↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
森で拾ったのは、半人前の天使でした ― ラグドール一家と小さな天使 ―  作者: くいたん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
82/110

第78話 湖の見える部屋


 馬車がゆっくりと速度を落とし、窓の外を流れていた白い壁が少しずつ動きを止めていった。


 石畳を転がっていた車輪の音も静かになり、最後に馬が小さく鼻を鳴らす。


 アリアは窓の外へ向けていた顔を戻した。


「着いた?」


「ええ。着きましたよ」


 向かいに座るセレフィナが手袋を外しながら答える。


 その言葉を聞いた途端、アリアはすぐに立ち上がりかけた。


 けれど、馬車の扉はまだ閉まっている。


「あ」


 途中で動きを止め、そのまま元の席へ座り直した。


「……まだだね」


「よく待てましたね」


「うん!」


 褒められた途端、アリアの背筋が少しだけ伸びた。


 隣でルカが笑っているのが見えたけれど、何も言わないことにする。


 やがて外から声が掛かり、扉が開いた。


 従者が横へ退くと、アリアは今度こそ席を立ち、ワンピースの裾を気にしながら足元を確かめて一段ずつ降りていった。


 最後の段から地面へ足を下ろすと、白い砂利が靴の下でしゃり、と小さな音を立てる。


 そこでようやく顔を上げたアリアは、目の前に広がる光景を見て動きを止めた。


 大きな玄関の前に、たくさんの人が並んでいた。


 中央には黒い上着をきちんと着込んだ年配の男性。その左右には揃いの服を着た侍女たちが並び、その後ろにも使用人らしい人たちが何人もいる。


 どこまで続いているのだろう。


 アリアは端から順番に目で追いながら、最初はこっそり人数を数えてみた。


 一人、二人、三人。


 その先にもまだいる。


 すぐに諦めた。


「……いっぱい」


 思わず隣に立ったルカの袖をつまむ。


「いるね」


 ルカも少し驚いたように答えた。


 エルヴァレイン伯爵家も大きな屋敷だったけれど、知らない人がこんなふうに一斉に並んで自分たちを待っている光景には、まだ慣れていない。


 そこへセレフィナが馬車から降りてくると、中央にいた男性が一歩前へ出た。


「大奥様。お帰りなさいませ」


「ええ。戻りました」


 セレフィナがいつもと変わらない様子で答える。


 すると次の瞬間、並んでいた使用人たちが揃って頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


「わっ」


 思わずアリアの肩が上がった。


 声だけではない。


 頭を下げる速さも、身体を起こすタイミングも、驚くほどぴたりと揃っている。


 アリアは自分の足元を見て、それからセレフィナを見た。


「アリア」


「なあに?」


「ご挨拶を」


「あ!」


 そうだった。


 慌ててルカの袖を離し、セレフィナの横へ出る。


 昨日まで何度か見た大人たちの挨拶を思い出しながら、両足を揃えて背筋を伸ばした。


 手は身体の前。


 それから。


「こんにちは。アリアです!」


 ぺこりと頭を下げた。


 少し勢いがつきすぎて、身体まで前へ持っていかれる。


「わっ」


 横からルカの手が肩へ触れた。


「アリア」


「だいじょうぶ!」


 慌てて身体を起こすと、並んでいる人たちの間から小さく息を漏らすような笑い声が聞こえた。


 失敗したのだろうか。


 アリアがそっと顔を上げる。


 けれど、誰も怖い顔はしていなかった。


 目が合った侍女の一人が、やさしく微笑んでいる。


 それを見ているうちに、さっきまで少し固くなっていた肩の力が抜けた。


 アリアもつられて笑う。


 先頭に立つ男性が、改めて穏やかに頭を下げた。


「この別邸をお預かりしております、オルドと申します」


「おるど?」


「はい」


「よろしくお願いします!」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 今度のアリアは、さっきよりほんの少しだけゆっくり頭を下げた。


