第79話 水の上の道
朝。
アリアが目を覚ますと、薄いカーテンの向こうはもう明るくなっていた。
昨日までなら、目を開けて最初に見るものは宿の天井だったり、馬車の屋根だったりした。けれど今日は違う。
まだ少し眠たい目のまま寝台の上で身体を起こし、何となく窓の方を見る。
「……湖」
昨夜、眠る前まで眺めていたミレア湖が、朝の光の中にちゃんと広がっていた。
風が弱いのだろう。昨日よりずっと穏やかな水面には、淡い青の空と白い雲がそのまま映り込んでいる。
アリアは寝台から降りると、裸足のまま窓へ近づいた。
薄いカーテンを両手で少しだけ開ける。
「ほんとに今日もある」
「なくなりませんよ」
後ろから声がして振り返ると、ノルンが隣の寝台で身体を起こしていた。
「おはようございます」
「おはよう!」
元気よく返してから、アリアはもう一度湖を見る。
「ルカが、湖はなくならないって言ってたけど、本当にあった」
「なくなっていたら大変です」
「そうだよね」
言われてみれば、その通りだった。
けれど昨日初めて見たばかりのアリアには、あれほど大きなものが夜を越えても同じ場所にあるというだけで、まだ少し不思議だった。
丘の上から初めて見て。
別邸へ着いてからも何度も窓を覗いて。
夕暮れまでずっと眺めていた。
それでも、まだ見慣れたとは思えない。
今日から一か月、この湖のそばで過ごす。
昨夜そう決めたことを思い出すと、嬉しいだけだった気持ちの中へ、ほんの少し寂しさが混ざった。
お父さんとお母さんに会える日は、その分だけ遠くなる。
けれど、窓の向こうに広がる湖のどこかには、三つ目の欠片があるはずだった。
「今日は、何か分かるかな」
小さく呟くと、ノルンも窓の外へ目を向けた。
「調べてみなければ分かりませんね」
「うん」
一か月待たなければならない。
でも、一か月何もしないで待っているわけではない。
今できることなら、きっとある。
そう思うと、さっきまで少し重たかった胸の奥が軽くなり、アリアの眠気もどこかへ消えていった。
◇
朝食の前、着替えを手伝う侍女が何着かの服を持って部屋へやって来た。
その少しあとから、聞き慣れた声がする。
「おはようございます」
「セレフィナおばあちゃん!」
アリアが振り返ると、セレフィナは部屋へ入ってくるなり、寝台の上に並べられた服へ目を向けた。
ここ数日、朝になるとこの時間がある。
最初は服を選んでもらうこと自体が楽しかっただけなのに、最近のアリアには、セレフィナがただ可愛いものを選んでいるわけではないことも少しずつ分かってきていた。
歩く日なら動きやすい服。
町へ行くなら、少しきちんとした服。
長く馬車へ乗る日には、座っていても苦しくない服。
「今日はどれ?」
アリアも寝台へ近づく。
「今日は湖へ出ますからね」
「湖!」
それだけで顔が明るくなった。
「船に乗る?」
「その予定ですよ」
「やった!」
嬉しくて両手を上げかけたところで、昨日のことを思い出す。
「あ」
「どうしました?」
「欠片を調べるんだった」
「覚えていたのですね」
「覚えてたよ!」
昨日、コンパクトから伸びた青い光は、岸ではなく湖の奥を示していた。
エレノアから聞いた古い歌には、満月の夜の湖が出てくる。
あの歌と欠片が本当に関係しているのか。
満月ではない今日でも、湖の上まで出れば何か分かるのか。
今日は、それを確かめに行くのだ。
セレフィナは並んだ服の中から一着を手に取った。
「これにしましょう」
「これ?」
ブルーグレーの生地に、白いセーラーカラー。襟の縁には細い濃紺の線が入り、低い位置で切り替えられたスカートには細かなひだが並んでいる。
切り替えの少し斜め前には、大きな濃紺のリボン。
