第80話 湖に残る話
船がゆっくりと向きを変え、別邸のある岸へ戻り始めてからも、アリアはしばらく船べりの向こうを見つめていた。
湖の中央近くまで来たはずなのに、そこには島も岩もなく、特別な何かが浮かんでいたわけでもない。
見えるのは、どこまでも続く青い水と、その上を渡っていく風。遠くには何艘かの船が小さく浮かび、自分たちの船が進んだあとには、左右へ開いた波だけが細く長く残っている。
マルルのコンパクトから伸びていた青い光は、もう消えていた。
けれどアリアの頭の中には、さっき見た光がまだ残っている。
右へ向いても。
左へ向いても。
来た方角へ戻っても。
光はいつも、自分たちが向いた先へ伸びていた。
「変だったね」
アリアがぽつりと言うと、隣で同じように湖を眺めていたルカが頷いた。
「うん。方角を教えてくれてるわけじゃなかった」
「でも、欠片はこの湖にあるんだよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
アリアが振り返ると、ルカは少し困ったようにコンパクトを見る。
「反応したんだから、この湖に何かあるのは間違いないと思う。でも、どこにあるのかまでは分からないよ」
「そっか……」
アリアももう一度水面へ目を戻した。
目の前には、船が通ったあとに生まれた波がゆっくり広がっている。それも少し経てば周りの水と混ざり、どこを通ってきたのか分からなくなってしまう。
道のない湖の上で、どちらへ進んでも「その先」を示された。
さっきまで面白くて仕方なかった水の上が、今は少しだけ不思議な場所に見える。
「求むる者は辿り着けず」
ノルンが静かに呟いた。
アリアが振り返る。
「やっぱり、あの歌かな」
「まだ分かりません」
ノルンはすぐに答えを決めなかった。
「ただ、今日わたしたちが経験したことと似ているのは確かです」
「進んでも着かなかったもんね」
「そうですね」
あの歌を初めて聞いた時には、「辿り着けない」と言われても、アリアにはその意味がよく分からなかった。
けれど今日は船で実際に進んだ。
右へも行った。
左へも行った。
戻る方へまで向いてみた。
それでも、どこにも「ここだ」という場所はなかった。
歌の言葉が、昨日までよりほんの少しだけ近くなった気がする。
アリアは考えながら湖を見渡していたが、ふと船の前方へ目を止めた。
「あ」
「どうしたの?」
「船長さん!」
ルカが瞬く。
「船長さん?」
「うん!」
アリアは船の前に立つ男を指さした。
「この湖のこと、いっぱい知ってるよね?」
「ああ」
ルカの猫耳がぴくりと前へ向く。
「それは聞いた方がいいかも」
「長く湖にいる方なら、何か似た話を聞いたことがあるかもしれません」
ノルンも頷いた。
「聞いてくる!」
アリアは勢いよく立ち上がり、そのまま駆け出しかけた。
「走らない」
「はぁい!」
ルカに言われた途端、歩幅が小さくなる。
足元が揺れる船の上では、昨日までのように思いついたまま走ってはいけない。
それも今日、もう覚えたことの一つだった。
◇
船長は船の前方で、時折周囲の船へ目を配りながら、帰りの進路を見ていた。
アリアたちが近づくと、すぐに気づいて振り返る。
「どうされました?」
「船長さん」
「はい」
聞きたいことは決まっていたはずなのに、いざ言葉にしようとすると少し難しい。
アリアは湖の方へ手を向けた。
「この湖でね、変なことが起きたって聞いたことある?」
「変なこと、ですか?」
「えっと……」
どう言えば伝わるだろう。
アリアは少し考えてから、さっき自分たちに起きたことを思い出した。
「進んでるのに、ずっと着かないとか」
その言葉を聞いた時だった。
船長の眉が、ほんのわずかに動いた。
アリアは気づかなかったけれど、隣にいたルカはその変化を見ていた。
「満月の夜とか」