 今ならたぶん、上手にできた。


 そう思って身体を起こすと、ルカも何も言わなかったので、きっと大丈夫だったのだろう。


 続いてルカとノルンも挨拶をし、エリオも一歩前へ出てオルドと言葉を交わす。


 最後に、アリアの足元から小さな声がした。


「マルルなの!」


 使用人たちの視線が、一斉に下へ向いた。


 白いロップイヤーが、みんなに見られていることなどまったく気にした様子もなく胸を張る。


「よろしくなの!」


 オルドはほんの一瞬だけ目を見開いた。


 けれど、すぐに元の穏やかな表情へ戻る。


「はい。よろしくお願いいたします」


 きちんと返事をしてもらえたマルルの耳が、嬉しそうにふわりと揺れた。


     ◇


 玄関をくぐった途端、外の明るさから切り離されたように空気が少しひんやりした。


 アリアはセレフィナについて数歩進み、それから自然と足を緩めた。


 高い天井の下に、大きな玄関広間が広がっている。


 正面には左右へ分かれて上へ続く階段があり、磨かれた床には窓から入った光が淡く映っていた。壁には湖や森を描いた絵が掛けられ、花瓶には庭から摘んだらしい花がたっぷりと生けられている。


 アリアの顔が、少しずつ上を向いていった。


 こんなに高いところまで部屋なのだろうか。


 天井から下がる大きな灯りを見て、階段を見て、その向こうまで続く廊下を見る。


「……ひろい」


 思わず漏れた声が、高い天井へふわりと返った。


 アリアはぱちりと目を瞬く。


「聞こえた」


「響いたんだよ」


 隣を歩くルカが答えた。


「もう一回やっていい?」


「何を?」


 アリアはもう一度天井を見上げ、大きく息を吸った。


「ひろー……」


「アリア」


 最後まで言う前に、セレフィナから名前を呼ばれた。


「……はぁい」


 素直に口を閉じる。


 けれど、笑いそうになっている口元までは隠せなかった。


 少し先を歩いていたイレーネが、ほんの少しだけ振り返ったように見えた。


     ◇


 侍女に案内されて二階へ上がると、長い廊下には大きな窓がいくつも並んでいた。


 その一つを通り過ぎた時、アリアの足がふと止まる。


「あ」


 窓の向こうに青い水面が見えた。


「湖」


 丘の上で初めて見た時には、あまりにも大きくて、どこまでが湖なのかもよく分からなかった。


 今は屋敷のすぐそばにある。


 窓の向こうから見える水面は、庭の木々のその先で、まだずっと遠くまで続いていた。


「アリア」


 少し先からルカに呼ばれる。


「うん!」


 慌てて皆のあとを追う。


 次の窓の前を通れば、また湖が見えた。


 今度は止まらなかった。


 ただし、顔だけは湖へ向いたままだった。


「前見ないとぶつかるよ」


「見てるよ」


「湖を?」


「前も!」


「ほんとかな」


 ルカの言葉を聞き流しながら、アリアはもう一度だけ窓の向こうへ目をやった。


 こんなに大きな湖が、本当に毎日ここにあるのだろうか。


 まだ少しだけ、不思議だった。


     ◇


「こちらのお部屋をお使いください」


 侍女が一つの扉を開いた。


 アリアは中を覗き込み、まず大きな寝台を見つけた。


 白い掛布には淡い青の刺繍が入り、その隣にはもう一つ、少し小さな寝台が用意されている。窓辺には丸い卓と二脚の椅子があり、壁際にはアリアでも使えそうな小さな机まで置かれていた。