袖は小さくふくらんだ半袖で、いつものワンピースより少しだけきちんとして見えた。
「かわいい!」
アリアはすぐに服へ手を伸ばす。
「これ、お船の服?」
「湖へ出るのですから、裾が長すぎない方がいいでしょう。それに、少ししっかりした布の方が風のある場所では扱いやすいですからね」
「風、強いの?」
「岸よりは少し」
「飛ばされる?」
「アリアは飛べるでしょう」
「あ、そっか!」
納得したところで、セレフィナが笑った。
「服の話ですよ」
「そっちか」
侍女に手伝ってもらいながら袖を通してみると、昨日の服より布には少し張りがあった。
身体を締めつけるところはないのに、鏡の前に立つと形がきれいに整っている。
アリアは少し身体を横へ向けた。
今度は反対へ。
低い位置から始まるひだが、身体より少し遅れて動き、すぐ元へ戻る。
「ここ、いっぱい線ある」
「ひだですよ」
「動くね」
もう一度身体を揺らす。
ひだも揺れる。
面白くて、もう一度。
「アリア」
「……はぁい」
名前を呼ばれただけで止まったものの、口元は笑ったままだった。
髪もいつもの低い位置の二つ結びに整えてもらい、足元には船の上でも滑りにくい、靴底のしっかりした白いブーツを履く。
最後に鏡の前へ立ったアリアは、自分の姿をひと通り確かめてから振り返った。
「どう?」
「よく似合っていますよ」
「ほんと?」
「ええ」
その一言だけで、アリアの背筋がすっと伸びた。
セレフィナは何も言わず、その様子を少し楽しそうに見ていた。
◇
朝食の席へ行くと、アリアはすぐにルカを見つけた。
「ルカ!」
「おはよう」
返事をしたルカを見て、アリアの足が止まる。
いつもの旅服ではなかった。
ルカもセーラーカラーを取り入れた服を着ている。ブルーグレーと濃紺を使った上着に、動きやすそうな膝丈のズボン。アリアほど飾りは多くないものの、襟や色の使い方がよく似ていた。
アリアは自分の襟を見る。
ルカを見る。
もう一度、自分を見る。
「おそろい!」
「ちょっとね」
「ここ一緒!」
自分の襟を指さす。
「うん」
「色も!」
「そうだね」
「ルカもお船の服?」
「たぶん」
ルカがセレフィナを見る。
「朝起きたら用意されてた」
「似合っているでしょう?」
「まあ……」
「気に入ってる!」
「まだ言ってないよ」
「でも嫌じゃない?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ気に入ってる!」
「どうしてそうなるの」
アリアは満足そうに笑い、そのまま席へ着いた。
足元では、マルルが朝食より先に別のことでそわそわしている。
「船なの?」
「ええ」
セレフィナが頷いた。
「今日は湖へ出ます」
「お魚いるなの?」
「それはいるでしょうね」
マルルの耳がぴんと持ち上がった。
「行くなの!」
「欠片の調査だよ」
ルカが念を押す。
「分かってるなの」
「本当に?」
「お魚も見るなの」
「やっぱりそっちもなんだ」
ノルンはそんなやり取りを聞きながら静かにカップを置いた。
「昨日、コンパクトが示した方向を湖上から確認するのですね」
「ええ」
セレフィナが頷く。
「岸からでは、湖のどちらへ続いているのか分かりにくかったですからね」
アリアはパンを口へ運びながら、窓の外へ目を向けた。
朝の湖には、もう何艘かの船が出ている。
昨日までは、あれを遠くから眺めているだけだった。
今日は、自分たちもあの水の上へ行く。
欠片を探すため。
ちゃんと分かっているのに、それとは別に、初めて船へ乗ることを考えると胸の中が少し浮き立った。
知らないことを一つ知るのは楽しい。
それが欠片へ続く道なら、なおさらだった。
◇
朝食を終えた一行は、別邸の庭を抜けて湖へ向かった。