ルカが続ける。
「湖の真ん中あたりで、そういう話はありませんか?」
今度は船長が完全にこちらを向いた。
「……どなたから、その話を?」
アリアとルカが顔を見合わせる。
知らないと言われると思っていた。
けれど今の聞き方は、明らかに何かを知っている人のものだった。
「知ってるの?」
アリアが聞く。
船長はすぐには答えず、一度だけ湖へ目を向けた。
風に揺れる水面は、さっきまでと何も変わらない。
「私自身が経験したわけではありません」
「うん」
「ですが、この湖で長く船に乗っている者なら、一度くらいは聞いたことがあるでしょう」
「ほんと?」
「ええ」
アリアの目が大きくなる。
少し離れた席にいたセレフィナやエリオも、いつの間にかこちらの話へ耳を傾けていた。
「どんなお話?」
アリアに促され、船長は少し記憶を探るように湖の先を見た。
「昔から、満月の夜には湖の中央へ近づくな、と言う年寄りはいました」
「なんで?」
「理由は、話す人によって違います」
「違うの?」
「こういう話は、長い間に少しずつ形が変わるものですからね」
船長はそう前置きしてから続けた。
「湖の中央で方角を見失った船があったとか。岸の灯りへ向かって進んでいたはずなのに、どれだけ船を進めても近づかなかったとか」
「近づかなかった?」
ルカの声が少し変わった。
「そう聞いています」
アリアの頭へ、さっきの青い光が浮かんだ。
進んでも。
向きを変えても。
いつまでたってもその先。
「ほかにもある?」
「何もない水面に、光を見たという話もあります」
「光?」
「ええ。月の光とは違うものだった、と言う者もいたそうです」
ノルンが少しだけ身を乗り出した。
「その光へ近づいたという話は残っていますか?」
「そこまでは」
船長は首を横へ振る。
「私が直接聞いた相手が見たわけではありません。父親から聞いた。祖父から聞いた。昔の漁師がそう言っていた。そんな話ばかりです」
「じゃあ、本当かどうか分からない?」
アリアが尋ねる。
「分かりません」
船長は曖昧にせず答えた。
「湖に長くいれば、いろいろな話を耳にします。中には本当にあったこともあるでしょうし、長く語られるうちに少しずつ変わったものもあるでしょう」
「そっか……」
少し残念だった。
これで全部分かると思ったわけではないけれど、船長なら答えを知っているかもしれないと、ほんの少し期待していた。
けれど、そこでアリアはふと気づいた。
「でも」
「どうしたの?」
ルカが見る。
「みんな、同じところ言ってるね」
「同じ?」
「満月と、真ん中」
「あ……」
ルカも気づいたらしい。
エレノアから聞いた、満月の夜に湖の中央へ現れるという何か。
昔から伝わっている歌。
そして今日、船長から聞いた話。
細かいところは違っている。
でも、どの話にも満月と湖の中央が出てくる。
ただの偶然だろうか。
アリアにはまだ分からない。
それでも、昨日までばらばらだったものが、また少し近づいたように思えた。
「船長さん」
「はい」
「歌は知ってる?」
「歌?」
アリアは記憶を辿りながら、ゆっくり口にした。
「月影の浮かぶ水鏡」
船長が瞬く。
「求むる者は辿り着けず」
今度は、何も言わなかった。
「忘れられし空の子のみ」
湖を渡ってきた風が、アリアの水色の髪と、背中の小さな白い羽を揺らした。
「その門を見る」
最後まで聞き終えた船長は、しばらく黙っていた。
「聞いたことある?」
「全部を覚えていたわけではありませんが」
やがて、ゆっくり頷く。
「子どもの頃、年寄りの船乗りが似た歌を口にしていた覚えがあります」
「ほんと!?」
「ええ。ただ、その頃は意味まで考えたことがありませんでした」
「どんな時に歌ってたの?」
「夜の湖へ出る時だったでしょうか……」
船長は目を細め、昔を思い出すように少し間を置いた。