 花瓶には白い花。


 床には柔らかそうな絨毯。


 そっと部屋へ足を踏み入れると、靴の下が思っていたより深く沈んだ。


「……ふわふわ」


 もう一歩進んでみる。


 やっぱり、ふわふわしている。


 今度は寝台へ近づき、掛布の上から手のひらでそっと押してみた。


 ふか。


 もう一度。


 ふか。


 少し楽しくなって、アリアは振り返った。


「ノルン」


「はい?」


「触って」


 言われるままノルンも寝台へ手を置いた。


「柔らかいですね」


「ね!」


 どうやら自分だけが驚いたわけではないらしい。


 それだけで満足していたアリアだったが、ふと部屋の奥で揺れている薄いカーテンが目に入った。


 風に押されて膨らんだその向こうから、青い光が揺れている。


 アリアはゆっくり窓へ近づいた。


 カーテンの間から外を見る。


「…………」


 思わず、しばらく何も言えなくなった。


 さっきまで丘の上から見下ろしていた湖が、今度は窓いっぱいに広がっている。


 庭の木々の向こうから始まった青い水面は遠くまで続き、水際では小さな白い鳥が飛んでいた。


 さらに遠くには、小さな舟。


 風が湖面を撫でるたび、午後の光が細かく揺れている。


「……ここで寝るの?」


「そうですよ」


 後ろにいた侍女が答えた。


 アリアは窓から目を離さないまま、もう一つ聞いた。


「朝も?」


「もちろんです」


「起きたら、まだある?」


 部屋へ入ってきたルカが吹き出した。


「湖はなくならないよ」


「でも、起きたら最初に見える?」


「カーテンを開ければね」


「…………」


 アリアの顔に、ゆっくり笑みが広がった。


「ここ好き」


「早いなあ。まだ来たばっかりでしょ」


「でも好き!」


 理由なら、もう十分あった。


 朝起きたら湖が見える。


 それだけで、この部屋はもう好きだった。


 足元からマルルが何度も窓を見上げている。


「マルルも見るなの」


「自分じゃ見えないもんね」


 ルカが抱き上げ、窓の外へ向けてやる。


 マルルは長い耳を揺らしながら、しばらく真剣に湖を見つめた。


「どう?」


「……お魚見えないなの」


「やっぱりそこなんだ」


 アリアが笑う。


 けれどマルルにとっては、たぶん湖よりそちらの方が大事なのだろう。


     ◇


 荷物を置いて少し休んだあと、アリアたちは夕食のため一階の食堂へ案内された。


 大きな扉の向こうにあったのは、今度もアリアが思わず足を止めたくなるような部屋だった。


 長い卓には真っ白な卓布が掛けられ、磨かれた食器がきちんと並んでいる。中央には小さな花が飾られ、その向こうにある窓からは、夕方の色へ変わり始めたミレア湖まで見えていた。