緩やかな坂道を下っていくにつれて、木々の間から見えていた水面が少しずつ近づいてくる。
岸へ近づいたところで、アリアはふと足を緩めた。
「涼しい」
日差しはもう夏の明るさなのに、湖から吹いてくる風は、庭や街道で受けるものとは少し違った。
長く水の上を渡ってきたせいだろうか。
頬に触れると、ほんの少しだけ冷たい。
水色の髪が後ろへ流れ、結んだリボンが風に揺れる。
アリアは顔を上げ、そのままもう一度風を受けた。
暑くないわけではない。
けれど身体の周りにまとわりついていた夏の空気を、風がすっとさらっていくようだった。
「気持ちいいね」
「うん」
隣を歩くルカの猫耳も、風を受けて細かな毛を揺らしている。
その足元では、マルルが妙に真剣な顔をしていた。
「耳が後ろ行くなの」
「ついてるよ」
アリアが答える。
「ほんと?」
「うん。二つある」
「ならいいなの」
「何を心配してるの?」
ルカが笑う。
マルルは何も答えず、風に流される自分の耳を確かめるように首を振っていた。
◇
木々を抜けると、舟着き場が見えてきた。
そこでアリアは、思わず足を止めた。
昨日、丘の上から眺めた小さな舟とはずいぶん違う。
湖の奥まで行くために用意された船は、十人以上が乗っても十分な広さがあり、中央には日差しを避けるための屋根と座席まで設けられていた。
船尾には、金属と青い石を組み合わせた魔道具が据えられている。
その前で出航の準備をしていた男が、アリアたちに気づいて一礼した。
「本日は私が船を預かります」
「船長さん?」
「はい」
「船を動かす人?」
「それも仕事の一つです」
「どっちに行くか決める人?」
「皆さんが行きたい場所へ、安全に連れていく者ですよ」
アリアはすぐに頷いた。
「じゃあ、すごく大事」
「そう思っていただければ嬉しいですね」
船と舟着き場の間に、乗り込むための板が掛けられた。
アリアはそこまで歩いていき、何気なく足元を見た。
「……近い」
水だった。
当たり前なのに、思っていたよりずっと近い。
少ししゃがめば手が届きそうなところで、水面が揺れている。
ちゃぷ。
ちゃぷ。
小さな波が船の横へ当たり、そのたびに船全体がほんのわずかに動いた。
アリアは板へ視線を戻す。
急に、自分が今までとはまったく違う乗り物へ乗ろうとしているのだと実感した。
馬車なら、その下には道がある。
でもこの下にあるのは、ずっと水だ。
「大丈夫?」
後ろからルカに聞かれ、アリアは一度だけ頷いた。
「うん」
一歩進む。
板がほんの少し沈んだ。
もう一歩。
船の中へ足を下ろす。
「乗った!」
すぐに振り返った。
「ルカ、乗ったよ!」
「見てるよ」
「揺れる!」
「船だからね」
「でも面白い!」
続いてルカ、ノルン、セレフィナたちも乗り込んでくる。
そして最後にマルルが船へ入った途端。
「お魚なの!」
一目散に船縁へ向かった。
「マルル」
ルカが呼んだ時には、もう遅い。
前足を縁へ掛け、真下の水を覗き込んでいる。
「近いなの!」
「だから危ないって」
「何かいるなの!」
さらに身体を伸ばした、その時。
岸へ返った小さな波が船体へ当たり、船がふっと横へ揺れた。
「なのっ!」
マルルの後ろ足が一瞬浮き上がる。
ルカがすぐに身体を抱えた。
「ほら!」
「…………」
マルルの長い耳が固まった。
「落ちたらびしょびしょだよ」
「お魚いたなの」
「そこじゃないでしょ!」
「どこ!?」
今度はアリアが船縁へ行こうとする。
「アリアも行かない」
「……はぁい」
二人の様子を見ていた船長が苦笑した。
「船の上では、勝手に身を乗り出さないようにしてください。湖が静かに見えても、急に揺れることがありますから」
「はい!」
「なの」
マルルも一応返事はした。