「満月の夜に中央へ行こうとする若い船乗りを、年寄りが止めていたこともありましたね」
「どうして?」
「そこまでは覚えていません」
「えー……」
アリアは少しだけ唇を尖らせた。
「もうちょっと聞いといてほしかった」
「その頃の私は、あなたと同じくらいの年でしたので」
「…………」
アリアは船長を見る。
それから自分を見る。
「じゃあ仕方ないね」
あまりにも早く納得したので、ルカが笑った。
「早いなあ」
「だって六歳ならしょうがないもん」
「自分も六歳だから?」
「うん!」
船長まで声を漏らして笑った。
けれど、そのあと再び湖へ視線を戻した時には、少しだけ真面目な顔になっていた。
「ただ」
「なあに?」
「昔の船乗りたちが、満月の夜に湖の中央へ出ることをあまり好まなかったのは確かです」
アリアの笑顔が少しだけ消える。
「怖いから?」
「そう言っていた者もいました」
「船長さんは怖い?」
「私は……」
船長はすぐには答えなかった。
「自分で見たことのないものを、怖いとも安全だとも言えません」
その返事を聞いて、ルカが小さく頷いた。
怖いと言い切らない。
大丈夫だとも言い切らない。
分からないものは、まだ分からない。
今日のコンパクトと同じだった。
「でも、行かない方がいいと思う?」
アリアが聞く。
「ただ見物に行くというのであれば、やめておいた方がいいでしょう」
「遊びじゃなかったら?」
アリアはまっすぐ船長を見上げた。
次の満月。
もし本当に欠片につながる何かが現れるのなら、自分たちはきっと湖へ出る。
船長も、それをアリアの顔から感じ取ったのかもしれない。
少しだけ考えてから答えた。
「その時は、きちんと準備をしてください」
「準備?」
「夜の湖は、今とはまるで違います」
船長は周囲を示した。
昼の今なら、遠くに岸が見える。
ほかの船も見える。
空模様も、水面の様子も分かる。
「暗くなれば、今見えている岸も見つけにくくなります。灯りも必要ですし、自分たちの位置を確かめる手段もいる。船の魔道具に何かあった時の備えも必要です」
アリアは一つずつ聞いていた。
「夜って、そんなに違うの?」
「違いますよ」
その言葉に、アリアは遠くの岸を振り返った。
昼間の今でさえ、木々も建物も小さく霞んでいる。
これが全部暗くなったら。
「……なくなっちゃう?」
「なくなるわけではありません。見えなくなるんです」
「あ、そっか」
それでも困ることに変わりはない。
「ですから、もし満月の夜に湖へ出るのであれば、私にも先に知らせてください」
「うん!」
アリアはしっかり頷いた。
満月まで一か月。
まだ先だと思っていたその日が、少しだけ現実のものになった。
◇
別邸へ戻る頃には、午後の日差しが少しずつ傾き始めていた。
舟着き場へ近づくにつれ、さっきまで遠く霞んでいた岸がだんだん大きくなってくる。
木々の緑が分かる。
湖畔へ続く庭が見える。
その向こうには、朝出てきた白い別邸。
アリアは船が岸へ近づいていく様子を最後まで眺めていた。
「ちゃんと着いたね」
「帰りはね」
ルカが答える。
「真ん中は着かなかった」
「うん……」
同じ船で、同じ湖を進んだ。
帰ろうと思えば、ちゃんと戻ってこられた。
それなのに、欠片へ向かおうとした時だけは、どこへ進んでも辿り着かなかった。
その違いが、やっぱり不思議だった。
やがて船が止まり、従者が綱を受け取って舟着き場へ固定する。
船長へお礼を言い、板を渡って岸へ降りたアリアは、数歩進んだところでふと足元を見た。
「……止まってる」
「何が?」
「地面」
ルカが首を傾げる。
「地面は止まってるよ」
「分かってるけど」
アリアはもう一歩歩いた。
船の上では、じっと座っていても身体がほんの少し揺れていた。
足元が上がって、下がって。