 侍女が椅子を引いてくれる。


「どうぞ」


「あ、はい!」


 アリアは慌てて腰を下ろした。


 こういう時、どうすればいいのかは少しずつ覚えてきた。


 けれど自分から椅子を引かずに待っていることには、まだ少し慣れない。


 隣へ座ったルカも、いつもより少しだけ姿勢がいい。


 ほどなく最初の料理が運ばれてきた。


 淡い緑色をした冷たいスープと、小さなパン。


 アリアは匙へ手を伸ばしかけ、一度止めた。


 向かいのセレフィナを見る。


 匙をどう持つのか。


 どのくらいすくうのか。


 昨日まで一緒に食事をしているうちに、少しずつ分かるようになってきたけれど、念のためもう一度確かめてから同じように持つ。


 そっと一口。


「…………」


 目が丸くなった。


 もう一口飲む。


「冷たい」


「お口に合いませんでしたか?」


 セレフィナが尋ねる。


 アリアは急いで首を横へ振った。


「おいしい! でも冷たいのに、スープ!」


「温かいものばかりではありませんよ」


「へえ……」


 そういうものもあるらしい。


 知らない食べ方を一つ覚えた気分で、今度はパンを小さくちぎる。


 最初の頃より、手の動きも少しだけ丁寧になっていた。


 続いて料理が運ばれてくると、香草の匂いがふわりと広がった。


 焼いた白身魚だった。


 薄く焼き色のついた身の横には野菜が添えられ、その上で透明なソースが光っている。


 その皿が卓へ置かれた瞬間。


 マルルの耳が、ぴんと持ち上がった。


 それまでとは明らかに違う。


 ルカが横を見る。


「マルル」


「なの?」


「顔」


「顔?」


「すごいよ」


「普通なの」


 まったく普通ではなかった。


 目が魚から離れていない。


 アリアは笑いをこらえながら、自分の前へ置かれた魚を一口食べた。


 ほろりと柔らかな身がほどけ、香草の匂いと一緒に口の中へ広がる。


「……!」


 声を出すより先に、もう一口食べた。


 それを見ていたセレフィナが微笑む。


「気に入りましたか?」


「うん!」


 アリアは大きく頷いた。


「すっごくおいしい!」


 その隣では、マルルが誰とも話さず黙々と魚を食べている。


 長い耳だけが、食べるたびに嬉しそうに動いていた。


     ◇


 食事が終わる頃には、窓の外の空が少しずつ薄い橙色へ変わっていた。


 昼間には青かった湖も同じ色を映し、風が止まったところだけは、空の色をそのまま水の中へ閉じ込めたように静かになっている。


 アリアは椅子へ座ったまま、その光景を眺めていた。


 朝には、ここで起きたら湖が見える。


 夕方には、空と一緒に色が変わる。


 明日の朝はどんな色なのだろう。


 そんなことを考えていた時だった。


 無意識に胸元へ触れた指が、白い羽根のネックレスへ当たる。


「あ」


 小さな声が漏れた。


 隣にいたルカが振り返る。


「どうしたの?」


 アリアもルカを見る。


「欠片」


 今度はルカの目が少し大きくなった。


「あ」


「忘れてた?」


「忘れてないよ」


「今、あって言ったよ」


「アリアも今思い出したんでしょ」


「うん」


 二人で顔を見合わせ、少しだけ笑った。


 湖があまりにも大きくて、部屋も食事も初めてのものばかりで、ここまで来た一番の理由をほんの少し後ろへ置いてしまっていた。


 ノルンが窓の向こうへ目を向ける。


「一度、確かめておいた方がよさそうですね」


「うん」


 ようやく辿り着いたミレア湖。


 ここへ来れば、コンパクトが何を示すのか分かるかもしれない。


 そう思い出した途端、さっきまでただきれいだった湖が、少しだけ違って見えた。


     ◇


 部屋へ戻る頃には、空は青から紫へ変わり始めていた。


 窓の向こうに広がる湖も、昼間の輝きを少しずつ失い、遠くから夜が近づいてくるように色を深めている。


 マルルが窓辺へ座り、首元の小さなコンパクトへ顔を向けた。


「反応するなの?」


「どうかな」


 アリアもすぐそばへしゃがみ込む。


 ルカとノルンも近くへ来た。


 誰も何も言わず、小さなコンパクトを見つめる。


 すぐには何も起こらなかった。


 けれど。


 リン。


 澄んだ音が、静かな部屋へ小さく響いた。


 アリアの目が大きくなる。


 かちり、と蓋がひとりでに開いた。


 そして次の瞬間。


 中から伸びた青い光が、窓の方へ向かった。


「……!」


 アリアは立ち上がり、光の先を追うように窓へ近づいた。


 青い光はガラスの向こうへ伸び、その先にあるミレア湖をまっすぐ指している。


 岸ではない。


 別邸の近くでもない。


 もっと向こう。


 暗くなり始めた湖の奥へ、細い光がどこまでも伸びていた。


挿絵(By みてみん)