けれど、水面から目だけは離していなかった。
◇
全員が席へ落ち着くと、舟着き場につながれていた綱が外された。
船長が船尾の魔道具へ触れると、青い石へ淡い光が灯り、低い響きが足元から船全体へ伝わってきた。
アリアは思わず下を見る。
馬車のように何かが大きく揺れたわけではない。
けれど船尾の水がゆっくりと押し分けられ、気づけば船が岸から離れ始めていた。
「……あれ?」
身体はほとんど揺れていない。
車輪が石を踏む音もない。
なのに、さっきまで目の前にあった舟着き場が少しずつ遠くなっていく。
「動いてる」
「動いてるね」
ルカが答える。
「でも、がたがたしない」
街道を走る馬車なら、どれだけ立派でも道の凹凸は身体へ伝わってきた。
車輪が石を越えれば揺れ、土の柔らかな場所を通れば音まで変わる。
けれど船は、小さく上下しながら水の上をそのまますべっていく。
これまで知っていた「進む」とは、まるで違った。
アリアは船縁から身を乗り出さないよう気をつけながら、横へ流れていく景色を見る。
岸辺の木々。
舟着き場。
少し高いところに建つ白い別邸。
どれも自分たちから離れていく。
「ルカ」
「なに?」
「お家が動いてるみたい」
「僕たちが動いてるんだよ」
「分かってるよ」
アリアは笑った。
「でも、そう見えるの」
道を歩いている時には、自分が景色の中を進んでいた。
今は、自分たちは同じ場所に座っているのに、景色の方がゆっくり後ろへ流れていく。
その不思議さにしばらく夢中になっていたアリアだったが、やがて船の後ろに別のものを見つけた。
「……なに、あれ」
進んできた水面へ、斜めの線が二本、大きく開いている。
船が進むたびに新しい波が生まれ、右へ、左へと広がっていく。その間にも細かな波紋が重なり、遠くへ行くほど形を崩しながら水面へ溶けていた。
アリアは最初に見つけた波を目で追った。
どこまで行くのだろう。
けれど一つを追いかけている間にも、新しい線が次々に生まれてくる。
「いっぱい出てくる」
「航跡ですね」
ノルンが隣から言った。
「こうせき?」
「船が通ったあとにできる波です」
「船が作ってるの?」
「そうですよ」
アリアはもう一度、水面を見る。
船が進む。
波が生まれる。
広がって、少しずつ消えていく。
その間にも次の波が生まれている。
「……ずっと見てられる」
「湖を見るんじゃなかったの?」
ルカが笑う。
「これも湖だよ」
「まあ、そうだけど」
アリアはしばらく本当に、後ろへ伸びていく波から目を離さなかった。
◇
岸を離れるにつれて、湖を渡る風は少しずつ強くなっていった。
明るい日差しの中、水色の髪が後ろへ流れ、結んだリボンがぱたぱたと揺れる。
アリアは顔へ当たる風を避けるどころか、少し顎を上げて正面から受けていた。
飛んでいる時にも風は感じる。
けれど、自分の羽で空を進む時とは違う。
今日は水の上を進む船に身体を預けながら、遠くから湖を渡ってきた涼しい風だけが頬と髪の間を通り抜けていく。
「飛んでないのに、風いっぱい」
「船が進んでるからね」
ルカも耳を少し伏せながら笑った。
その横では、マルルが両前足を一生懸命頭へ伸ばそうとしている。
「耳がまた後ろなの!」
「押さえなくても大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないなの!」
「なくならないよ?」
「そういう問題じゃないなの!」
アリアが笑うと、マルルはますます真剣な顔で風に流される耳を気にしていた。
◇
しばらくすると、進行方向から一艘の漁船が近づいてきた。
船長が少しだけ舵を切る。
さっきまで真っ直ぐだった船の向きが変わったことに気づき、アリアは前を見た。
「曲がるの?」