風や波に合わせて動いていた。
それが急になくなると、逆に動かない地面の方が変な感じがする。
「なんか変」
ルカも数歩歩いてみた。
「ああ……ちょっと分かる」
「でしょ?」
その横では、マルルが地面の上を嬉しそうに跳ねている。
「地面なの!」
「マルルは分かってなさそう」
「分かってるなの!」
何が分かっているのかは教えてくれなかった。
◇
別邸へ戻ると、アリアたちは湖の見える部屋へ集まった。
大きな窓のそばにある卓には、ミレア湖の地図と紙、それからマルルのコンパクトが置かれている。
セレフィナも一緒だった。
「今日、分かったことを整理しましょう」
ノルンが紙を自分の前へ置く。
「うん」
アリアも椅子へ座り直した。
船の上では、いろいろなことが起きた。
今は頭の中に全部入っているような気がするけれど、順番に並べてみると、また違うことに気づくかもしれない。
「まず、コンパクトはミレア湖に反応しました」
「うん」
「湖の中央に近いところまで出ても、反応は続きました」
「でも」
ルカが言葉を継ぐ。
「どっちを向いても、光は船の前を指した」
「そうですね」
ノルンが紙へ書き込んでいく。
「つまり、少なくとも普通の方角を示しているわけではなさそうです」
「それから!」
アリアが手を上げた。
「歌」
「ええ」
ノルンは次の行へ移る。
エレノアから聞いた古い歌。
月影の浮かぶ水鏡。
求むる者は辿り着けず。
忘れられし空の子のみ。
その門を見る。
さらに、船長から聞いた昔の話も加わった。
「満月の夜に湖の真ん中で方角を見失った船があった」
ルカが指を折りながら言う。
「岸へ向かってるのに近づけなかった人もいた」
「光を見た人も!」
アリアがすぐに付け足した。
「はい」
ノルンの文字が増えていく。
アリアは横からその紙を覗き込んだ。
昨日までなら、エレノアから聞いた昔話と歌だけだった。
今日はそこへ、自分たちが湖で経験したことと、船長が昔から聞いてきた話が加わった。
どれか一つなら偶然かもしれない。
でも、似たものが少しずつ増えている。
「やっぱり、あの歌のお話なのかな」
「可能性は高くなったと思います」
ノルンが答える。
「でも、まだ決めつけない方がいい」
ルカも続けた。
「次の満月に本当に何か起きるかは、まだ見てないから」
「そっか」
アリアは少し考える。
そして、昨日聞いた一か月という長さを思い出した。
「じゃあ……一か月、待つだけ?」
「いいえ」
答えたのはセレフィナだった。
「その間に調べられることは、いくらでもありますよ」
「ある?」
「もちろん」
セレフィナは卓の上の地図へ目を向ける。
「まず、湖について残されている記録を調べること」
「本?」
「本もありますし、昔の記録も残っているでしょう」
その言葉を聞いたノルンの表情が、ほんの少しだけ明るくなった。
アリアはすぐ気づいた。
「ノルン、嬉しい?」
「嬉しいですよ」
返事が早かった。
「やっぱり」
ルカが笑う。
「それから、船長さん以外の人にも聞いてみてもいいよね」
「漁師さん?」
「長く湖で暮らしている方なら、別の話を知っているかもしれません」
セレフィナが答えた。
「じゃあ、おじいちゃん?」
「年齢だけで決めないでください」
「はぁい」
アリアは少し笑った。
「湖にも、また出る?」
「必要なら」
「満月じゃない日にも?」
「今日と同じことが起きるのか、条件を変えて確かめてみる価値はあるでしょうね」
「毎日?」
「毎日は必要ありません」
「よかった」
ルカが小さく呟いた。
「船、嫌だった?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあなんで?」
「マルルが毎回落ちそうになったら大変だから」
「落ちないなの!」
すぐに抗議の声が上がる。
「今日、落ちかけたでしょ」