「湖だね」


 隣へ来たルカが言った。


「うん」


 やっぱり、ここだった。


 何日もかけて南へ進み、ようやく辿り着いた場所を、コンパクトも確かに示している。


 それだけなら嬉しいはずだった。


 けれどアリアは、すぐには笑わなかった。


「どこまで行ってるんだろう」


 窓へ近づき、光の先へ目を凝らす。


 マルルも同じ方角へ顔を向けた。


「もっと向こうなの」


「向こう?」


「ずっと向こうなの」


 ノルンも窓辺へ来る。


 光の向きと湖をしばらく見比べてから、静かに口を開いた。


「湖の中央に近いように見えます」


「真ん中……」


 ルカの声が少し低くなった。


 アリアもその言葉を繰り返す。


「……まんなか」


 窓の外を見る。


 昼間にはどこまでも青かった湖が、今は少しずつ夕暮れの色へ沈み始めている。


 その真ん中。


 そこに何があるのだろう。


 目を凝らしても、舟らしい小さな影が遠くに見えるだけで、特別なものは何もない。


「何もないね」


「今はね」


 ルカも同じ場所を見つめていた。


 その「今は」という言葉を聞いた時、アリアの中で何かが引っ掛かった。


 湖の真ん中。


 今は何もない。


 けれど。


「あ……」


 少し前に聞いた話が、ゆっくり浮かんでくる。


「ルカ」


「なに?」


「エレノアおばあちゃんのお話」


 ルカも一瞬だけ考え、すぐに表情を変えた。


「満月?」


「うん」


 満月の夜。


 湖の中央に現れるという、不思議なもの。


 近づこうとしても、決して辿り着くことのできない何か。


 あの時は昔から伝わる不思議な話として聞いていた。


 けれど今、コンパクトの青い光が指しているのは、その湖の中心だった。


 ノルンも同じことを思い出したらしい。


 しばらく湖を見たあと、静かに口を開く。


「月影の浮かぶ水鏡」


 アリアの視線が止まった。


「求むる者は辿り着けず」


 ルカも何も言わない。


「忘れられし空の子のみ、その門を見る」


 最後の言葉を聞いた時、アリアは自分の背中にある小さな羽を意識した。


 けれど、すぐに自分のことだとは思えなかった。


 ただ、青い光と。


 湖の中心と。


 聞いたばかりの古い歌が。


 今まで別々だったものなのに、少しずつ近づいてきたような気がした。


「もしかして」


 アリアが小さく呟く。


「あのお話、欠片と関係あるのかな」


「分からない」


 ルカはすぐに決めつけず、窓の向こうへ目を向けたまま答えた。


「でも、調べた方がいいと思う」


「うん」


 ノルンも頷く。


「まず、次の満月がいつなのか確認しましょう」


「満月……」


 アリアは暗くなり始めた湖を見た。


 もし、あの不思議なものが満月の夜にしか現れないのなら。


 次に確かめられるのは、その時になる。


「いつ?」


     ◇


 事情を聞いたセレフィナが、ほどなくイレーネと一緒に部屋へやって来た。


「次の満月を知りたいのですか?」


 イレーネに聞かれ、アリアはすぐに頷いた。


「うん。いつ?」


 イレーネは少し考えたあと、窓の外へ目を向けた。


 もう薄暗くなった空には、まだ月の姿は見えていない。


「前の満月が、昨日でしたから」


「…………」


 アリアの顔が止まった。


「昨日?」


「はい」


「きのう、満月だったの?」


「そうですよ」


 今度はルカが窓を見る。


 アリアもつられて振り返った。


 今日ようやく辿り着いた湖は、何事もなかったように静かに夕暮れの色を映している。


 昨日。


 自分たちがまだここへ着いていなかった時には、あの水面に丸い月が映っていたのだ。


「じゃあ……次は?」


 アリアがもう一度イレーネを見る。


「およそ一か月後になりますね」


「…………」


 今度は誰もすぐに何も言わなかった。


 マルルの長い耳まで動きを止めている。


「……ひとつき?」


「はい」


 アリアは片手の人差し指を一本だけ立てた。


 一つ。


 たった一本なのに。


 一か月は、全然小さくない。


 これまでの旅で、何日も歩いた。


 馬車にも長く乗った。


 町へ着くまで二日、三日と聞けば、それだけでも遠いと思った。


 それが、一か月。


「長いね」


 ルカが小さく言った。


「うん……」


 アリアは窓の向こうへ目を戻した。


 今日、ようやく辿り着いた。


 コンパクトも、確かにここを指した。


 なのに、すぐに欠片を探しに行けるわけではなかった。


 湖の真ん中に何があるのか確かめるためには、また待たなければならない。


 窓辺へ近づいたアリアは、しばらく何も言わず湖を見つめていた。


「じゃあ」


 やがて振り返る。


「一か月、ここにいるの?」


 イレーネがセレフィナを見る。


 セレフィナもすぐには答えず、アリアたちと窓の向こうの湖を一度見比べた。


「そうなりそうですね」


「ひとつきも?」


「ええ」


 分かっていたはずなのに、もう一度聞くと、本当に長く感じた。


 アリアの顔から、さっきまでの明るさが少しだけ消えた。


「お父さんとお母さんに会うの、もっと遅くなるね」


 その言葉に、ルカも何も言わなかった。


 一か月ここへいるということは、それだけ欠片探しの旅が先へ進まないということでもある。


 全部の欠片を集めれば、お父さんとお母さんへつながる道が見つかるかもしれない。


 そう思って、ここまで進んできた。


 だから本当なら、明日にでも次へ進みたい。


 セレフィナは、そんなアリアを急かすことも、大丈夫だと簡単に励ますこともしなかった。


 ただ、一緒に待っていた。


 アリアはもう一度、湖を見る。


 コンパクトの青い光は、まだその奥を指している。


 遠い湖の真ん中。


 ここまで来なければ、分からなかった場所。


「でも」


 アリアは小さく息を吸った。


「欠片、ここにあるんだもんね」


「ええ」


「ここまで来たもんね」


「そうですね」


 一か月は長い。


 お父さんとお母さんへ会える日も、その分だけ遠くなる。


 けれど、ここを飛ばして先へ進むことはできない。


 アリアは窓枠の上へ置いていた小さな手を、ぎゅっと握った。


「じゃあ待つ」


 今度の声には、さっきまでの迷いが少しだけ減っていた。


「ちゃんと調べて、ちゃんと見つける」


 セレフィナが静かに頷く。


「ええ。それでいいと思いますよ」


 アリアはもう一度、窓の向こうへ顔を向けた。


 昼間には、あまりの大きさに何度も声を上げた湖。


 朝起きた時にも見たいと思った湖。


 今はその同じ水面のどこかに、自分たちが探しているものがある。


 そう思うと、さっきまでただきれいだった景色が、少しだけ違って見えた。


 夕暮れの色を映したミレア湖は何も答えないまま、静かにその向こうまで広がっている。


 次の満月まで、あと一か月。


 アリアたちの旅はしばらくこの湖のほとりで足を止めることになったけれど、それは進むのをやめるためではなかった。


 次の欠片へ辿り着くために、ここで待ち、ここで知るための一か月が始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。