「前から船が来ていますからね」
「ぶつかる?」
「ぶつからないために曲がるんですよ」
見ると、向こうの漁船も少し進む向きを変えている。
「同じ方に行った」
「この湖では、正面から船同士が近づいた時には、お互いに右側へ避けることになっています」
「決まりなの?」
「ええ。漁船も、荷を運ぶ船も、人を乗せる船も同じですよ」
アリアは湖面を見た。
道はない。
街道のように土の色が変わっているわけでも、石が並べられているわけでもない。
それなのに、みんなが同じ決まりを知っているからぶつからずに進める。
「道ないのに、道みたい」
「そうですね」
船長が頷いた。
「何も決まりがなければ、船が多い場所では危ないですから」
すれ違う漁船から男が手を上げ、こちらの船長も片手を上げて返す。
その後ろには、いくつもの魚籠が積まれていた。
「お魚……」
マルルの視線だけが、誰より正確にそこを追っていく。
「やっぱり見てた」
ルカが呟いた。
◇
さらに沖へ出ると、今度は荷を積んだ大きな船とすれ違った。
アリアたちの乗っている船よりずっと高く、横を通り過ぎる間、アリアは顔を上げてその船体を見送った。
「大きいね」
「湖の向こうまで荷物を運ぶ船でしょう」
ノルンが答える。
大きな船が少しずつ遠ざかっていく。
もうずいぶん離れたと思った頃だった。
「少し揺れますよ」
船長の声がした。
「え?」
アリアが前を見る。
大きな船はもう遠い。
それなのに船長は進路を変え、船首を少し斜めへ向けた。
「どうしたの?」
「あの船が作った波が来ます」
「波?」
言われて水面を見る。
最初は何も分からなかった。
けれど目を凝らしていると、遠くから何本かの水面の盛り上がりがこちらへ近づいてくる。
「ほんとだ」
船はもう遠くにいるのに。
その船が残した波だけが、あとから追いかけてくる。
「横から大きな波を受けると船が傾きやすいので、できるだけ船首を波へ向けるんです」
「波に向かって行くの?」
「その方が安定します」
アリアは船の前を見た。
さっきまで平らに見えていた水面が、ゆっくり近づいてくる。
そして。
ざぶん。
船首がふわりと持ち上がった。
「わっ!」
身体まで一緒に上がり、次の瞬間にはゆっくり戻っていく。
もう一つ。
ざぶん。
「わあ!」
怖いと思うより先に、水と一緒に身体が上下する感覚が面白かった。
アリアは座席をつかみながら笑う。
けれど向かい側では、マルルがルカへしがみついていた。
「聞いてないなの!」
「何を?」
「船、跳ねるなの!」
「ちょっと揺れただけだよ」
「大きかったなの!」
波が通り過ぎると、船は何事もなかったようにまた静かに進み始めた。
ルカは遠ざかる大きな船と、今通り過ぎた波を見比べている。
「船はもうあんなに遠いのに、波はあとから来るんだ」
「ええ」
「少しの間、残るんですね」
「そうですね」
アリアも、さっき自分たちの船の後ろへ広がっていた航跡を思い出した。
船が通ったあとには、すぐには消えないものが残る。
少しずつ広がりながら、遠くまで伝わっていく。
水の上には道がないと思っていたのに、船が通ったあとだけは、ほんの少しの間、その道筋が見えるようだった。
◇
太陽が少し高くなる頃には、周囲の景色もすっかり変わっていた。
岸は遠くなり、水面には日差しが反射している。船の向きが少し変わるだけで、さっきまで青かった場所が突然白く輝き、また別の場所へ光が移っていく。
「あそこ、光った」
アリアが指をさす。
けれど船が進んでいるうちに、光はもう少し横へ移ったように見える。
「動く」
「太陽の光が水面で反射しているのですよ」
セレフィナが答えた。
「追いかけたら捕まる?」
「おそらく、ずっと逃げますね」
「ずっと?」
「ええ」