「落ちてないなの!」
「僕がつかんだからだよ」
「次は気をつけるなの」
「絶対だよ」
マルルの耳が少しだけ横へ開き、アリアは思わず笑った。
笑いが落ち着いたところで、ノルンが紙へ視線を戻した。
「では、次の満月までにできることは、いくつかありますね」
湖に残された古い記録を調べる。
長く湖で暮らす人たちから話を聞く。
必要なら、もう一度湖へ出てコンパクトの反応を確かめる。
一か月という時間は、昨日聞いた時には、ただ長いだけだった。
お父さんとお母さんへ会える日が、その分だけ遠くなる時間。
けれど今は、少しだけ違う。
待っている間にもできることがある。
一つ調べれば、今より一つ知ることが増えるかもしれない。
アリアは卓の上に広がる地図を見た。
「じゃあ、明日から調べよう」
「今日は?」
ルカに聞かれ、アリアは少し考えた。
窓の外には湖。
庭にもまだ行ってみたい。
そして視線を戻した時、卓の端にいつの間にか小さな皿が置かれていることに気づいた。
焼き菓子がいくつも並んでいる。
「……今日は、これ食べる」
「やっぱり」
ルカの声に、アリアはにっこり笑った。
◇
湖へ面したテラスには、午後の風が絶えず吹き抜けていた。
日向にはまだ夏らしい暑さが残っているのに、湖を渡ってきた風が頬へ触れると、それだけで身体の周りの熱がすっと逃げていく。
「気持ちいい」
アリアは椅子へ座ったまま、風を受けるように両腕を少し広げた。
午前中に船へ乗るため着ていた服からは、もう着替えている。
今は柔らかな布の軽い室内着で、それでも旅をしていた頃の服と比べれば、ずいぶんきれいな仕立てだった。
「ここ、ずっと涼しいね」
「だから避暑に来るのですよ」
セレフィナが紅茶へ口をつける。
「避暑ってすごいね」
「何がです?」
「お菓子も出てくる」
セレフィナの手が一瞬止まった。
「それは避暑とは関係ありません」
「そうなの?」
「たぶん関係あるなの」
マルルが焼き菓子を見つめながら言った。
「マルルまで」
ルカが笑う。
卓には薄く切った果物と、小さな焼き菓子、それから冷たい果実水まで並んでいた。
少し前まで船の上で昼食を食べていたはずなのに、別邸へ戻ればもう次の食べ物が出てくる。
アリアは小さな焼き菓子を一つ手に取った。
「毎日こんなの?」
「ずっとここにいたら太りそう」
ルカが自分のお腹を見る。
「動けばいいでしょう?」
セレフィナは涼しい顔だった。
「明日は庭も見に行きましょうか」
「行く!」
「湖も行くなの!」
「マルルは魚でしょ」
「湖なの!」
「ほんと?」
「お魚もなの」
「やっぱり」
アリアが笑う。
朝から初めて船へ乗って。
欠片を探して湖の中央まで行って。
昔の話を聞いて。
帰ってきたら、今度は涼しい風の中でお菓子を食べている。
昨日まで毎日馬車で先へ進んでいた旅とは、まるで違う一日だった。
「なんか」
「なあに?」
アリアは手の中の焼き菓子を見た。
「すごい生活」
セレフィナが笑う。
「まだ一日目ですけれど」
「一か月、これ?」
「それはどうでしょう」
その言い方に、ルカの猫耳がぴくりと動く。
「今の言い方、何かある」
「何がでしょう?」
「服とか」
「まあ」
「ほら!」
ルカが声を上げるより先に、アリアの顔が明るくなった。
「明日も違うの?」
「アリア!」
「よかったですね」
「セレフィナ様!」
ルカの声に、今度はセレフィナまで笑った。
その笑い声がテラスから湖へ抜けていった、その時だった。
庭の向こうから、規則的な馬の蹄の音が聞こえてきた。
一頭ではない。
いくつもの音が重なりながら、門の方から少しずつ近づいてくる。
ルカの猫耳が音のする方へ向いた。
「誰か来た?」
アリアも焼き菓子を持ったまま庭を見る。
門の近くにいた使用人たちが急に動き始めていた。
一人は屋敷へ。
