についてなら一つ思い出したことがある」
その言葉に、ルカとノルンが同時に顔を上げた。
「満月?」
アリアもヴォルターを見る。
「古い記録の中に、月が赤くなった夜について書かれたものがあったはずだ」
「赤い?」
アリアの青い目が丸くなる。
「お月さまが?」
「そうだ」
「赤くなるの?」
「まれにな」
「なんで?」
「月が影の中へ入ると、そう見えることがあると聞いている」
「影?」
よく分からないらしく、アリアの眉が寄った。
ヴォルターは少し記憶を探る。
「確か、次の満月がそうなる予定だったはずだ」
今度はノルンが完全にヴォルターへ身体を向けた。
「次の満月が?」
「記憶違いかもしれない。確認させよう」
ヴォルターがイレーネを見る。
「今年の天文暦を」
「承知しました」
イレーネが一礼して部屋を出ていく。
その間にも、アリアは「赤い月」のことが気になるらしく、じっとヴォルターを見ていた。
「お月さま、どうやって赤くなるの?」
「最初から赤いわけではありませんよ」
答えたのはセレフィナだった。
「満月が少しずつ影に隠れていき、やがて月全体が暗い赤色に見えるのです」
「……隠れる?」
「ええ」
「少しずつ?」
「そうですよ」
アリアは何も言わなくなった。
さっきまで器を両手で持っていた指が、少しだけ止まっている。
「なくならない?」
その声に、ルカがすぐアリアを見た。
「月が?」
「うん」
「なくならないよ」
返事は早かった。
「ほんと?」
「影に隠れるだけなんでしょ?」
「その通りだ」
ヴォルターも答える。
アリアは少し安心したようだったが、それでも窓の外へ目を向けた。
昼の空に、月の姿は見えない。
「……ちゃんと戻る?」
「戻りますよ」
セレフィナが穏やかに答える。
「必ず?」
「ええ。必ず」
「ならいい」
ようやくアリアが笑った。
その横で、ルカは何も言わず、ほんの少しだけアリアの方へ身体を寄せた。
◇
しばらくして、イレーネが一冊の薄い冊子を手に戻ってきた。
「閣下」
「どうだった?」
「確認しました」
卓の上へ置かれた冊子には、月の形と細かな文字がいくつも並んでいる。
アリアも椅子から少し身を乗り出した。
「次の満月は」
イレーネの指が、一つの日付の上で止まる。
「皆既月食になります」
「かいきげっしょく?」
「月全体が影の中へ入る現象です」
「全部?」
アリアがもう一度ルカを見る。
「……全部みたいだね」
「…………」
「なくならないって」
「うん」
アリアはそう答えたものの、気づけば片方の手でルカの袖を少しだけつまんでいた。
ルカはそれを見ても何も言わず、そのままにしている。
ヴォルターは二人の小さな手元へ一度だけ目を向け、それから卓の上に開かれた天文暦を見た。
次の満月。
月全体が影へ入り、赤く見える夜。
そして、その夜までここへ滞在し、ミレア湖について何かを調べようとしている子どもたち。
今のところ、それらに何か関係があるとは限らない。
それでもヴォルターは、天文暦の日付から窓の向こうに広がる湖へ目を移し、もう一度アリアたちを見た。
なぜか、少しだけ気になった。