アリアは少し考えた。
「じゃあ、ずっと遊べるね」
予想していなかった答えだったのか、セレフィナが声を上げて笑った。
◇
それからしばらくして、アリアのお腹が小さく鳴った。
「…………」
そっと隣を見る。
ルカも聞こえたらしい。
「お腹空いた?」
「ちょっとだけ」
「朝いっぱい食べてたのに」
「船に乗ったから」
「関係ある?」
「あるかも」
アリアは辺りを見回した。
岸はずっと遠い。
別邸がどこにあるのかも、もうよく分からない。
「お昼どうするの?」
セレフィナを見る。
「一回帰る?」
「帰りませんよ」
「え?」
その時、後ろにいた従者たちが動き始めた。
屋根の下の、さっきまで座席だけだった場所へ小さな卓が据えられ、白い布が掛けられる。
籠が運ばれ。
皿が並べられ。
あっという間に食事をする場所が出来上がっていく。
アリアは卓を見た。
湖を見る。
もう一度卓を見る。
「……ここで?」
「ええ」
「ここでごはん食べるの?」
「そのつもりです」
「船で!?」
セレフィナが楽しそうに笑う。
「せっかく湖へ出たのですから」
「わあ……!」
朝から何度驚いたのか、もう分からない。
けれど、これは聞いていなかった。
アリアはすぐに卓へ近づいた。
「何あるの?」
「座ってから見ましょう」
「はぁい!」
返事だけは、とても素直だった。
◇
昼食には、ミレア湖で獲れた白身魚が使われていた。
薄く焼いた身には香草と少し酸味のあるソースが添えられ、小さなパンと冷たい野菜も並んでいる。
透明なスープの中には、小さな貝がいくつか入っていた。
アリアは匙ですくい上げ、まじまじと見る。
「これ、貝?」
「そうですよ」
「湖にもいるの?」
「います」
「海じゃないのに?」
「貝がいるのは海だけではありませんよ」
「へえ……」
知らなかった。
口へ入れてみると、強い味ではないけれど、噛むとほんの少し甘みがあり、スープにもやさしい味が溶けている。
「おいしい」
今度は白身魚。
柔らかな身を一口食べる。
「これもおいしい」
向かいでは、マルルが無言で魚を食べ続けていた。
普段なら何かしら喋っているのに、今日は口を動かす方が忙しいらしい。
「マルル」
「なの?」
「おいしい?」
「今忙しいなの」
「やっぱり」
アリアが笑った。
船の上を、涼しい風が抜けていく。
少し顔を上げれば、どちらを向いても湖がある。
水面が動き。
景色もゆっくり動き。
自分たちが座っている船まで、小さく揺れている。
「同じごはんでも、ここだと違うね」
アリアが言うと、ルカが首を傾げた。
「どう違うの?」
「うーん……」
アリアも考えてみた。
「いっぱいある」
「何が?」
「風とか、お水とか、船とか」
「味じゃないじゃん」
「でも、おいしいの!」
ノルンが小さく笑う。
「場所も食事の一部ということかもしれませんね」
「それ!」
「今、絶対分かってなかったでしょ」
「分かったよ!」
笑い声が、水の上へ流れていった。
◇
昼食が終わる頃には、船は湖のずいぶん奥まで来ていた。
振り返っても岸は遠く、陸地は水と空の間に細く見えるだけになっている。
アリアはしばらく湖を眺めていたが、ふと朝からずっと心の隅に置いていたものを思い出した。
「……コンパクト」
マルルの耳が動く。
「見るなの?」
「うん」
さっきまで船や食事を楽しんでいた気持ちの中へ、少しだけ緊張が戻ってくる。
今日ここへ来た本当の目的。
三つ目の欠片。
昨日、別邸の窓から見た青い光。
あれが、この湖のどこを示しているのか。
マルルが首元のコンパクトへ前足を添えた。
皆が見守る中、しばらく待つ。
やがて。
リン。
澄んだ音が鳴った。
かちり、と蓋がひとりでに開き、その中から青い光が湖の上へ真っ直ぐ伸びていく。