別の者は玄関へ。
さっきまで穏やかだった庭の空気が、ほんの少しだけ変わる。
「何かあったの?」
アリアが椅子から立ち上がりかける。
「座っていて大丈夫ですよ」
セレフィナの声はいつもと変わらなかった。
けれど、その視線は門の方へ向いたままだった。
ほどなくして、イレーネがテラスへ姿を見せた。
いつもと変わらず背筋は伸びているけれど、歩く速さだけがほんの少し違う。
「大奥様」
「何です?」
「お客様です」
「誰が?」
イレーネは一度息を整えてから答えた。
「辺境伯閣下がお見えです」
セレフィナの眉がわずかに上がる。
「ヴォルターが?」
「はい」
アリアはその名前を聞いて、少し考えた。
「ヴォルター?」
「私の息子ですよ」
「あ!」
昨日聞いた名前だった。
「辺境伯さん!」
「そうです」
「来たの?」
「そのようですね」
セレフィナは紅茶の器を置き、ゆっくり立ち上がった。
「ずいぶん早かったこと」
口ではそう言ったけれど、本気で驚いているようには見えなかった。
予定より三日遅れた母親が、王都から通達の出ている子どもたちまで連れて別邸へ到着したのだから、息子が様子を見に来ることくらい予想していたのかもしれない。
アリアも椅子から降りた。
「わたしも行っていい?」
「もちろん」
そう言われて歩き出しかけたところで、アリアは一つだけ気になった。
「辺境伯さん、怖い?」
「どうでしょう」
「セレフィナおばあちゃんの息子でしょ?」
「ええ」
「じゃあ、大丈夫かな」
「どういう判断なの?」
ルカが横から聞く。
「だって、セレフィナおばあちゃん優しいから」
「息子も同じとは限らないよ」
「そうなの?」
「親子でも違うことはあるでしょ」
「ヴォルターは怖くありませんよ」
セレフィナがさらりと言った。
アリアは少し安心して顔を上げる。
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん!」
昨日も聞いた返事だった。
思わずアリアが笑い、それにつられてルカも小さく笑った。
◇
玄関へ近づくにつれ、扉の向こうから低い男の声が聞こえてきた。
使用人たちの挨拶。
いくつかの靴音。
そして玄関広間へ出たところで、アリアは初めてその男の姿を見た。
背が高い。
深い色の上着を身につけ、日に焼けた顔には落ち着いた雰囲気がある。年はシリルより少し上に見え、その後ろには数人の騎士が控えていた。
男がセレフィナへ顔を向ける。
「母上」
「ヴォルター」
「ようやくお戻りになったと聞きました」
「ようやく、とは失礼ですね」
「予定より三日遅れです」
「その話はもう聞きました」
「では、なぜ三日遅れたのかも伺ってよろしいですか」
「寄り道です」
「やはり」
すぐそばにいたイレーネが、ほんの少しだけ視線を逸らした。
アリアは二人の顔を交互に見ていた。
セレフィナはいつもと変わらず。
ヴォルターも怒っているようには見えない。
けれど、言葉を一つ返されれば、すぐ次が返ってくる。
少しだけ、どこかで見たことがある。
「親子だね」
思わず小さな声で言った。
横にいたルカがすぐに振り向く。
「今分かったの?」
「うん」
「何で?」
「話し方」
「そこ?」
ルカが笑いかけた、その時だった。
二人の声に気づいたヴォルターの視線が、こちらへ動いた。
アリアと目が合う。
「…………」
知らない大人だった。
それも、辺境伯。
さっきまでは少しだけ怖い人なのかもしれないと思っていた。
けれど、セレフィナと話しているところを見ていたら、さっきほど怖くはなくなっていた。
アリアは一度だけ瞬いたあと、いつものように両足を揃えた。
「こんにちは!」
元気よく頭を下げる。
ヴォルター・グランヴェルは、王都から届いた通達に何度も名前が記されていた少女を、そこで初めて自分の目で見た。