「出た」
アリアが小さく言った。
昨日と同じだった。
やはり岸ではない。
船の先。
もっと向こうへ、細い光が伸びている。
「船長さん」
「はい」
「この光の方へ行ける?」
「行ってみましょう」
船がゆっくり進む向きを変えた。
水の上には道がない。
けれど今は、コンパクトの青い光だけが、細い一本の道のように湖面の先を示している。
アリアはその先をじっと見つめた。
少し前までは、何もない水の上を進むことそのものが楽しかった。
今は、その何もない場所のどこかに、自分たちが探し続けているものがあるかもしれない。
同じ湖なのに。
さっきまでとは、少し違って見えた。
◇
船はしばらく、青い光が示す方角へ進んだ。
行けば行くほど陸は遠ざかり、別邸も舟着き場も、もうどちらにあるのか分からない。
船長が周囲を見渡した。
「この辺りで、かなり湖の中央に近いですね」
「真ん中?」
「ええ。おおよそ中央です」
アリアは座席から立ち上がらないよう気をつけながら、辺りをゆっくり見回した。
島はない。
岩もない。
何かが浮かんでいるわけでもない。
風に揺れる青い水が、どちらを向いても空の下いっぱいに広がっているだけだった。
「……何もないね」
「そうだね」
ルカも湖を見回していた。
けれどマルルのコンパクトから伸びる青い光だけは、まだ途切れていない。
船縁を越え、そのまま遠くへ伸びている。
まるで、水の上にだけ見える細い道だった。
「もう少し先なの?」
アリアが聞く。
マルルは光の向こうへ顔を向けた。
「まだ先なの」
「じゃあ、もうちょっと行ってみよう」
船は再び進み始めた。
水面が左右へ分かれ、後ろへ流れていく。
しばらくしてから、アリアはもう一度マルルへ尋ねた。
「どう?」
「まだなの」
「まだ?」
「まだ先なの」
「遠いのかな……」
そう言いながら、アリアは少し不思議に感じ始めていた。
船は確かに進んでいる。
周りの景色も変わっている。
さっき遠くに見えていた漁船は、もうずっと後ろだ。
なのに、光の先へ近づいている感じがしない。
隣でルカも同じことを考えていたらしく、しばらく光を見つめたあと、船長へ顔を向けた。
「船長さん」
「はい」
「一度、右へ曲がってもらってもいいですか?」
「曲がるの?」
アリアが振り返る。
「うん。ちょっと確かめたい」
船長は理由を聞かず、ゆっくりと舵を切った。
船首が右へ向かう。
さっきまで正面に広がっていた水面が横へ流れ、遠くに見える岸の位置も少しずつ変わっていく。
アリアは湖ではなく、コンパクトの光を見ていた。
「……あれ?」
光も動いている。
船の向きが変わるにつれて、船縁から伸びていた青い線も湖面の上を滑るように向きを変えていく。
そして、船が新しい方向を向き終えた時。
青い光はまた。
自分たちの正面へ伸びていた。
「ルカ」
「うん」
「光も曲がった」
「僕もそう見えた」
ルカは少し考える。
「反対にもお願いします」
「分かりました」
船は今度、左へ大きく弧を描いた。
アリアはコンパクトから目を離さない。
船首が動く。
景色が入れ替わる。
青い光も、それに合わせてゆっくり向きを変えていく。
そして船が止まれば。
また、正面。
「……また前」
アリアの声が少し小さくなった。
「なの」
マルルも不思議そうにコンパクトを覗いている。
「ずっと前なの」
ノルンも光と湖を見比べた。
「もし、欠片が湖の中の決まった場所にあるのなら、船の向きを変えれば光は横や後ろを示すはずです」
「そうだよね」
ルカが頷く。
「でも、そうならない」
アリアには、だんだん何がおかしいのか分かってきた。
船は右にも行ける。
左にも行ける。
来た道へ戻ることだってできる。
なのに、光だけはどちらを向いても自分たちの前にある。
「じゃあ……」
アリアはコンパクトを見た。
「どっちなの?」
誰もすぐには答えなかった。
ルカはもう少し考えてから、再び船長へ声を掛けた。
「今度は、来た方へ向いてもらえますか?」
「戻る方向ですね」
「はい」
船がゆっくり半周していく。
さっきまで背後にあった方角が、少しずつ正面へ回ってきた。
遠く、霞んだ陸地が見える。
あちらから自分たちは来た。
アリアにも、それは分かった。
「戻る方だね」
「うん」
ルカが答える。
船が完全に向きを変えた。
アリアは、コンパクトを見る。
「…………」
青い光は。
戻ってきた岸の方へ向かって。
また船の正面から真っ直ぐ伸びていた。
「……こっちにもあるの?」
「違うと思う」
ルカの返事は早かった。
けれど、その声はさっきまでより真剣だった。
「これ、場所を教えてるんじゃないんじゃないかな」
「場所じゃない?」
「うん。だって、どっちを向いても前になるんだよ」
右へ向いても。
左へ向いても。
戻る方を向いても。
光は、その先。
「じゃあ、何を教えてるの?」
「それが分からない」
ノルンも静かに湖へ目を向けた。
「少なくとも、普通の方角を示しているようには見えませんね」
「普通じゃない……」
アリアはその言葉を繰り返した。
湖の上を広く渡ってきた風が吹き抜け、水色の髪と背中の小さな羽を揺らしていく。
さっきまで、ここはどこへでも行ける場所のように思えた。
水の上に道はない。
だから船なら、右へも左へも自由に進める。
岸から離れても、船長がいれば戻ることだってできる。
道がないからこそ、どこへでも行けるのだと思っていた。
けれど今は。
どちらへ進んでも、その先を示される。
右でもない。
左でもない。
戻ってきた方でもない。
まるで、自分たちが探している場所だけが、この湖のどの方角にもないようだった。
しばらく、誰も話さなかった。
船体へ当たる水の音。
魔道具の低い響き。
風が水面を渡る音。
その中で、ノルンが静かに口を開いた。
「求むる者は辿り着けず」
「…………」
アリアが振り返る。
昨日まで、ただ不思議な歌だった。
月影の浮かぶ水鏡。
求むる者は辿り着けず。
忘れられし空の子のみ。
その門を見る。
満月の夜、湖の中心に現れるという何かと一緒に伝えられてきた言葉。
そして今日、自分たちは実際に湖の中央近くまで来た。
コンパクトも反応している。
それなのに。
どちらへ進めばいいのかさえ、分からない。
「……ほんとに」
アリアが小さく呟いた。
「辿り着けないんだ」
ルカもノルンも、すぐには何も言わなかった。
まだ、分からないことの方が多い。
今日は満月ではない。
歌に出てくる「門」も見えていない。
青い光が本当は何を示しているのかも、分からない。
それでも、昨日より一つだけ分かったことがあった。
この湖のどこかへ、ただ船を進めればいいわけではない。
アリアはもう一度、どこまでも続く水面を見渡した。
昼の光を映す湖は、さっきと何も変わらず穏やかだった。
この水の下なのか。
それとも。
今はどこにも見えていない場所なのか。
探しているものがどこにあるのかは、まだ分からない。
「……この歌」
アリアが呟いた。
「やっぱり、欠片と関係あるのかな」
「可能性は高くなったと思う」
ルカが答えた。
「でも、まだ決めつけない方がいい」
「うん」
アリアも頷いた。
コンパクトから伸びる青い光は、向きを変えた船の正面から相変わらず遠くへ続いていた。
少し前まで、それは欠片へ続く道なのだと思っていた。
けれど今は。
どこへ続いているのかさえ、誰にも分からない。
道のない湖の上に見える、一本の青い道。
その先だけが、まだどこにもなかった。




